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トルコ石  作者: 葉櫻
二、吊るされた男
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18/49

2-8

薬が完成したその日、錫巫は洞穴の外の台上に魔法陣を描いた。


魔法陣を描く材料は何かの生き物の血のような黒い粘稠な液体で、錫巫自身とラウンの血も加えられた。


「最後のチャンスよ。願いをかけた後は引き返せない。契約を取り消して欲しい、代償を返して欲しいと何度も来た人がいた。でも既に起きたことは変えられない。彼らは新しい人生を受け入れるしかなかった」


ラウンは迷いなく魔法陣の中へ歩み入った。


そらが護衛の契約を結んだときの光景と似ていた。双方が少しずつ魂の意識を引き出して魔法陣を動かし、契約が呪いのように骨の奥まで刻まれる。


不気味な光がラウンと錫巫の二人を包み、すぐに暗くなった。


ラウンが魔法陣から出てそらの傍に来ると、いくつかのボタンを外して衣服を引き下げた。


「首と肩に……」そらにはうまく表現できなかった。


錫巫が代わりに言った。「黒魔法の呪いの刻印。半輪だけど」


「一輪全部になると思っていた」ラウンは軽くため息をついてから、そらへの気遣いを忘れず教えた。「あの図案は呪いをかけた者の印。あなたにもあるでしょう?」


「でも僕のはほんの一部だよ」


ラウンの体には、くっきりと人骨の薔薇の半輪の紋様が見えた。薔薇の内側は密な線で埋まり、刻印の色は青黒だった。


「大丈夫、二人の魔法使いが処理してくれる」


錫巫が言った。「あれは取引の証明、体に影響は出ない」


「それでも、人から離れていないといけないよね?」


「なぜ?」


ラウンは笑顔でそらに答えた。「これは世界に存在してはいけない取引。人に知られれば火刑柱に架けられる。でも心配しないで。同じ経験をしている人は必ずいる。僕は一人じゃない」


出発前、錫巫がそらに意外な提案をした。「あなたは働き者の子ね。老人もあなたのことを気に入っている。よければ、しばらくここに残ってもいい」


「いや、彼のそばにいる人たちが帰りを待っている」ラウンがきっぱり言って、そらに向かった。「これはあなたに関係のないこと、最初から僕一人でやるべきだった」


「慌てなくていい、強制するつもりはない。ただ別の選択肢を与えたかっただけ。定められた未来に向き合わなくていいように」錫巫がそらに言った。


そらは慎重に聞いた。「もしかして、僕の未来を見たことがあるんですか?」


「ときどき覗いてしまう。老い先短い悪い癖ね。知らない方がいいことも多い」


「何が見えたか聞かせてもらえますか?」


「ある船の上にあなたがいるのが見えた」


「その船は沈んだんですか?」錫巫の口調を聞いて、そらがまず思い浮かべたのはそれだった。


「はっきりとは見えなかったけど、激しい嵐に巻き込まれ、残酷な戦いに引きずり込まれる。その時、あなたはすべてを経験しなければよかったと思うかもしれない」


そらは緑松石の手環を取り出した。


ラウンと共に国境を越えた今回の冒険が、心の中の何かのスイッチを押した気がした。それに黒衣の少女のことも。あの漆黒の瞳を思い出すたびに、胸の鼓動が乱れる。


「ラウンの代わりにはなれなかったけど、僕は出発することを決めた」


錫巫が聞いた。「危険に満ちた未来かもしれないのに?」


「はい」


錫巫は頷いた。「薬が煮えたら、二人で旅立ちなさい。任務はラウンに言いつける。バイ・ジン空、あなたはもうここには来ないでいい」


そらとラウンは二人の双巫に礼をした。



錫巫は心よく食料と水、それから道中の障壁魔法を突破できる道具を補充してくれた。


しかし次に来るときは、ラウンだけが使者として防護魔法を抜けられる。そらと二人の魔法使い以外、ラウンが存在していた記憶は世の人々の脳から全て消去される。本当に後戻りはできないということだ。


「一つ贈り物をするわ。バイ・ジン空はあなたについての記憶を保つことができる。でも彼がもう一度あなたの名前を口にすれば、他の人と同じようにあなたを忘れる」錫巫はラウンに言った。


「永遠に覚えているよ!」そらは真剣にラウンに告げた。


ラウンは笑って言った。「よろしく頼む」


錫巫はさらにもう一枚の符文の木牌をラウンに渡した。


「これは?」


「三日間、あなたに父親のような存在だと思っている人に会いに行く時間をあげる。薬を直接手渡してきなさい」


「同情が過ぎる」銅巫のその一言は、少し恨み言のように聞こえた。


「ありがとうございます」ラウンは符文を強く握った。


「忘れないで、この木牌はあなたの刻印を三日間隠せる。木牌を起動させてから三日後には、禁咒者を追緝する街から離れること」


「わかりました。時間は十分あります。重ねてお礼申し上げます」


下山する道中、そらとラウンはずっと無言だった。


夢のような小村、山間のせせらぎ、もう一度見ても来た時の感動はなかった。すべてが幻だとわかったから。


ミズを呼んで鞍に乗った。制約なく過ごした間によく遊んだらしく、爪や脚に泥がたくさんついていた。ラウンは拭いてやることもなく、休まず急いで飛ぶよう命じた。三日以内に目的地へ到着するため、ラウンはミズに魔法をかけて無休で飛ばし続けた。


