表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トルコ石  作者: 葉櫻
四、法王
PR
36/61

4-3

生命の古い痕跡を追うには、どうしても海の底深くまで潜らなければならない。


人魚は美しく純潔で、争いを好まない種族だ。陸の種族が最も好んで描く伝説の生き物で、各国の神話やおとぎ話に登場する。しかし陸の生き物の多くは本物の人魚についてほとんど知らない。陸と海の交流はそれほど難しいものだったからだ。人魚の女王はよく理解していた。海の底に眠る清らかな古代魔法が世に知られれば、たちまち欲深い陸の種族が奪いに来るだろうと。世界を守る大切さを知っているのは深海の種族だけだった。だから彼女たちは、深海の人魚の領域にも太陽の光が届くことを陸の種族に教えなかった。むしろ海は危険で暗く、絶望的な場所だと思わせておく方を選んだ。


今代の人魚の女王には六人の娘がいて、皆海の底で評判の美女だった。中でも一番美しいのは末娘のアンリエットで、鮮やかな赤い髪、海のように碧い瞳、真珠色のなめらかな肌を持ち、泳ぐたびに鱗が陽光を受けて七色に輝いた。彼女の無邪気な笑顔と純粋な心は、いつも公務に忙しい王族の心を溶かし、彼女を守るためにさらに力を尽くさせた。


アンリエットはこうして大切に育てられながらも、政治にも触れ、人魚が遭難した船乗りを助けはするものの、陸の王国とは連絡を取らないことを知っていった。陸で暮らす種族は照りつける太陽や干ばつ、痩せた土地と向き合わねばならず、海の豊かさとはまるで違う。アンリエットは陸の種族に申し訳なさを感じずにはいられなかった。彼女にできることといえば、母を説得して、尾びれのない生き物たちにも海の美しさを知ってもらう価値があると伝えることだけだった。海と陸の繋がりを断ち切ったままでいるべきではない、まるで自分たちの世界が違うかのように。


もちろん母はそんな言葉だけで方針を変えたりはしなかった。けれどアンリエットには時間がたっぷりあった。いつか必ず、両方の世界に平和をもたらせると信じていた。



アンリエットは様々な種族の品を集めるのが好きだった。大切に育てられた彼女は、十六歳になるまで海面に浮かび上がって陸の世界を覗くことを許されなかった。魔族とエルフ族の愛憎の物語は、実際にはどういうものなのだろう。神話やおとぎ話には、どれほどの真実が含まれているのだろう。とりわけ人間に強い興味を抱いていた。人間は言葉を話す生き物の中で最も寿命が短く、長くてもせいぜい二百年。人魚の数千年の命と比べれば瞬きのようなものだ。それでも人間はあらゆる環境に最も適応できる種族で、魔族が支配する夜落の地にも、エルフ族が支配する日の出の地にも、豊かな人間の王国がある。母から、人間は信用できない種族だと聞いたことがある。利益のためだけに動き、忠誠心というものがない。人魚に対応する夜落の種族である海妖でさえ約束は守るのに、人間はいとも簡単に契約を破る、と。


アンリエットは母に言った。「でも、嘘をつく人魚が世界に一人もいないなんて、誰にも保証できないでしょう?」


女王は彼女の髪を愛おしげに撫でながら言った。「もちろんそうよ。でも前科のある種族を疑うのは必要なことなの」


アンリエットはそれでも、その固定観念に疑問を抱き続けた。彼女は自ら作った真珠と涙の宝石の装身具を持って、人魚と対立する海妖を訪ねた。


海妖は人魚と似ているが、肌に淡い緑の光をまとっていて、それが深い水域で活動するときに特別に不気味な美しさを醸し出す。嵐の中、海妖は命をかけて戦う船員たちを嘲笑い、普段は岩礁に座って船員を水に誘い込む歌を歌い、冷ややかな目で彼らが溺れていくのを眺める。


アンリエットが海妖一族のヒメロペ――後の海妖族族長――と友人になってから、状況は好転していった。アンリエットはヒメロペの手を握って甘えるように言った。「もう陸の生き物をいじめるのはやめて。それより、わたしたちのためにお花を摘んできてもらいましょうよ」


