4-1
夜明けの台所に、斜めに差し込んだ光が窓の隙間から滑り込んできた。新鮮な食材が放つ、最も素朴な自然の香り。厨房が動き始めると、焼きたてのパンの香ばしさと濃厚な香辛料の匂いが重なって、胃袋を刺激する。
レシピの手順を頭の中で復習しながら、ぼんやりしていた空は鉄鍋にぶつかって、ガンと大きな音を立ててしまった。
誰かを起こしていないか心配になって顔を上げると、台所の出入口にテイラロが立っていた。長い髪をただざっくりと整えて、外套を羽織っただけの格好で、不思議そうに覗き込んでいる。「何してるの?」
「サンドイッチとお菓子を作ってる。道中で食べられるように」
「その鍋は何を煮てるの?」
「スパイス煮りんご」
「味見していい?」
空はりんごを一切れ切って彼女の口に入れた。彼女は目を細めて幸せそうな顔をした。「甘くてやわらかい、すごく美味しい」
「もう少し寝なくていいの?」
「興奮して、ずっと目が覚めていた」
「まだ早いから二度寝できるよ。起こしちゃったかと心配してた」
「パンの香りがすごいんだもの、外にいてもわかったよ」
「じゃあ早く仕上げた方がいいね」
テイラロがもう少し身を乗り出してきた。「何か手伝える?」
「いい、できたら呼ぶから」
彼女が去ってから、空は作業に戻った。
ティラミスは療養院の人たちに預けてきた。これからは休暇だ。休暇とはいっても、空とラヴェニは秋の学習進度を放棄するつもりはなく、レポート提出という形で対応することにしていた。テーマは伝説の人魚姬アンリエット。アンリエット王女に関係する場所がちょうどクランシュ家の関連産業の土地に集中していて、ラヴェニ自身もアンリエット王女が大好きで資料をたくさん集めていた。このテーマなら比較的取り組みやすいはずだ。
最初の目的地はエメラルド湖、その後はスモーク・コーストへ向かう予定だ。スモーク・コーストは伝説の中で人魚姬が水面に浮かび上がって花火を眺めた場所とされている。百年前、人魚族には六人の王女がいた。十五歳になると初めて海面に上がって陸の世界を見ることが許され、その日最初に目にした光景がそれぞれ異なった。末の王女アンリエットが見たのは、王子の誕生日を祝う船と、打ち上げられた祝いの花火だった。その瞬間、王女は王子に一目惚れし、二人は出会い、恋に落ちた。この物語は空が知っている人魚の話とほぼ同じ展開だが、結末は大きく違う。王女と王子の間に誤解はなく、二人は結ばれた。しかし彼らを引き裂いたのは、婚礼の日に起きた王女への暗殺だった。それ以来、王子は姿を消し、泡となった王女の後を追ったのか、二度と世界に姿を現さなかった。
旅の段取りはラヴェニに一任していた。出発当日、荷物を持った空とテイラロはサイフィ学院に転送してから、ラヴェニを待った。
「ねえ!」
草原の向こうで、二頭の大きな白い鹿に引かれた馬車が止まっていた。ラヴェニが手を振っている。
テイラロが言った。「青血貴族って本当に気品があるわね」
空の注意はきれいな白い鹿の方に向いていた。そっと首元を撫でると、鹿は穏やかに頭を押しつけてきた。
ラヴェニが言った。「早く乗って!」
しばらく走ったところで、ラヴェニが注意した。「魔法陣に入るよ!」空はすぐにカーテンを閉めた。馬車は石畳の広場に止まった。十数本の石柱に囲まれた円形の広場で、石畳は大まかな陣型の図紋を刻み、その隙間に金属液が流し込まれて彫琢を経て、完全な魔法陣の姿になっていた。
大型の転送魔法陣に入ると、外の景色が魔法とともに霞んでいく。空気の中を漂う金色の粒子が肉眼でうっすらと見えて、揺らぐ現実の風景とともに、なかなか見ごたえのある光景だった。
空が聞いた。「魔法陣はいくつ経由するの?」
「ここはもうクランシュ家の領地で、サイフィ学院と魔法陣のポイントを契約してあるの。あと二、三回転送すれば着く」
さすがクランシュ家、幾重もの安全確認を省略して学院に直接つながっている。
何度かの中継を経て、鹿の馬車は木陰の並木道を抜けた。道がだんだん細くなり、馬車が入れなくなったところで御者がドアを開け、ラヴェニの指示のもと馬車を引いて去っていった。
「久しぶりだ!清々しいでしょ?」降り立つなりラヴェニは体をほぐし始めた。鈍い空にさえ感じ取れるほど、周りを取り囲む大木たちが発する力は、手が加えられていながらも自然を損なっていない種類のものだった。カワ先生がここにいたなら、髭を撫でながら細くて高い声で「元素のバランスが取れていて、大変よろしい!」と言いそうだ。
