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8話:夏の駄菓子屋


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創造主の身勝手な夏 — 第八話

夏の駄菓子屋



翌日の土曜日の朝、紫苑は玄関を出る前から、すでに気力をかなり削られていた。


「じっとしてろ」


「なんで?」


「なんでって聞く暇があるなら、マスクをちゃんとつけろ」


レイは紫苑にされるがまま、大人しく立っていた。人間の姿に、ほとんど完璧に化けている。角も、膜も、尾も、跡形もなく隠していた。見た目だけなら、ただの整った青年に見える。

問題は、その“整っている”の度合いが限度を超えていることだった。


紫苑はレイのマスクの紐を丁寧に直し、深く被らせた帽子のつばをもう一度ぐっと押し下げた。


「これで少しはマシだろ」


けれど帽子の下で、レイの目元には不満がありありと滲んでいた。


「息、苦しい」


「我慢しろ。その顔を晒すより百倍マシだ」


レイはたちまちしょんぼりした顔で聞き返す。


「どうしてバレちゃだめなの?」


紫苑は答えようとして、口をつぐんだ。

どうして、と問う瞳があまりにも無垢で、何をどう説明すればいいのか、一瞬目の前が遠くなる。


お前は目立ちすぎるし、顔が良すぎるし、人間じゃないみたいな気配が出てるから面倒なことになりそうなんだよ。


そんなふうに正直に言えるはずもなかった。


結局、紫苑は適当に濁した。


「とにかくダメなんだよ。黙ってついてこい」


レイはまだ何か言いたそうだったが、紫苑のきっぱりした態度にこくりとうなずいた。


「うん。紫苑の言うとおりにする」


その従順な返事があまりにもあっさり耳に届いて、紫苑はなぜか眉間に皺を寄せた。


「……そういうことも、外ではあんまり素直に言うな。変に聞こえるから」


「なんで?」


「いいから」


レイは不思議そうな顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。紫苑はそんなレイを上から下まで一度見た。普通のTシャツに薄手のシャツ、楽なズボン、帽子にマスク。できるだけありふれた格好をさせたはずだった。

それなのに、目を引く。


骨格が整いすぎていて、比率が非現実的だった。立っているだけで、周囲の空気をさらっていく類の外見だった。


紫苑は深いため息をついた。


「いや、なんで隠しても目立つんだよ」


レイが帽子のつばの下から紫苑を見下ろす。


「なにが?」


「もういい」


紫苑は諦めた顔で玄関の扉を開けた。


「とにかく今日はおつかいの練習だ。俺の言うことをちゃんと聞くこと。勝手にうろうろしないこと。人が多いところでマスクを外さないこと。わかったな?」


レイはひどく厳粛に答えた。


「わかった」


それから少し間を置いて、付け足す。


「紫苑の隣にいればいいんだよね?」


鍵を閉めようとしていた紫苑の指先が、わずかに止まった。


「……ああ」


レイの目元が、ほんの少しだけやわらかく弧を描いた。

その小さな変化が妙に気になって、紫苑はいつもより足早に歩き出した。


最初に向かったのは、近所のスーパーだった。


レイは最初こそ紫苑の隣にぴったりくっついて歩くことだけに集中しているようだったが、店内に入った途端、視線が忙しなく動き出した。鮮やかな冷蔵コーナー、新鮮な野菜売り場、降り注ぐ蛍光灯の光と、カートを押す音。

