10話:裂けた世界
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創造主の身勝手な夏 — 第十話
裂けた世界
紫苑は朝から、どうにも仕事に集中できなかった。
モニターを睨むように見つめてはいた。けれど網膜に映っているのは文字ではなく、まったく別の残像ばかりだった。陽射しの下でアイスを手にしていたレイの顔。スマホの画面を埋め尽くしていた爆発的な反応。会社の女性社員たちの浮き立った会話。
そして昨日、家に帰るなり投げつけた最初のひと言。
「おい、お前、撮られてたぞ」
頭の中は、まだその騒がしい考えでいっぱいだった。
やっぱり家の中に隠しておくべきなのか。いや、それは自分でも気が進まない。だからといって、無策で連れ出すには、あいつはあまりにも目立つ存在だった。
「紫苑くん」
ぼんやり沈んでいた紫苑は、はっと顔を上げた。
「はい」
「これ、確認した?」
課長がパーティション越しにファイルをひとつ差し出してきた。紫苑は反射的に受け取り、中身をざっと目で追う。修正依頼自体は難しくない。普段の紫苑なら、もうとっくに片づけていたような単純な作業だった。
けれど今日は、どうにも文章が頭に入ってこない。
文字が脳の表面を滑っていくばかりだった。
「……はい。今やります」
彼は慌ててキーボードに手を置いた。
指は機械的に動いたが、意識の一部は相変わらず家のほうへ向いていた。
レイは今朝、残った材料で何を作ると言っていたっけ。
たしか、「今日は昨日よりしょっぱくならないようにしてみる」とか言っていたような。
それより、あの写真は一体どこまで広がったんだ。
紫苑は小さく奥歯を噛んだ。
「はぁ……」
その瞬間だった。
たた、たた、たた。
事務所のあちこちから聞こえていた規則正しいキーボードの音が、ひと拍遅れて鼓膜に届いた。紫苑の指先が止まる。
もう一度、聞こえた。
たた。
今度は、ずっと遅かった。
すぐ隣の席から聞こえている音ではない。もっと遠い、深い淵の底から反響して押し寄せてくるような、奇妙な音。
紫苑はゆっくりと顔を上げた。
プリンターは紙を半分吐き出した奇妙な姿勢のまま、止まっていた。廊下を歩いていた社員は、足を踏み出しかけたポーズで標本みたいに固まっている。課長は口を半分開けたまま、画面を指さした指先まで固まっていた。
天井の蛍光灯の光がかすかに震え、次の瞬間、いくつもの残像となって重なって見えた。
紫苑は椅子から、ひどくゆっくりと立ち上がった。
「……なんだよ」
返事はなかった。
当然だった。
この空間で動いているのは、紫苑だけだった。
エアコンの唸りも死んでいた。コピー機の音も、誰かがコップを置く音も、廊下の足音も、一瞬で断ち切られたように消えている。残っているのは、鼓膜を圧迫するような奇妙な静寂だけだった。
けれど、その静寂すら完全な沈黙ではない。
どこか遠くで、現実の壁がひび割れるような破裂音が聞こえた。
紫苑は本能的に窓の外を見た。
空がおかしかった。
本来なら澄んでいるはずの午前の空に、細い亀裂が幾千にも重なって走っていた。ガラス表面のひびにも、破れた紙の断面にも見える。建物の外壁も同じだった。確かにそこに建っているのに、同時に少しずつ歪んでいる。まっすぐであるはずの線は蛇のように曲がり、四角い窓はどこかで破れてまた貼り合わされたみたいに、奇怪に潰れていた。
紫苑は息を吸った。
「……なんだよ、これ」
床が薄く震えた。
地震のような物理的な揺れではない。
現実という表皮が一枚、ずるりと押し流されるような、不快な感覚だった。
そして、その直後――
事務所の真ん中の空間が、音もなく開いた。
爆発も、閃光もなかった。
ただ、本来は一枚であるはずの世界の膜が、誰かの爪で引っかかれたみたいに、ゆっくりと静かに裂けていく。
隙間から漏れてくるものは、闇でも光でもなかった。
視覚的には確かに存在しているのに、脳が認識しようとした瞬間、すぐに滑り落ちてしまうような、見知らぬ色と形だった。
紫苑は、その非現実的な光景の前で凍りついた。
裂け目の縁には、淡い光の糸が絡みついていた。まるで世界が完全に崩壊しないように、誰かが必死に縫い留めているようだった。今にもさらに大きく裂けてしまいそうな隙間を、見えない力がかろうじて塞ぎ止めている。
