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9話:もう一度描く手


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創造主の身勝手な夏 — 第九話

もう一度描く手



レイはもう、家事をかなり器用にこなせるようになっていた。


最初の頃は、正直やらせないほうがましなことも多かった。掃除をすれば床は川みたいにびしょ濡れになり、洗濯をすれば服はやたらふかふかになる代わりに、正体不明の水っぽい匂いが妙に長く残った。料理をするときも、食材をまるで宝石でも扱うみたいに丁寧に触るせいで、時間だけが果てしなく過ぎていった。紫苑はそれを見るたび、何度も「もういい、俺がやる」と言って横取りしたが、レイは不思議なくらいしつこく諦めなかった。


そして結局、その頑固さで人間の暮らしを覚えた。


今では床は艶が出るほどぴかぴかになり、タオルは角が揃ってきちんと積まれている。食卓も、それなりに人が食べるものらしい形になってきた。家はもう、味気なく“どうにか耐えるための場所”ではなく、ぬくもりの宿った“人の住む場所”に見えた。


今日も、穏やかな昼だった。


レイはベランダの窓を開けて湿った空気を入れ替え、リビングの床を整えたあと、本棚の下の奥深くまで手を入れて埃を拭き取っていた。紫苑が出勤している平日の昼。家の中は静かで、薄い陽射しがリビングの床を長く横切っていた。


そのときだった。


こつん。


指先に、本棚の下のほうへ挟まっていた何かが引っかかった。


「え?」


次の瞬間。


ばさばさ、と。


隙間に詰まっていた薄い紙の束やノート、古いクリアファイルがいくつか、まとめて床へこぼれ落ちた。レイは慌てて身を屈め、それらを拾い集めようとした。けれど、散らばったものはただの裏紙ではなかった。


鋭い線が走った紙。生き生きとした人物の顔。緊迫した動きが収められた小さなコマ。丁寧にペン入れされたページと、鉛筆の線だけで残された未完成のネームまで。


レイは、しばらく動きを止めた。


「……絵?」


彼はゆっくりと床にしゃがみ込んだ。手に取った紙には、紫苑が描いた顔があった。見知らぬ人もいた。鋭い目つきの人物もいた。どこかひどく寂しそうな横顔もあった。漫画の原稿のように、細かくコマが割られているものもある。吹き出しは空白だったり、鉛筆でかすかに文字が入っているだけだったりした。


レイはそれらを一枚、また一枚と、慎重にめくっていった。


紫苑が描いたものだ。


細かな説明がなくてもわかった。線の一本一本に、紫苑特有の気配が滲んでいた。口数は少なく、奥は深く、世界に見せていないもののほうが多いあの人の指先が、そのまま残っているようだった。


レイは床に散らばった紙を、大事に集めた。

そして一枚を手に取ると、かなり長いあいだじっと見つめていた。


絵の中の人物は笑っているのに、どこか紫苑に似て、少し寂しそうに見えた。


レイはごく小さく呟いた。


「紫苑……」


一方その頃、会社にいる紫苑は、まったく別の種類の疲労と戦っていた。


午前中の仕事は、それなりに過ぎていった。メールの確認、修正事項の反映、取引先への連絡。課長の曖昧な指示を、どうにか人間の言葉へ整理し直す一連の作業。最近の紫苑は、以前より明らかに処理が速くなっていたし、無駄な感情の消耗も減っていた。理由は相変わらずひとつだった。


早く家に帰りたいから。


昼休みが近づいた頃、紫苑は少し息をついてスマホを見た。習慣のようにSNSを開く。何も考えずに画面をスクロールした。


新作アニメの情報。ゲームのコラボ告知。誰かが上げた猫の動画。異世界もののおすすめ記事。異種族育児ものの感想まで。


紫苑はぼんやりした顔でフィードを眺めていたが、やがて鼻で笑った。


「……他人事じゃないな」


本当にそうだった。異種族育児ものだろうが異世界ものだろうが、今となっては他人事として笑い流すには、自分の家にいる存在の実態があまりにも強すぎた。彼は何気なく指を動かし、次の投稿へ送った。