そのすべてが、レイにとっては初めて出会う新世界のようだった。


紫苑はカートを押しながらも、絶えずレイの様子を見ていた。


「前見ろ」


「うん」


「きょろきょろしすぎるな」


「うん」


「……返事だけはいいな」


レイはマスクの下で、かすかに笑ったようだった。紫苑はそれ以上何も言わず、棚のあいだへ入っていく。

だが、買い物が始まるなり伏兵が現れた。


紫苑が迷いなくカップラーメンへ手を伸ばした瞬間、レイが即座に口を挟んできたのだ。


「それ、なに?」


「昼飯」


「お昼にそれを食べるの?」


「なんだよ、不満か?」


レイはカップ麺の容器をしばらく見下ろしてから、遠慮がちに口を開いた。


「体によくなさそう」


紫苑は気にせず、別の種類のカップ麺をもうひとつ手に取った。


「早いし楽だろ」


するとレイは、ごく自然な動きで紫苑の手からラーメンを取り上げ、元の場所に戻した。紫苑の動きが止まる。


「……何してんだ」


レイは至って真剣だった。


「だめ」


「なんでだよ」


「それは、ごはんじゃない」


紫苑は呆れてレイをまじまじと見た。


「いや、お前いつから俺の食生活を管理する立場になったんだよ」


レイは一歩も引かなかった。


「ぼくがやらないと、紫苑はやらない」


あまりにも当然の真理みたいに言われて、紫苑は一瞬言葉を失った。レイはまるで、論理的に完璧な結論を出したとでもいう顔で野菜売り場を指さす。


「あっち行こう」


「嫌だ」


「行かなきゃ」


「お前は俺の母親か。だいたい、俺がお前を育てたんだけど……」


結局、紫苑はぶつぶつ文句を言いながらも、レイに引っ張られるように野菜売り場へ連れていかれた。


そのあとも、攻防は続いた。

紫苑がおにぎりを手に取れば、レイは惣菜コーナーを見つめる。紫苑が冷凍食品を入れれば、レイは卵と豆腐を籠に入れる。紫苑が炭酸飲料を選べば、レイは水を持ってきた。


「お前、元からそんなに口うるさかったか?」


「紫苑が適当に食べすぎるから、言うしかないんだよ」


「適当に食っても死なねえだろ」


レイはしばらく考え込んだ。


「死なないのと、大丈夫なのは違う」


紫苑はその場で足を止めた。


「……誰がそんなことまで教えたんだよ」


「わからない。ただ、知ってる」


紫苑は降参するように息を吐いた。買い物かごの中を見ると、カップラーメンは影も形もなく、新鮮な野菜と肉、豆腐、果物が場所を占めていた。誰が見ても健康的で模範的な買い物だったが、その主導権が自分ではなくレイにあるという事実が、妙に落ち着かなかった。


紫苑はわざと拗ねたように言った。


「お前、ちっちゃかった頃のほうが可愛かったな」


レイが即座に反応する。


「今は可愛くない?」


紫苑はその問いに真正面から詰まった。


「……そういう意味じゃなくて」


「じゃあ?」


「はあ、もういい。長くなるから行くぞ」


レイはマスクの下で、確かに笑っていた。見えていないはずなのに、その気配だけは妙にはっきり伝わってきた。


買い物が終わる頃には、紫苑の意図よりも、レイの選んだもののほうがずっと多く入っていた。

それなのに、不思議と嫌ではなかった。誰かとこうして、どうでもいいことで言い合いながら買い物をする。その事実が、見慣れないのに妙な安らぎをくれた。

それが紫苑には、いちばん不思議だった。


スーパーを出て、家へ向かう途中だった。


真昼の太陽は、夏の盛りを告げるように強く照りつけていた。路地のあいだでは、熱い空気がゆっくりと揺らいでいる。レイは軽い袋をひとつずつ両手に持ち、紫苑の隣を歩いていた。最初よりずっと外の空気に慣れたようだったが、それでも見慣れないものを前にすると、どうしても足を止めてしまう。


「紫苑」


「なんだよ」


レイが道の向こう側にある小さな店を指さした。


「あれ、なに?」


紫苑の視線がそちらへ向いた。

そこには、古びた小さな駄菓子屋があった。色褪せた看板。店先にはアイスケースと、派手な色の菓子、雑な作りの玩具がごちゃごちゃと並んでいる。まるで夏のアニメにでも出てきそうな光景だった。


レイはその景色に、すっかり見入っていた。


「行ってみたい」


紫苑は一瞬、足を止めた。

“駄菓子屋”。その言葉ひとつで、短く鋭い記憶の欠片が胸を掠めた。


輪の外側をうろついていた子どもの頃の自分。

小遣いをはたいてアイスを買ってやり、その一瞬だけ友達の気を引いたこと。

そしてそのあとに残った、もっと深い疎外感。


紫苑は昔からわかっていた。

何かを与えたところで、人の心は買えないのだと。


「……たいしたもんじゃない」


紫苑の声が乾いた。


「ただの古い店だよ」


けれどレイは、まだそこから目を離せなかった。


「見てもいい?」


その声があまりにも澄んでいて、まっすぐで。紫苑はどうしても突き放せなかった。少し見るだけならいいだろう。


「……すぐだぞ。ちょっと見るだけだからな」


レイの瞳が一瞬で輝いた。


「うん」


子どもみたいなその反応に舌打ちしながら、紫苑は先に道を渡った。


駄菓子屋の中には、外より少しだけ涼しい空気が漂っていた。古い菓子袋の匂いと、冷凍ケース独特の霜の匂いが混ざっている。棚には色とりどりの駄菓子や安っぽい文房具がぎっしり詰まっていて、それを見たレイの目が丸くなった。


「……たくさんある」


「そうだな。質問は一回につき一個までな」


レイはすぐさま冷凍ケースの前へ駆け寄った。


「これは全部冷たいの?」


「ああ」


「全部食べるもの?」


「ああ」


「これはどうしてこんなに色が多いの?」


「食わせるために作ってるからだろ」


レイは本当に子どものように、何もかもを珍しがった。カラフルなアイスの包みを眺め、飴の入ったケースを覗き込み、ひどく真剣に悩んでいる。紫苑は最初こそ「ひとつだけ選べ」と急かしていたが、いつの間にか隣に立って、ひとつひとつ説明を付け足していた。