理由のわからない寒気が、紫苑の背筋を伝った。
誰かが、抑えている。
そんな直感が脳裏を掠めた。
そして次に、誰かがこの場所へ入ってこようとしているのだと理解した。
裂け目の向こうから、ひとつの影が歩み出た。
人間の形をしていた。
二本の腕と二本の足。整った顔立ち。あまりにも自然な歩き方。
けれど、人間ではなかった。
紫苑は本能でそう確信した。
奇妙なことに、目を逸らせないほど美しかった。過剰に整った顔の線。過剰に落ち着いた表情。そして潔癖なほど端正な服装。何ひとつ派手ではないのに、その存在そのものが現実の美意識から完全に外れていた。
額装された絵のように完璧で、けれど温度がない。
慈悲深い微笑みを浮かべることもできそうなのに、長く見つめてはいけないような圧があった。
その存在が事務所の中へ完全に足を踏み入れた瞬間、壁面が奇怪に歪んだ。窓の外の風景が、紙みたいに一度折れ、また開く。
紫苑は息を殺した。
相手は、ここを初めて訪れた者とは思えないほど悠然と空間を見回した。標本のように止まった人々。停止した時間。亀裂の入った空。そして、その先にひとり立っている紫苑。
やがて、視線が合った。
その存在の口元が、ほんのわずかに弧を描く。
「ああ」
声は驚くほど穏やかだった。
耳に心地いいほど甘く、だからこそ寒気がした。
「君が、あの人間か」
その言葉を聞いた瞬間、紫苑の中では恐怖よりも先に、鋭い苛立ちが込み上げた。
「……なんだよ」
その存在は、ゆっくりと紫苑へ歩み寄ってきた。
足取りはゆったりしている。けれど一歩踏み出すたび、空間が悲鳴を上げるように歪んだ。まるでこの脆い現実が、その存在の重みに耐えきれず、無理やり押し潰されているようだった。
紫苑は奥歯を強く噛みしめた。
「お前、誰だよ」
「人間ごときに名乗る必要はない」
相手は淡々と答えた。
「思ったより平凡だね。あの方が君のそばにいる理由が、ますますわからない」
その言葉が終わった瞬間、紫苑の目つきが鋭く変わった。
「……あの方?」
相手は答えの代わりに笑った。
人間の真似を完璧にこなす獣のような笑みだった。
紫苑は即座に悟った。
レイのことを言っている。
胸がひやりと落ちた。
それなのに、感覚はむしろ研ぎ澄まされていく。さっきまでの動揺が潮のように引いて、残ったのは鋭い警戒心だけだった。
「それで……用件はなんだよ」
相手は軽く首を傾げる。
「見に来たんだ。直接。あの方が、なぜ君のそばにいるのかを」
「見たなら帰れ」
相手の笑みが、少し深くなった。
「気が強いね」
「他人の会社まで来てふざけたことしてるんだから、腹も立つだろ」
紫苑は、自分でも驚くほど冷たく吐き捨てた。
正直、恐怖は足元からせり上がっていた。心臓は不規則に跳ね、この空間がどれほど危険なのか見当もつかない。けれどレイの話が出た瞬間、なぜか一歩も引きたくなかった。
相手はそんな紫苑を、面白い玩具でも観察するように見つめた。
「人間のくせに、恐怖を忘れたのかな」
「怖がってはいる。けど、それより人間、人間ってうるさいのが腹立つ」
「面白い」
その存在が、ゆっくりと手を持ち上げた。
いつの間にか、その手には巨大な鎌が握られていた。
いつからそこにあったのかすらわからない。
光と影の境界を薄く削って作ったような鎌だった。刃は漆黒なのに、その縁だけが硝子の破片のように鋭く光っている。
紫苑は本能的に、全身が強張るのを感じた。
その存在は、すぐそばで止まっていた女性社員へ向けて、何でもないように鎌を振るった。
「おい――!」
紫苑が反射的に叫んだ。
けれど鎌は、女性社員の顔を裂かなかった。
代わりに、彼女の頬のすぐ横の空間を、精密にかすめていく。
その瞬間――
ぱきん。
空間が、断面ごと切り取られた。
止まっていた女性社員の髪が数本、力なく宙に散った。社員証の紐が一刀で断ち切られ、その背後の壁と窓ガラスに長い亀裂が走る。棚の上の書類の束が、紙切れみたいに裂けた隙間に引っかかり、がたんと揺れて止まった。
人には当てなかった。
わざとだ。
それを理解した瞬間、紫苑はぞっとするような恐怖を味わった。
殺せるのに、殺さなかった。
ただ紫苑に、この圧倒的な力をはっきり見せつけるためだけに。