百聞は一見にしかず。図書館で苦学するより、重大な歴史的出来事の舞台を実際に踏む機会は、またとない経験だ。ラヴェニはルイーズも誘いたかったようだが、絶対に外には出ないと言い張られた。
さらに驚いたことに、ラヴェニは弦羽まで誘っていたというが、当然断られたという。
「家族から言われた要件だから、断られることはわかっていた。一応誘ってみただけ」ラヴェニはそう一言だけ説明した。
スモーク・コーストはアイセンティア内にある。エメラルド湖の方は、かつて夜落の地だったテーリマ半島に位置していた。ここはかつて沼地の妖たちの王国「ヌーマ王国」があった場所で、数百年前に内乱で滅び、争いの中で漏れ出した毒気が周辺国家を悩ませ、アイセンティアが浄化に乗り出した。澱んだ沼地が「エメラルド湖」と呼ばれるまでに浄化されてから、かつての沼地の妖たちの生き残りは世界各地の沼に散らばって生きている。しかし精靈族以外の種族が住み着けばいずれ湖の水質は再び濁っていく。日の出の地と夜落の地の合議の末、アイセンティアがこの土地を引き受けることになった。五年前、この地は五大名門の中で経済を掌るクランシュ家に下賜された。
木エルフたちは表層の汚染を浄化しただけで、湖の底部まで開発や調査には入っていなかった。そのためエメラルド湖の底にはまだ多くの謎が眠っている。これがラヴェニが二人を連れてきた理由だった。
湖畔に到着すると、まず湖のほとりに点在するコテージの一棟へ向かった。ラヴェニはドアを開けながら説明した。「こっちは独立した小屋だから静かよ。ゆっくり体を休めるのに最高。邪魔が入らないのも魅力。欠点は家事を自分でしないといけないこと。居間からエメラルド湖が見えて、早朝は霧がかかって特別きれいらしい」
テイラロが聞いた。「前に来たことはなかったの?」
ラヴェニが答えた。「正式に養女になる前は、来る資格がなかった」テイラロがしまったという顔をするのを見て、ラヴェニが言った。「気にしないで、触れられない話じゃないから。名前が変わっただけで大した違いはない。大事なのは、自分のやりたいことをやれる力を手に入れられるかどうか」
小屋は二階建てで、居間兼食堂の奥に小さな台所があり、二階に寝室が三つ。居間や食堂はオーソドックスな作りで、空が一番惹かれたのはテラスに置かれた二脚のデッキチェアとハンモックだった。療養院の部屋のハンモックにすっかり慣れてしまって、あのゆらゆらする感覚が彼に落ち着きをくれた。
休暇初日の食事は、空が持参した煮りんごやパンなどだった。色とりどりの野菜料理に、ガラスのピッチャーに入った冷たい果汁、休暇のはじまりにふさわしい食卓だった。
ラヴェニが料理を褒め終えるなり、本題に切り込んだ。
「明日はまず近くの森を探索して、静かな場所を見つけてピクニックしよう。明後日は水鳥の生息地に行って、生態を記録する。そのあとは湖の水質調査、小舟も用意してあるから、泳ぎに行ってもいいし……」
「研究旅行って聞いてたけど、完全に遊びでしょ」テイラロが言った。
ラヴェニはばれた、という笑顔になった。「うちの家族が本当にわたしに調査させると思う?名目なんてどうでもいいの。この数日は思いっきり遊ぶ」
テイラロも笑って言った。「それもいいわね」
「でしょ。みんな息抜きが必要よ」
その後の数日間は、本当によく遊んだ。黒女神がらみのことや、高位貴族たちとの付き合いが始まってから、空はずっと緊張が続いていた。こんなに気が楽になったのは久しぶりだった。
四日目、湖のほとりでピクニックをしているとき、テイラロがついに聞いた。「なんでわたしたちを誘ってくれたの?」
ラヴェニは髪留めを外して指で髪を梳かしながら言った。「クランシュ家はわたしに四王子を誘わせたかった。わたしがサイフィ学院に入ったのも、主にあの方を〝攻略〟するためよ。もともと彼を誘うよう言われていたけど、あの方の立場で、そう簡単に誘いに乗るわけがないでしょ。それでクランシュ家も妥協して、代わりにあなたたちを誘うことを許してくれた。ごめんね。でも、本当に一緒に遊びたかったのは本心よ。王冠学院にいた頃から、あなたたちは数少ないまともな人だってわかってたから」
弦羽のことを聞いて、空はできるだけ表情を変えないようにしながら言った。「四王子と面識があるの?」
ラヴェニは笑って言った。「もう隠さなくていいよ、みんな知ってる。高位の貴族はもうとっくに彼がサイフィ学院にいることを知っているわ。王族の雰囲気は隠せないもの」