そして、その指が固まった。


「……なんだよ」


画面の中に、ひどく見覚えのある顔が映っていた。


マスクを下ろしたまま、眩しい夏の光の中でアイスを持っているレイ。


紫苑は目を擦り、もう一度確認した。見間違えるはずがない。帽子の下からこぼれる黒髪。冗談みたいに整った顔の線。光を受けてさらに鮮やかに見える目元。構図そのものは粗い盗撮写真なのに、写真自体が放つ空気が妙だった。現実の人物ではなく、何かの高級ブランドの広告カットが間違って紛れ込んだみたいに、ひどく異質だった。


「……いや、待て」


紫苑は姿勢を正した。反応数は、すでに危険なところまで跳ね上がっていた。


『この辺にこんな美形いたの?』


『実在する二次元じゃん』


『アイスのCM出られるだろ』


『近くで見た人いない?』


『他の写真ないの?』


リポスト、スクリーンショット、無秩序な拡散。

写真はすでに地域アカウントを越えて、いくつものコミュニティやSNSへ恐ろしい勢いで広がっていた。紫苑は背中に冷たい汗が伝うのを感じた。


「なんでお前がここに出てくるんだよ」


ほとんど無意識に画面を拡大した。保存ボタンを押しかけて、寸前で止まる。保存してどうする。もう十分すぎるほど広がっている。問題は、その先だった。


「ねえ、あれ見ました?」


隣の席の女性社員たちの会話が、矢みたいに飛んできた。若い女性社員が、興奮した声で話している。


「どれですか?」


「ほら、この辺で撮られたっていう人。めちゃくちゃかっこよかったやつ!」


少し年上に見える別の女性社員も、すぐに食いついた。


「ああ、あのアイス食べてる写真? 私も見ました。ほんと芸能人かと思いましたよ」


「やばいですよね? この辺にあんな美形がいるなんて、ちょっと探したくなりますよね」


「あの顔は保護案件ですよね」


女性社員たちが楽しそうに笑う。

紫苑はその背後で、静かに存在を消したくなった。


何でもないふりをしてスマホの画面を消したが、頭の中はすでに嵐みたいにめちゃくちゃだった。どうにか外の世界へ連れ出したと思ったら、一日もしないうちに晒しものになっている。やっぱり家に閉じ込めておくべきなのか。いや、だからといって永遠に閉じ込めるのも答えではない。初めての外出でこれなら、次はいったいどうすればいいのか、見当もつかなかった。


紫苑はずきずき痛む頭を押さえた。


「大丈夫ですか?」


誰かが社交辞令のように投げかけた問いに、紫苑は機械的に答えた。


「はい」


まったく、これっぽっちも大丈夫ではなかった。


退勤中も、頭の中は鉛みたいに重かった。SNSを埋め尽くしたレイの顔。爆発的な反応。そして会社の女性社員たちの浮き立った声。


『この辺にあんな美形が……』


紫苑は長く息を吐いた。


やっぱり家に閉じ込めておくべきか。

そんな身勝手な考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が鈍く締めつけられた。嫌だった。レイを家の中だけに閉じ込めるのも嫌だし、かといって外へ出して、他人の視線にめちゃくちゃにされるのも耐えがたかった。正解のない迷路に閉じ込められたみたいで、苛立ちばかりが募る。


結局、答えを出せないまま家に着いた。

扉を開けるなり、聞き慣れた声が迎えてくる。


「おかえりなさい、紫苑」


紫苑はいつものように挨拶を返す前に、吐き捨てるように言った。


「おい、お前、撮られてたぞ」


レイが丸く目を見開く。


「撮られた?」


「そう。写真。昨日アイス食ってるとき、誰かに勝手に撮られたっぽい」


レイは意味がわからないという顔で聞き返した。


「……どうして?」


紫苑は靴を脱ぎきる前に、深いため息を吐いた。


「お前の顔が国宝級だからだろ。人間ってのはな、貴重なものは独り占めしたがるくせに、同時に誰かに見せびらかしたくもなる厄介な欲があるんだよ。身勝手な生き物なんだ」


レイはその半分も理解できていない顔だった。

それでもいつものように近づいて、紫苑の鞄を受け取ろうと手を伸ばす。紫苑は素直に鞄を渡した。レイは鞄を置き、服を整えてやろうとしてから、ふと手に持っていた別の束を差し出した。