ヒメロペはアンリエットの赤い髪を梳きながら言った。「海妖の本性はそういうものなの。変えられないわ」


「陸の生き物って面白いの。最近、衛兵が人間の彫像を見つけたのよ」


ヒメロペは鼻で笑った。「人間は最悪の生き物よ」


実際に人間を見たことのないアンリエットは、その彫像をとても魅力的だと感じた。


彫像が新しい目印になると、子どもたちが「人間捕まえ」遊びをするようになった。それを良くないと感じた侍衛長が、アンリエットの命でその彫像を彼女の庭に移すことにした。アンリエットはヒメロペを誘って一緒に見たいと思ったが、ヒメロペはそんなものをわざわざ見に行く気はないと言った。きっと、もう人間の姿には見飽きているのだろう。


アンリエットは毎日彫像の前でしばらくぼんやりと過ごし、両足を持つ生き物の優雅な歩き方を想像した。彼女の丁寧な手入れのおかげで彫像はいつまでも輝くばかりに完璧だったが、彼女一人だけが寄り添う日々は、どこか孤独だった。


「職人に、お姫様の像も彫らせてはいかがですか?」アンリエットの悩みを聞いた乳母がそう提案した。


「この人間は王子なの?」アンリエットが聞いた。


乳母は彫像の衣装の紋様を指して言った。「これは人間の王国の紋様です。見たことはありますが、どこの国かは忘れてしまいました。人間の王国はめまぐるしく変わりますから。一つの国が興り、また一つの国が滅びる、まるで日の出と日没のように規則正しく、永遠には続きません」


アンリエットは幼い頃から、自分の未来はおとぎ話のようになると信じていた。ある日、美しく勇敢な異国の王子が現れ、愛のために彼女の足元にひざまずく。二人は海の底で盛大な結婚式を挙げる。彼女は永遠を信じていた。


彫像の前で愛の物語を一人芝居のように演じてみせることもよくあったが、彫像の目は虚ろで、手は冷たく、柔らかさもなかった。


アンリエットは自分の胸に手を当てた。温かく脈打つ血が、想像を膨らませるたびに沸き立っていく。


彫像のほかに、彼女の小さな庭には花が一面に植えられていた。水流が花をなでるたびに、花は軽やかに体を揺らした。


水の中の花も美しかったが、姉の一人がかつて陸の花を持ってきてくれたことがあった。陸の花には香りがあり、誰もいないときにこっそりとお互い話し合うのだという。姉が持ってきたのはすでにしおれた花だったが、アンリエットはその語りから、生きていた頃の陸の花の本来の姿を思い描いた。


十六歳の誕生日になれば、海面に浮かび上がり、自分の目で陸の世界を見ることができる。姉たちが話してくれた晴れ渡る空、さらさら流れる小川、果てしなく続く谷を見てみたかった。


「その時、あなたのような人に出会えるかしら」彼女は彫像に聞いた。


彫像は何も答えなかった。



十六歳の誕生日の昼間、アンリエットは多くの社交行事をこなさなければならず、自由な時間が訪れたのはようやく夜になってからだった。彼女は意気揚々と護衛たちを従えて水面へ向かった。


海面を突き破った瞬間、彼女が目にしたのは、空に咲く花だった。


瞬く間に変化し、咲いたかと思うとすぐに金色の粉となって、果てしない黒い空に溶けていく。


雷鳴が空気を切り裂き、アンリエットは稲妻が視界を砕くのを待ったが、いつまでも光は落ちてこなかった。護衛の説明によれば、それは雷や稲妻ではなく、空に突然現れて歪んでいく「花」は陸の種族が作り出したものだという。それを知って雷を恐れる気持ちは消え、彼女は純粋に「花火」を楽しみ始めた。


船の上から聞こえてくる船員たちの歌声に、彼女は思わず微笑んだ。彼らが叫んでいる言葉は理解できなかったが、楽しい気持ちだけは伝わってきた。


もう少し近づいて、アンリエットは好奇心のままに船上の顔ぶれを一人一人見ていった。そして、ある一人の上で視線が止まった。


その人間は他の船員たちと違い、特別に華やかな装いをしていた。彼女と同じくらいの年頃の少年で、笑ってはいるものの、周りより少し控えめな様子だった。


突然、少年が振り向いた。


(わたしが見えたの?)