テイラロが空をちらりと見て言った。「わたしも四王子のことを調べないよう命じられていたけど、学院で顔を合わせたとき、すぐにわかった」
空はやはり聞いた。「お名前は知ってる?」
テイラロとラヴェニが声をそろえて言った。「弦羽」
やはり、知っていたか。
ラヴェニは髪を一つに結びながら言った。「クランシュ家の指図は聞きたくないけど、居候の身だから、一応形を作らないといけない。四王子は気さくそうな方だと感じるから、身分さえなければ普通に友人になれそうなのに、残念」
テイラロが聞いた。「クランシュ家はラヴェニに四王子と結婚してほしいの?」
「そう、ありえないでしょ。わたしはたくさんある駒の一つに過ぎない。わたしの役割は注目を集めること。みんなの視線がわたしに向いている間に、家の他の娘たちが四王子に近づく機会を作る」
テイラロは少し落ち着かない様子で、しばらく迷ってから聞いた。「あなたはロゼン家の出身だって聞いたけど、もしかして実は……」
「わたしの本当の血統は、アクミリン家とクランシュ家の混血よ」
ラヴェニの突然の告白に、空は言葉を失った。どう反応すればいいのかわからなかった。
ラヴェニは普通の顔で、危険すぎる話を続けた。「紅血貴族のふりをして、実は純粋な青血貴族。もし四王子への接近に成功して、子どもが生まれた後で公表すれば、その子が王位を継承できる」彼女は空の方を向いて言った。「アイセンティアの国王は、王族と他国の王族、あるいは青血貴族の血を引く子どもでなければなれない。エルフは長命だから王位継承の問題はずっと起きていなかったけど、もし五大名門の二家が、血統上王位を継げる人物を出して手を組んで簒奪を企てれば、成功の可能性がある。四王子だけが王族の縛りを受けない特殊な立場にある王子だから、もしかしたら紅血人類の貴族との恋愛も王室が黙認するかもしれない。そこで後から女性が実は青血貴族だったと明かされても、純粋な愛を重んじるエルフは簡単に離婚などしない」
弦羽が前に言っていたことを思い出した。人間は決して満足しない。アイセンティアでいくら高い地位にいても、さらに上を目指す、と。
ラヴェニが言った。「わたしを育ててくれたのは本当にロゼン家の人たちで、彼らが本当の家族。クランシュ家はロゼン家の安全を担保にわたしを脅して、言いなりにさせている。わたしと同じような子がまだたくさんいる。あの二大家族にとって、子どもは権力を継続させるための道具でしかない。四王子からの突破口は可能性が低いと見ているみたいで、鍵の使者候補として育てている子もいる。〝養女〟や〝養子〟にはそれぞれ別の役割がある」
テイラロが聞いた。「こんなことを話して大丈夫?」
「安心して。ここにはあの二家の耳目はない。お嬢様育ちで、まだ汚染があると彼らが思っている土地にわざわざ来るわけがないから」
エドウィン・アクミリンがテイラロを「放置」していた態度が頭をよぎった。追いかける気もなかったのは、一つか二つの駒を失っても痛くも痒くもないからだろう。
空は聞いた。「家族の指示に従わなかったら、罰を受けないの?」
ラヴェニが言った。「それはまだ他に使える能力があるから。黒魔法との相性が悪くないの。とにかく少しずつ力をつけていくしかない。いつか自分で決められる日まで。テイラロも同じでしょ?」
テイラロは静かに頷いた。
そのとき、空は初めてちゃんと気がついた。彼らは本当に、まだ子どもなのだ。自分で決められることはそれほど多くない。
ラヴェニがぱたりと地面に横になって言った。「せっかくの休暇なのに暗い話をするものじゃないよ。ここ、本当にいいでしょ。元素が澄んでいる」
テイラロが言った。「すごく気持ちいい。こんな場所が昔は瘴癘の沼だったなんて信じられない」
ラヴェニが言った。「この旅で、沼地の女巫に関しても調べてみたいと思ってる。伝説では、沼王国の底部に邪悪な沼地の女巫が住んでいて、泥にはまって彼女の工房に落ちてしまうと、捕まって薬の材料にされてしまうんだって。今はもう沼地の妖は住んでいないけど、ルイーズが提供してくれた文書によると、沼地の女巫は実在していたらしい。工房は湖心の水底深くに隠されていて、今回はそこを探しに来たのよ」
テイラロが聞いた。「見つかるの?精靈が全部きれいにしたんじゃないの?」
「木エルフが手を入れたのは表層の汚染だけで、底部にはまだ入っていない。しかも家からこれを持ってきた」
ラヴェニがいくつかの潜水用マスクを取り出すと、テイラロが言った。「本当に潜るの!」
ラヴェニが言った。「もちろん。ここまで来て挑戦しないともったいないでしょ」