古いスケッチブックと原稿の束だった。


紫苑の目に、はっきりと動揺が走る。


「おい。それ、なんだよ」


レイは一点の曇りもない顔で答えた。


「掃除してたら出てきた」


紫苑は一気に距離を詰め、それをひったくるように奪い取った。


「勝手に開くな!」


思ったより鋭い声が飛び出した。

レイはその場で固まった。指先が小さく縮こまり、傷ついた瞳が紫苑を見上げる。


「あ……ごめん……。でも、掃除してたら落ちてきて……拾っただけで……」


紫苑はそこでようやく、自分の反応が行きすぎたことに気づいた。けれど一度出した言葉は戻せない。彼は紙の束を胸に抱きしめたまま、視線を逸らした。


「そこに置いといた俺が悪いんだ。さっさと捨てとくべきだった……」


レイは何も言わず、じっと立っていた。

紫苑は紙の端を指先でなぞる。古い線の感触。押し跡。一時は全身全霊で向き合っていた夢の残骸。


「くだらないことしてたんだよ」


レイが首をかしげた。


「どうして?」


紫苑は答えなかった。

正確には、答えるのがひどく嫌だった。


死ぬほど好きだったもの。夜を明かしてまで没頭したもの。けれどいつからか自分の実力が疑わしくなり、他人の視線に耐えるのがつらくなり、続けたところで何にもならない気がして、暗い場所に押し込んだもの。説明する時間さえ惜しく感じるほど、紫苑にとっては敗北の記録でしかなかった。


「ただ……昔のことだよ」


レイはしばらく黙っていた。

それから、とてもゆっくり、慎重に尋ねる。


「紫苑が描いたんだよね?」


紫苑は否定できないまま、短く認めた。


「……ああ」


レイはそこで、原稿へ視線を落とした。さっき散らばったときに少しだけ見えた何枚かの残像を思い出しているのか、その目が真剣に沈む。


「だから、すごくよかったんだ」


紫苑は鼻で笑った。


「お前に絵の何がわかるんだよ」


「いいものはわかる」


「お前は簡単に言いすぎる」


「何も考えずに言ってるわけじゃない」


レイはとてもゆっくり、けれど釘を打つようにはっきりと言った。


「紫苑が描いたものだから、好き」


紫苑はそこで息が詰まった。

技術に対する冷静な評価でも、分析でも、具体的な褒め言葉でもなかった。なのに、なぜかどんな言葉より深く心臓に刺さった。


紫苑はわざと視線を逸らした。


「……もういい。話すだけ無駄だ」


けれどレイは止まらなかった。


「ぼくを描いて」


紫苑が勢いよく顔を上げる。


「は?」


「ぼく。描いて」


「急に?」


レイはあまりにも当然という顔をしていた。


「うん。紫苑が描くところ、見たい」


紫苑は呆れた。


「……なんで俺が」


「ぼくも見たい。紫苑が描いたぼく」


その願いがあまりにもまっすぐで澄んでいたせいで、断る理由を見つけるほうが難しかった。紫苑はしばらくレイを睨んでいたが、結局、座椅子にどさりと腰を下ろした。


「……適当にポーズ取れ」


レイの目が一瞬で輝いた。


「描いてくれるの?」


「一回だけだ」


「うん!」


「じっとしてろよ」


「うん」


「そんな期待した顔すんな」


もうすでに期待で弾けそうな顔をしていた。

紫苑は埃をかぶったスケッチブックを開いた。本棚の隅に押し込まれていた鉛筆ケースも開ける。鉛筆を握る感覚は、思ったほど異物ではなかった。かなり長く離れていたはずなのに、体は完全には忘れていないらしい。


レイは紫苑の向かいに座った。最初こそ姿勢を正そうとしていたが、すぐにまた紫苑をじっと観察しはじめる。紫苑は鉛筆の先を止め、睨んだ。


「そんなに見るな」


「どうして?」


「視線が熱い」


「じゃあ、涼しく見る」


「お前、それ自分で言ってて意味わかってないだろ」


レイはそこで小さく笑った。紫苑は舌打ちしたものの、また鉛筆を動かした。


しゃり、しゃり、と音を立てて、線が紙の上を走る。


最初は、適当に描いて終わらせるつもりだった。レイがしつこく頼むから、一度くらいならいいかと思っただけだった。

けれど何本か線を引いたところで、その考えは変わった。


レイは、ひどく優れた被写体だった。

じっとしているだけで、線が生きていた。目元の深さ、優雅な首筋、さらりと流れる髪の動き、そして一瞬ごとに変わる表情まで。普通の人間よりずっと創作欲を刺激する顔と、唯一無二の空気があった。鉛筆は取り憑かれたみたいに動き、手も思ったよりよくついてきた。