「それは甘すぎる」

「それはただの氷みたいな味」

「ああ、それは意外とうまい」


しばらく悩んだ末に、レイが棒アイスをひとつ手に取った。


「これ」


「それ? なんで」


「色がきれい」


紫苑は思わず小さく笑った。


「ほんと単純だな」


そう言いながら、自分も見慣れたアイスをひとつ選ぶ。

子どもの頃、よく口にくわえていた味。好きだったはずなのに、いつの頃からか一人で食べても何の味もしなくなって、自然と遠ざけていた種類だった。


会計を済ませて外に出ると、容赦ない夏の日差しがまた視界を叩いた。レイはアイスを手に持ったまま、マスク越しに紫苑を見る。


「これは、どうやって食べるの?」


その姿に、紫苑は思わず乾いた笑いを漏らした。


「マスク下ろして食うんだよ」


レイはやけに真剣にうなずいた。

二人は近くの大きな木陰に並んで腰を下ろした。日差しを避けた涼しい場所。蝉の声、じっとりした空気、溶けていくアイス。

すべてが、夏の真ん中にあった。


レイがゆっくりとマスクを下ろす。紫苑はその瞬間、癖のように周囲をもう一度見渡した。幸い近くに人はいなかったが、気を抜くわけにはいかなかった。レイは包みを剥がすことすら不慣れで、しばらくもたもたしていた。結局、見かねた紫苑がそれを取り上げる。


「こうだ。開けて、持って、食う」


レイは教わったとおり、おそるおそるひと口かじった。

その瞬間、レイの目が丸くなる。


「冷たい」


「アイスだからな」


「甘い」


「それもアイスだからな」


レイはもうひと口、大きめにかじってから、静かに微笑んだ。


「おいしい」


その短い言葉に、紫苑の胸の奥がふっと緩んだ。

なんてことのないアイスひとつ。古びた駄菓子屋。並んで座っているだけの時間。

それだけなのに、思ったよりずっと楽しかった。


誰かの顔色を窺う必要もない。機嫌を取る必要もない。

ただ同じ方向を向いて、同じ温度を感じている時間。


その平凡さが、紫苑にはこの上なく特別に思えた。


レイがアイスを食べる手を止めて、紫苑のほうを見る。


「紫苑」


「なんだよ」


「笑った」


紫苑は即座に眉をひそめた。


「笑ってない」


「笑ってた」


「……アイス食ってろ」


レイはまた、楽しそうに笑った。

その拍子にアイスの先が溶けて、レイの手の甲にぽたりと落ちる。紫苑は反射的に手を伸ばし、それを拭ってやった。


一瞬、短い沈黙が流れた。


レイは紫苑をじっと見つめ、無意識の行動に自分で動揺した紫苑は慌てて手を引っ込める。


「……ついてたから」


レイはとてもゆっくり目を細めた。


「うん」


その返事が、夏の風よりもくすぐったく触れた。紫苑は自分のアイスを大きくかじる。暑くて、甘くて、少しだけ冷たい。そして隣の場所が、ひどく心地いい時間。

こんな夏もあるのだと、紫苑は本当に久しぶりに思い出していた。


そのとき、紫苑はふと、どこかから視線が触れたような気がして顔を上げた。

けれど目に入るのは、眩しい日差しと蝉の声ばかりで、特に怪しいものは見当たらなかった。


だが少し離れた場所で、誰かが静かにスマホを掲げていた。


カシャ。


ほんの短い、かすかなシャッター音だった。

紫苑もレイも、その音には気づかなかった。夏の眩しい光の下、マスクを下ろしたまま無防備にアイスを楽しむレイの横顔が、画面の中へそのまま収められる。帽子の下からこぼれる黒髪。陽を受けて透けるように光る肌。彫刻めいた目鼻立ちまで。


「やば……」


少し離れたところで、小さな感嘆が漏れた。


「え、何あれ。芸能人? マジでかっこいいんだけど」


その囁きは、すぐに夏の熱気の中へ溶けていった。

紫苑は何も知らないまま、ただ隣に座るレイをちらりと盗み見た。レイはアイスを食べ終えたあとも、残った棒をしばらく珍しそうに眺めていた。


「食べ終わったなら捨てろ」


「もったいない」


紫苑はとうとう我慢できず、笑ってしまった。


「ほんと、何でもかんでも惜しがるな」


レイは紫苑のほうへ少し身を寄せて、大事そうに言った。


「紫苑とおつかい、楽しかった」


紫苑はすぐには答えられず、少し間を置いた。

そしてずいぶん経ってから、声にもならないほど小さく呟く。


「……俺も」


その告白は、夏の空気の中へ静かに沈んでいった。

二人は穏やかな気持ちで家へ向かって歩き出す。


けれどどこかでは、さっき撮られたレイの写真が、世界へ向かって弾ける準備を終えていた。



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読んでくださってありがとうございます。

次回は毎週金曜日、21時頃に更新予定です。

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