ファンザ家の城塞の近くまで来てから、そらが聞いた。「どうやって中へ入る?」


「パンフィロ様に手紙を残しておいたから、持参した贈り物で説得できるはず。もともとの計画は誰かに薬を届けてもらうことで、それが一番簡単だった。でも〝見知らぬ人物〟の面会を受け入れてもらえるかどうか……確かではない。モンカヨの魔法使いの符文があれば身分は見破られないけど、うまくいくとは限らない」


幾重もの検問を経て、そらとラウンは城の中へ入ることができた。しかしパンフィロはラウンのことをまったく覚えておらず、応接間では緊張感が漂った。


「証明とやらを見せてみろ」パンフィロは命じた。


ラウンはある物を取り出し、パンフィロだけに見えるよう静かに示した。その証拠品がパンフィロの警戒を解き、代わりに戸惑いが生まれた。「書いてあった通りなら、お前はもと私の従者だ。お前は何者だ?なぜうちの家族のためにそこまで?」


「かつてファンザ様に大変なご恩を受けました。パンフィロ様にお力添えいただけることは光栄です」


「証拠品の手前、信じよう。連れはなんだ?」パンフィロの疑わしい視線がそらに移った。


「命を預けられる同行者です」


「ついて来い」それ以上は問わず、パンフィロは城の奥へ二人を連れていった。


従者たちが扉を開けると、そらは驚いた。幾重にも薄い帳に囲まれた大きなベッドがあった。ベッドのそばには女中が水盆の中でタオルを浸していた。


ラウンの足取りが少しおぼつかなかったが、それでも穏やかな表情を崩さぬまま、ベッドへ近づいた。


「大人様、計画は成功しました。部下が回復薬を持参しました」


(薬瓶を落とさないで)そらはラウンの震える手を見ながら心の中で祈った。幸い、ラウンは薬をベッドの傍まで無事に運んだ。しかし最後の一歩でパンフィロに取られた。久しく病床の父の世話をしてきた息子は、父の手を握り、薬瓶を開けて、まず自らの舌に一滴垂らして毒がないか確かめてから、父の口へと薬を運んだ。


一歩離れた場所で見ていたラウンは焦りを抑えられず、今にも飛び出して自分で薬を与えたそうな様子だった。


床に伏せっていた老人は薬を飲むと、目に見えてすぐに回復した。顔色が赤みを取り戻し、上体を起こして話せるほどになった。「誰が取引に行ってきたのか?顔を見て礼が言いたい」


父の言葉を聞いてパンフィロが促すと、ラウンはすぐに歩み出て跪いた。


「見たことのない子だ。どうしてうちの息子に見つけられた?」老人が慈しむように聞いた。


「私の……私の家族がかつてあなた様の深いご恩を受けました。パンフィロ様がご一緒してくださることは光栄です」


「どこの家の子だ?」


「申し訳ありません、取り決めにより身分は明かせません」


「よい子だ。残念、名前が知れないのが惜しい。もしお前が自由の身なら、うちの馬鹿息子のそばにいてほしかった。そうすれば何度もしくじることもないのに」


パンフィロが苦笑いした。


「機会があれば、ぜひパンフィロ様の従者になりたいのですが、取り決めが……」


「わかった、ありがとう。法恩札家族に何か謝礼できることはあるか?」


「出過ぎた願いをお許しください……あなた様の手を握らせていただけますか?たとえお忘れになられても、私の家族は……」


ラウンが言葉を紡ぎ終える前に、老人がラウンの手を握り、額に口づけして、その頭をそっと撫でた。


まるで父が息子に接するように。


「よい子だ。これからの道が光り輝くものでありますように」


「ありがとうございます」ラウンの声は細く、まるで重病にかかっているのはベッドの老人ではなく彼自身のようだった。


部屋を出ると、パンフィロがラウンを呼び止めた。「ありがとう。誰だか思い出せないが、顔は知っているはずだな?」


「はい。でも思い出そうとしなくても構いません。今がいちばんよい結果です」ラウンはいつものあの笑顔を見せた。パンフィロもその笑顔に負けたのか、不審な二人の正体を追求するのを諦めたようだった。もしパンフィロが後でラウンが誰だか思い出して、今のあのにこにこした自分を振り返ったら、恥ずかしくて死にたくなるだろう。その場面は確かに少し滑稽だ。


しかしそらには笑えなかった。


ファンザ家の城塞を出てから、ラウンはもう一度も笑わなかった。


二人はミズに乗ってラグマン帝国へ向かった。アイセンティアの最も忠実な同盟国の一つ、人間の国ラグマン帝国。人間がアイセンティアへ入国するのはエルフほど簡単ではないため、ラウンはラグマンまでそらを送り、そこからそら一人でアイセンティアへ帰り、テイラロに連絡をとることにした。