その存在は、鎌を軽く払って紫苑を振り返った。
「どれだけ愚かな人間でも、これくらい見ればわかるだろう?」
紫苑は歯を食いしばったまま、何も答えられなかった。
相手は息遣いが聞こえるほど近くまで寄ってきて、低く囁いた。
「あの方を渡せば、静かに帰ってあげてもいい」
その提案が落ちた瞬間、紫苑の胸の真ん中が奇妙に沈んだ。
静かに。
帰る。
そうすれば、すべてが終わる。
この奇怪な空間も、息苦しい恐怖も、刻一刻と締め上げてくる脅威も。
そんな甘い考えが脳裏を掠めた、その次の瞬間だった。
……死にたくない。
紫苑は自分の思考に驚き、目を見開いた。
なんだ、今のは。
今、自分は死にたくないと思ったのか。
それは、長いあいだ無力感の中で生きてきた紫苑にとって、あまりにも馴染みのない、異質な言葉だった。
紫苑はもともと、死にたいというより、死んでも構わないというほうの人間だった。死ぬために生きているわけではない。けれど必死に生きたいと思えるほどの人生でもない。あまりに疲れたときには、いっそ誰かがきれいに終止符を打ってくれたらいいと思ったこともあった。
それなのに、なぜ。
なぜ今、この瞬間。
なぜこんなにも鮮明で強烈に、死にたくないという意志が飛び出してきたのか。
頭の中に、短い残像が閃光のように走った。
森で初めて、自分のシャツを掴んだレイの小さな手。
名前を呼んでやると、世界のすべてを手に入れたみたいに笑った顔。
初めて雨に触れて、不思議そうにはしゃいでいた姿。
「おかえりなさい、紫苑」
アイスを食べながら、「おいしい」と囁いた夏の光の中の横顔。
そして絵を抱きしめて喜び、部屋の空気すら波立たせた、あの眩しい瞬間。
紫苑はゆっくりと悟った。
自分が今恐れているのは、死そのものではなかった。
レイを失うことだった。
相手は紫苑の沈黙を肯定と受け取ったのか、口元をさらに歪めた。
「……いくら人間とはいえ、思ったよりずっと愚かだね」
紫苑は、ゆっくりと顔を上げた。
心臓は相変わらず破裂しそうに跳ね、指先は氷のように冷たい。けれど頭の中は、今までになく澄んでいた。
「……お前なんかに、レイは渡さない」
相手の薄い笑みが、ほんのわずかに固まった。
紫苑は、さらに明確で硬い声で続ける。
「絶対に」
その短い言葉に、さっきまで揺れていたすべての感情が、鋼のように鍛え直された気がした。
その存在はしばらく紫苑をじっと見つめ、それから低くくつくつと笑った。
「面白い顔をする」
紫苑は足首を締めつける見えない圧に耐えながら、一歩前へ出た。
「俺なんか、どうなってもいいと思ってる」
声は細かく震えていた。
それでも、止まらなかった。
「でも、レイだけは絶対にだめだ」
その存在の瞳が、冷たい興味に沈んでいく。
「君……自分の立場がわかっていないのかな?」
その言葉が終わると同時に、紫苑の表情が固まった。
相手はそれすら愉快そうに見て、続ける。
「おめでとう。人間のくせに、価値ある人質になれたんだよ」
その直後、周囲の空間が耐えきれず弾けるように、もう一度大きく震えた。
窓の外の空の亀裂が、さらに醜く広がる。蛍光灯の光は長く伸びて潰れ、止まっていた人々の影が奇怪にずれた。裂け目を縫い留めるように張っていた光の糸が、ぴんと張り詰める。
紫苑は、とても遠く、見えない向こう側から届く、馴染みのある気配を感じ取った。
冷たく澄んだ気配。
静かに広がる水面の波紋のような存在感。
紫苑は目を見開いた。
まさか。
相手もその変化に気づいたらしい。
口元がいやらしく吊り上がる。
「こうなったら、助けてって叫んでみるのはどう? そのほうが面白そうだ」
紫苑は心臓が崖の下へ落ちていくような感覚を覚えた。
レイに、これを気づかれてはいけなかった。
ここへ来れば、もっと危険になるだけだ。
けれど同時に、あいつはすでにすべてを感じ取っているはずだという不吉な確信が、全身を包み込んでいた。
「来るな……」
紫苑は思わず、祈るように呟いた。
だが、その弱い願いが相手に届いたのかどうかはわからない。
遠く、目に見えない巨大な深淵で、静かに流れていたひとつの水脈が、初めて荒々しく波立ち始めていた。
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