アンリエットは身動き一つできなくなった。


彼女は知らなかった。暗い海水の中で、自分の長い髪が海の中の焔のように目立っていたことを。少年の目から逃れられるはずもなかった。少年は彼女を見たが、それが何なのかはわからなかった。何かの藻かもしれないし、船の上の貴族の女性が落とした真っ赤なハンカチかもしれない。アンリエットほど優れた視力を持たない彼は、それでより注意深く見つめた。


そんな風に見つめられて、アンリエットは何千通りもの解釈を考えた。どの説も、同じ一つの結果を指していた。恋だ。



海の天気は、恋に目覚めたばかりの少女の心のように、移ろいやすかった。


海の様子を読み取ることに長けた人魚一族の一員でありながら、アンリエットは人間の祝典に見惚れるあまり、嵐が近づいていることを伝え忘れてしまった。荒れ狂う天候が船を容赦なく打ち砕き、船体が波にちぎられたとき、アンリエットは慌てて護衛たちに人々を救うよう命じた。海に落ちた人間たちはすぐに人魚に助け上げられた。事態が落ち着いたのを見て、アンリエットの専属護衛が彼女を連れ戻そうと泳いできたが、彼女はその手を振り払い、人生で一番速い速度で、ある方向へ泳いでいった。


あの少年を見つけたのだ。護衛が溺れた者を助けるやり方を真似て、背後から抱きかかえた。しかし彼女は水中で呼吸できる飴を持っていなかった。


少年が今にも沈みそうになるのを見て、アンリエットは何も考えずに、彼の唇に口づけた。


人魚の口づけは、生き物に一時的に水中で呼吸する力を与える。


少年は目を覚まし、ゆっくりと瞼を開いた。


アンリエットが大丈夫かと尋ねてから、少年が水中では話せないことに気づいた。


彼はただ夢中になったように彼女を見つめ、手を伸ばして、海流に揺れる彼女の鮮やかな赤い髪にそっと触れた。彼女の髪はまるで生きているかのように、いたずらっぽく彼の手から逃れた。


護衛が二人の見つめ合いを遮り、人間の少年を他の船員たちのところへ連れていき、次の指示を待たせた。


アンリエットは離したくなかったが、少年の苦しそうな様子を見て、護衛に彼を委ねるしかなかった。



地上の人間の王国は、人魚の王国へ手厚い謝礼を贈った。アンリエットに助けられた美しい少年は、その国の王子だったのだ。王子の十六歳の誕生日を祝う船が嵐に巻き込まれ、もう少しで永遠に海の底に沈むところだった。すぐそばに救助があったおかげで、幸いにも一人の犠牲者も出さずに済んだ。


人魚の美徳を体現したアンリエットは母から称賛されたが、彼女が望んでいたのはただ、あの少年ともう一度会うことだけだった。


ついに、二人は宴の席で二度目に顔を合わせた。


今回も水中での対面だったが、人間側は万全の準備をしていて、水中で呼吸できるようにし、翻訳魔法まで用意していた。


王子は顔を赤らめながら、アンリエットが花を好きだと聞いて、大きな花束のチューリップを持ってきたと告げた。魔法処理がされていて、長くみずみずしさと香りを保てるという。彼は照れたような笑顔を浮かべ、優雅で礼儀正しく、彼女が海底世界について語るのを夢中で聞いていた。二人は一緒に海面に上がり、果てしなく美しい空を眺めた。少年は遠くの陸地を指さして、あそこが自分の城だと言った。アンリエットは彼の手を握り、これまでにない温もりを感じた。そして初めて直接太陽の光を浴びたが、噂されていたような痛みも、肌が焼けるようなこともなかった。夕日もまた、とても美しかった。


若い恋には、たくさんの理由など必要ない。一度始まってしまえば、もう止められない勢いで育っていく。


「結婚なんてできるはずないわ、彼は人間なのよ」アンリエットの姉たちは言った。


しかし母はこの恋を支持した。人魚と人間がこれを機に交流の橋を築き、両種族の血を引く子孫が生まれれば、それは平和の始まりになる。アンリエットが甘えると、姉たちもその思いに逆らえなくなったが、それでもアンリエットの髪を梳きながらぶつぶつと小言を言うことはあった。アンリエットは気にしなかった。真実の愛より大切なものはないと信じていたから。