紫苑はいつの間にか、自分でも驚くほど深く集中していた。レイは途中で首をかしげたり、見るなと言われるほど余計に気になるらしく紫苑を目に映したりした。紫苑は何度も「じっとしてろ」と小言を言ったが、そのたびに線はかえって生き生きとしていった。


おかしかった。


……かなり、楽しかった。


被写体がいいからだろう。

紫苑は必死にそう合理化した。自分がまた描きたくなったわけではない。レイがあまりにも変わっていて、綺麗だからだ。そう思ったほうが、まだ恥ずかしくなかった。


しばらくして、紫苑が鉛筆を置いた。


「できた」


レイがすぐに身を乗り出す。


「見せて!」


「待て。心の準備くらいしたほうがいいぞ」


「どうして?」


「……頼まなきゃよかったって後悔しても知らないからな」


紫苑は妙に震える手で、スケッチブックを回して渡した。

レイはそれを両手で慎重に受け取った。


そして絵を見た瞬間、レイの目がぱっと明るく開いた。


「わあ……」


その短い感嘆の声ひとつで、紫苑の体のほうが先に強張った。レイは絵と紫苑を何度も見比べる。


「これ、ぼく?」


「……そうだろ」


「本当に、ぼくだ」


「だからそうだって」


レイはスケッチブックを、まるで家宝みたいに大事に抱きしめた。


その刹那、部屋の空気がかすかに揺らいだ。

先に異変に気づいた紫苑が、顔を上げる。


窓辺に置かれたコップの水面が、さざ波みたいに震えていた。宙に生まれた小さな水滴が光を受けてダイヤモンドみたいにきらめき、カーテンの裾は風もないのに波のように揺れている。まるで、レイの胸に溢れた喜びが肉体という器に収まりきらず、神性の揺らぎとしてこぼれ出しているみたいだった。


レイは絵から目を離せないまま、ごく小さく呟いた。


「好き」


紫苑はその光景を、黙って見つめていた。

レイが喜ぶとは思っていた。けれど、部屋の物理的な空気まで変えてしまうとは思わなかった。その喜びの純度があまりにも澄んでいて、美しくて、紫苑の唇の端がほんのわずかに動いた。


レイは絵を抱きしめたまま顔を上げた。


「紫苑、本当に絵が上手」


紫苑はぱっと顔を背けた。


「褒めたって何も出ない」


「うん?」


「漫画家とか、絶対やらないからな」


レイは少し考えてから、ひどく真面目に返した。


「やってもいいと思うけど」


紫苑はそこで、こらえきれずに小さく笑った。


「お前、その簡単に言う癖、直したほうがいいぞ」


「簡単に言ってない。本当だよ」


紫苑は結局、それ以上強く否定できなかった。やらないと冷たく言い切ったくせに、不思議と少しだけ気分がよくなっていた。死んでも認めたくないくらいには。


その頃、濃い闇の中で、明るい液晶画面がひとつ点いていた。


数えきれない短い動画や刺激的な画像、流行りの写真のあいだに、レイの顔が何度も何度も流れている。アイスを手にした一瞬。帽子の下から覗く漆黒の髪。夏の日差しの中、彫刻のように刻まれた鮮やかな顔立ち。


画面を見下ろしていた誰かが、ゆっくりと目を細めた。


「……この力は」


笑みなのか、ひどい興味なのかわからない冷たい気配が広がった。

人々はただ、美しい顔に熱狂しているだけだった。けれど、その熱狂の質感は決して軽いものではない。


感嘆。憧憬。執着。そして畏敬。


たとえ浅く、刹那的な形であっても、その無数の視線は見えない糸となって、一つの方向へと集まりつつあった。


崇拝に近い、大衆の関心。

それは本人すら気づかないうちに、巨大な力となってレイへ流れ込みつつあった。


闇の中の存在は、画面に映るレイの横顔を指先で軽くなぞった。


「見つけた」


低く沈んだ笑い声が響いた。


「混沌の匂いが……これほど鮮明に」


遠く、あまりにも遠く離れた未知のどこかで、永劫の時を眠っていた何かが、ゆっくりとその巨大な目を開きはじめた。



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読んでくださってありがとうございます。

次回は毎週金曜日、21時頃に更新予定です。

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