後悔と失落と名残惜しさが混ざったラウンの笑顔を見ながら、そらは思った。この人は笑うために生まれてきたような人だ。なのに皮肉なことに、本当に力を抜いて笑った場面は数えるほどしかなく、いつも公の顔として笑っていた。


待っている間に、ラウンが突然言った。「鍵の使者のことは知っているよね?」


「知っている」


「今は鍵の使者がいないことも?」


「知っている」


「じゃあ、テイラロが鍵の使者候補の一人だということも?」


「え?」


「コーツタンが育てた鍵の使者候補と接触したことがあって、確信できる。彼女は候補だ」


「でも彼女はエルフだよ」オーロパ王女のような例外を除けば、黒の夜に対立する仕える種族のエルフが黒女神に目をかけられることはほとんどない。


「鍵の使者には男性もいるし、年配の人もいる。あなたが第一界へ来た経緯を知ってから、ずっと気になっていた。あなたに刻印が施されたのは偶然じゃない。テイラロが最初からあなたに特別に親しくしていたとも聞いた。彼女はもしかすると、以前あなたに会ったことがあるかもしれない」


「でも彼女は勝手に第二界に行けないよ。アイセンティアの管制は厳しい」


「シーデ・アクミリンを調べていたとき、テイラロの家族のことも少し調べた。ブワ家が流刑になる過程で、大人たちが子どもたちを逃がすためにアクミリン家に抵抗し、最後はブワ家の成人に生き残りは出なかった。唯一生き残ったテイラロは、一時期行方不明になった。ピエテ家の保護下に現れたのは一年後で、その間アクミリン家は彼女の足取りを完全に追えず、死亡宣告を出した。ピエテ家がテイラロは一族長の名付け子だと言い、その頃アクミリン家が黒魔法使いの誤判疑惑で一時失勢したことで、テイラロは生き延びて、後に王族護衛の試験に合格した」


「それを教えてくれるのは、彼女に気をつけろということ?」


「彼女があなたをとても大切にしているのはわかる。でも一緒にいるとき、彼女が見せる強い独占欲は危険だ。鍵の使者候補は黒女神に一つ願いをかけられる。彼女の願いは、あなたかもしれない」


「見知らぬ人間を選ぶわけがない」


「第二界の人間でも魔法の素質を持って生まれた人がいて、特に子どもの頃は無意識に魔法を使って第一界に迷い込むことがある。そういう人は警備員に送り返されて、記憶を消される。もしかするとあなたは以前ここに来たことがあるかもしれない」


「測定された僕の魔力はそんなに高くない。カワ先生によると、元の世界では魔法が全く使えない状態だったはずだと。でも妹は魔法やエルフのことを何度も話していた、ただすぐに話したことを忘れてしまうんだけど」


「それは第一界に迷い込んだ典型的なケースだ。記憶の消去が少しずつ効いていく場合がある。妹があなたを連れてここへ来て、テイラロとたまたま出会い、彼女があなたを連れてきたいと思った何かが起きたのかもしれない」


「それでも彼女を警戒する必要はない。彼女は僕を傷つけない」


「他の人のことはわからないが、少なくとも僕は、誰かを得たいがためにその人に死にかねない黒魔法をかけたりしない。彼女が鍵の使者候補で、王国の力も後ろ盾にある。もし彼女がずっとあなたを独占したいと思えば、あなたには断る手段がない。一つ確かめる方法がある。僕の故郷では、エニシダを使って黒魔法を見分ける。相手が無防備なときでないと効かないけど、試してみて」


ラウンはそらを連れて鮮やかな黄色のエニシダを摘みに行き、花冠の編み方を教えてくれた。


「頭に乗せてみて、もし体に黒魔法があれば花冠がばらばらになる」


「仮に黒魔法を使っていたとしても、悪いことに使うとは限らない」


「そう。でも彼女がなぜ嘘をついているのか、考えなければならない」


ラウンの強い勧めに押されて、そらは花冠で確かめると約束した。さらにそらはラウンに聞いた。「もう一つ教えてほしい。ラウンは懐中時計でモンカヨの魔法使いを追跡できた。もし誰かからもらった大切な品物があれば、同じようにその人を追跡できる?」


「その品物と持ち主の繋がりの強さによる。持ち主にとって大切な品物ならば、追跡術で辿れる」


「やり方を教えて」


最後のお別れのとき、ラウンが言った。「アイセンティアへ来てから、もしここで生まれていたらと何度も思った。僕の国は内戦と争いが絶えなかった。家族はいない、でも昨日まで挨拶していた隣人が今日は死んでいる、そんな絶望的な環境だった。世界の国々が皆アイセンティアのように平和だったらいいのに」


「わかる。ここへ来た場所がアイセンティアで本当によかった」


「これからの道がうまくいきますように」


「あなたもね」

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