「自分が愛する人さえ追い求める勇気がなければ、わたしが世界にもっと多くの愛をもたらすことなんてできない」


「人間の寿命はたった二百年なのよ。彼の命が先に尽きたら、あなたはどれほど苦しむことか!」アンリエットの姉が言った。


「人魚が数千年生きられるからって、必ず数千年生きるとは限らないわ。退屈な千年を過ごすくらいなら、心から愛する人と二百年を過ごす方がいい」


愛は、疲れを知らない情熱の中で育まれるものだ。些細な日常の話さえ、心から楽しめた。王子とアンリエットは、周りの存在から切り離された新しい世界を作り上げていった。海の底でもなく、陸でもない、二人の命をつなぐ何かが流れる空間を。


王子はアンリエットのために海底へ潜ることもいとわなかったが、不便は多かった。一方アンリエットは陸に上がっても呼吸はできる。足りないのはただ一対の脚だけだった。


アンリエットはヒメロペから、沼地に錬金術と薬草学に精通した女巫がいて、様々な魔薬を作れると聞いていた。鳥のような翼を生やしたり、指の間に水かきを作ったりできるという。「もしかしたら、わたしたちの尾を脚に変える薬も作れるかもしれない」


アンリエットが沼地の女巫についてヒメロペに聞くと、ヒメロペは何とも言えない表情で言った。「人間一人のために、そこまで犠牲を払うつもりなの?」


「彼のためだけじゃない。人魚がもう海の中だけの存在じゃなくなるようにしたいの。陸の国々ともっと交流できれば、船員たちの安全も守れる」


「陸の生き物が、わたしたちに何をくれるって言うの?」


「陸の奥まで通じる水路を開拓すれば、もっといろんな景色を見られるし、もっと多くの種族と交流できる。海底の古い魔法が、陸の学者たちと切磋琢磨すれば、新しい魔法が生まれるかもしれない。お母様もそうおっしゃってたわ、わたしと王子の結婚をとても喜んでくださってるの」


「あなたが脚に変えて、しかも陸で結婚式を挙げるつもりだと知ったら、お母様は許さないでしょうね」


「だから、秘密にしておいて」


ヒメロペはアンリエットの髪をもてあそんでいた手を引っ込めて言った。「海妖の本性はいたずら好き、悪意があると言ってもいいくらい。だから、あなたが自分から悪い結末に向かうのを、止めはしないわ」


ヒメロペから沼地の女巫への秘密の水路を教えてもらい、アンリエットは何度も沼地の女巫と文通を重ね、誠意で相手の心を動かしてから、汚れた濁った水流に耐えながら沼地へと向かった。


みすぼらしい姿で沼地の女巫の錬金工房に辿り着いた彼女は、この沼地の妖王国で名高い錬金術師が、実は純粋な沼地の妖ではないことを知った。


「わたしは沼地の妖と人間の混血よ」


沼地の女巫メニストはそう語った。主に人間の血を継いでいて、体つきは人間のそれだが、肌には沼地の妖特有の金属のような光沢があり、目は黄色で瞳孔は深い茶色だった。人間の血を引くため、二百歳の彼女にはすでに老いの兆しが現れていた。


アンリエットは人魚族の宝物とご馳走を持参して、メニストに渡しながら聞いた。「手紙の中で、自由に外出できないとおっしゃっていましたが、それと関係があるのですか?」


メニストの複雑な表情を見て、アンリエットは慌てて言った。「ごめんなさい!失礼を申し上げるつもりはなかったんです!」


メニストはしばらくアンリエットを見つめてから言った。「わたしもあなたと同じ、王女なの」


魔薬を煮る間、メニストとアンリエットはおしゃべりを始めた。


メニストの母はある人間の小国の王女で、ある旅の途中、沼地の近くを通りかかったところを、その美しさに目をつけた沼地の妖王にさらわれたのだという。娘を産んだ後、王女は何度も逃げようとしたが、最後には妖王に殺されてしまった。


他の兄弟姉妹と比べて、そんな従順でない母を持つメニストは寵愛を受けない王女となり、母の真似をして逃げ出さないようにと、地底に閉じ込められさえした。メニストには魔薬を調合する才能があったため、妖王は地底で錬金工房を開くことを許し、王侯貴族に仕えさせた。


「あなたみたいに助けを求めてくる人は他にもたくさんいるわ。わたしが逃げない限り、妖王はあなたたちが訪ねてくることを止めはしない。ただ気まぐれで、誰かをまたさらってしまうかもしれないけど。あなたは心配いらないわよ、彼は人魚族に手を出す勇気はないから。特に、噂で一番可愛がられているというアンリエット王女なら」


アンリエットが聞いた。「わたしのこと、ご存知なんですか?」


「もちろん。人魚の女王様に陸との交流の禁を解かせた、あの美しい小さな王女様でしょう。もうすぐドリアン王国の王太子と婚約するっていう。日の光も見られないわたしの耳にさえ届いているもの」


「わたしたちの結婚式に来ていただけますか?」


「どうやって行くの?」


「わたしが来た水路から、一緒に出ましょう。あなたなら、海の底で呼吸できる薬も、それどころか一時的に人魚になれる薬さえ作れるはず……方法はいろいろあると思います」


「わたしがあなたについていったら、あなたの脱出計画が台無しになるわ。妖王が絶対にここを出してくれないもの」


「妖王は人魚族に逆らう勇気がないとおっしゃってませんでしたか?」


「あなたを後宮に入れる勇気はないけど、あなたを使って身代金を取ることはできる」


「あなたがここでこんな暮らしをしているのを、黙って見ていることなんてできません」


「たまに旅人が外の物を持ってきてくれれば、それで十分よ」


アンリエットは少し考えて言った。「戻ったら海妖に協力をお願いします。必ずあなたに陽の光を見せてあげます」


魔薬の調合期間中、アンリエットはずっとメニストに付き添い、いろいろな面白い話を聞かせた。


メニストは最初ただ聞いているだけだったが、次第にアンリエットの生き生きとした語りと歌に、わずかな微笑みを見せるようになった。


アンリエットは、自分が人に喜びをもたらせることを知っていた。それは生まれ持った容姿や歌声のおかげもあるだろう。それの何が悪いのだろう。彼女は自分が持っているものすべてを使って、世界をより良くしたいと思っていた。海妖の心を和らげたように、人魚の王族として人前に出たときに国民から愛されるように。それが彼女の持つ力だった。


そうした恩恵を受け取る一方で、自分が「善良」であるという原則を裏切ることは自分に許さなかった。だから、メニストを連れていくと言ったのは、本気だった。


魔薬が出来上がったその日、アンリエットは一気にそれを飲み干した。灼熱の感覚が尾びれから這い上がってきて、彼女は苦しみながら地面に倒れ込んだ。


意識を失う直前、見慣れた人影が見えた。


「ヒメロペ……」



アンリエットが目を覚ますと、頭はヒメロペの膝の上にあった。


二人は浜辺に近い岩礁に座っていた。


アンリエットが自分の下半身を見ると、輝く鱗を持つ尾びれは、すでに二本の人間の脚に変わっていた。


彼女は聞いた。「メニストはどこ?」


ヒメロペが言った。「ついてこられるわけがないでしょう。わたしがあなたを連れ出さなかったら、あなたは沼地の妖に人質として捕まっていたわよ」


「……ごめんなさい、迷惑をかけて。全部わたしのわがままのせいね」


「わたしがいるんだから、もっとわがままを言っていいのよ」


「メニストとの約束を果たせなかった」


「そもそも彼女、あなたの誘いを受け入れてなかったでしょう」


アンリエットは身を起こし、「脚」の感覚を確かめながら言った。「わたしの力はまだまだ足りない。これから、もっと強くなる。少なくとも、自分の目の前で起きた不公平なことは、なくしていきたい」


「あなたの王子が来たわ」ヒメロペがそう言って、アンリエットの背中をそっと押した。


アンリエットの両足が地面を踏みしめた。最初はよろよろしていたが、すぐに軽やかに走り出し、スカートの裾を翻しながら、彼女のために来てくれた王子のもとへ駆けていった。



正式な結婚式が行われるまで、アンリエットはドリアン王国の宮廷で認められるために力を尽くし続けた。


陰では、尾びれを脚に変えたことで種族を裏切ったと言う者もいれば、恋に目がくらんだだけだと笑う者もいた。家族の寵愛を盾にして夢を見ている小さな王女だと言う者もいた。


アンリエットが仲介して、ドリアン王国と海妖一族の協力協定を取りまとめると、愛する人は笑顔で彼女を抱きしめた。あらゆる噂はもう意味を持たなくなった。


愛する人は彼女の理念を全面的に支持し、人魚族が内陸まで入れる水路を開削するよう命じた。十年後には、人魚の子どもと人間の子どもが川で一緒に遊ぶ姿が見られるかもしれない。この小さな変化から、両種族の隔たりは、たとえ水と陸の生き物という生まれながらの越えがたい壁であっても、少しずつ崩れていくはずだ。


彼女は、強さとは必ずしも女王になることではなく、父や母にとっての小さな王女のままでいることでもあり得ると考えていた。自分のやり方で精一杯努力すればいい、無責任な評判に従う必要はない。


愛する人が彼女のために作った大きな庭には花が咲き乱れていた。彼女はメニストに花束を送りたかったが、ヒメロペが教えてくれたあの水路は、すでに封鎖されてしまっていた。沼地の妖の王国では内部の政争が起きているらしく、ヒメロペでさえ介入できず、アンリエットにはなおさら手の出しようがなかった。


「せめて、わたしの結婚式には来てくれるでしょう?」彼女はヒメロペに聞いた。


ヒメロペは首を横に振った。「あなたの評判のためよ」


この点については、アンリエットも押し通すことはできなかった。すべてが思い通りになるわけではない。


結婚式の当日、彼女は真珠で埋め尽くされたウエディングドレスを着て、一歩一歩愛する人のもとへ歩いていった。


彼の微笑みを見つめていると、周りの人々の姿はぼんやりと遠ざかっていった。ここまで努力してきても、彼の支えがなければ成功はあり得なかった。


もともとは彼女がただ彼の命を一つ救っただけのこと、それは人魚族なら誰でもすることだ。世界に、助けられた者が必ず命の恩人と結婚しなければならないという決まりなどない。


二人の恋は、船の上から見えた海の中の焔のような髪と、海面から見上げた美しい少年の姿から始まった。正しい時、正しい場所で、正しい二人の目が重なり、それから二度と離れられなくなった。


彼女の一歩一歩は、初めて両脚を得たばかりの頃のよろめく足取りとは、もう違っていた。


各国の王侯貴族の見守る中、二人は誓いの言葉を交わそうとしていた。


「順境のときも逆境のときも、病に倒れても貧しくなっても、わたしは永遠にあなたを愛します」の「永遠」という言葉を口にしたその瞬間、アンリエットの胸に鋭い痛みが走った。


信じられない思いで、結婚式を執り行う祭司の方を見た。彼女の胸に突き刺さった短剣に、思わず手を当てた。


護衛たちが一斉に駆け寄り祭司を取り押さえたが、宴に紛れていた他の客の中にも仕組まれた刺客がいて、その場は瞬く間に大混乱に陥った。陸の友人たちが彼女の前に立ちはだかったが、もう遅かった。毒が全身に回っていく中、彼女の目に映る愛する人の姿は、次第にぼやけていった。


「アンリエット!」


彼の体温も、切羽詰まった声も、初めて出会ったときと同じように、彼女の心を震わせた。


最後の力を振り絞り、彼女は彼の名前を呼んで言った。「復讐は、しないで」


憎しみは、すべてを台無しにしてしまう。二人の願いは、時間をかけて築き上げていくものだったはずだから。


彼女はぼんやりと、あの日の海面の花火を思い出していた。あんなにも盛大で美しかった。種族や国の違いを越えて、みんなで一緒に輝く花火を見られたなら、どんなに良かっただろう。


アンリエットは愛する人の腕の中に倒れ込んだ。



これを境に、海底の王国は一時、人間の王国と関係が悪化したが、人間の王子と人魚の女王、王女たちの努力により、やがて再び平和へと向かっていった。アンリエットの死は、彼女の周りの人々をさらに奮い立たせ、彼女の理念を広めようとする力となり、彼女を慕う民衆を種族間の対立に立ち向かわせる原動力にもなった。平和の精神の象徴となった彼女は銅像として作られ、その一つは彼女と人間の王子の庭園に置かれている。毎日、王子は彼女にチューリップの花束を捧げ続けている。


彼女の鮮やかな赤い髪は、決して消えることのない一筋の炎となった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