7話:人の住む家
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創造主の身勝手な夏 — 第七話
人の住む家
紫苑は最近、前よりずっと仕事ができるようになっていた。
正確に言えば、できるようにならざるを得なかった。
残業したくなかったからだ。
いや、それよりもっと正確な理由は別にあった。
早く家に帰りたかった。
「紫苑くん、これ昨日の修正、反映されてる?」
課長の声に、紫苑は間髪入れずモニターを向けた。
「はい。さっき終わりました。こっちの表現は少し柔らかく変えて、下は重複して見えたので削りました」
課長はしばらく画面を眺め、眉をぴくりと上げた。
「お。紫苑くんのくせに、最近どうしたの?」
相手特有の皮肉っぽい口調にも、紫苑はマウスを握ったまま無表情で答えた。
「別に」
内心は、まったく“別に”ではなかった。
早く家に帰らなきゃいけないんで。
前だったら、同じ状況でも必ずもう一言ひねくれた言葉を足していたはずだ。上司に何か言われれば表情から固くなり、刺々しく言い返して話が大きくなり、結局仕事よりも無駄な張り合いで疲弊することのほうが多かった。自分でも、どうしてあそこまで簡単に苛立っていたのかわからないほどだった。
けれど最近は違う。
適度に聞いて、適度に流して、必要なことだけを素早く直して終わらせる。柔らかくなったのも確かだし、現実的になったのも確かだった。
理由は単純だ。
定時で帰らなきゃいけないから。
紫苑はモニター右下の時刻をちらりと見た。まだ十数分残っていた。そんな短い時間さえ、砂時計の砂が落ちるみたいにひどく長く感じられた。
「これ急ぎじゃないから、明日の午前に――」
隣の席の同僚が遠慮がちに声をかけてくる。紫苑は反射的に体をこわばらせたが、できるだけ平静を装った顔で答えた。
「明日まで回していいものなら、明日処理してください。今日中に必要なら、今お願いします」
礼儀として言っただけの台詞だったが、その表情と声音は“これ以上触ると面倒なことになる”と告げる警告みたいに冷たく沈んでいた。ただでさえ淡々とした顔がいっそう冷えて見えたのか、相手も「じゃ、じゃあこれは明日に回します……」とそそくさと引き下がった。
紫苑は心の中で短く安堵する。
保存。送信。整理。
手はもう、慣れた退勤前のルーティンをなぞっていた。鞄の中身はとっくに整えてあり、机の上も珍しくきれいだった。皆が最後のメッセージを確認しながら一息ついているころ、紫苑はすでにスタートラインに立つ短距離走者みたいな状態だった。
あからさまに浮き立っていたわけではない。表情は相変わらず乾いていて、口数も少ない。けれど頭の中では、もう玄関のドアが開いていた。
退勤時間まできっかり三分になった頃、課長がまた紫苑を見た。
「今日もぴったり帰るんだな?」
紫苑は椅子を押し込みながら、何でもないふうに答えた。
「はい」
「最近なんかあった? まさか恋人でも隠してるとか?」
紫苑はほんの一瞬だけ動きを止めたあと、肩をすくめてみせた。
「家に帰ったら、ちょっとやることがあるんで」
その言葉は嘘ではなかった。
ただ、その“やること”の正体が、正体不明だったものから成体になり、今では人間の姿にまでなって家事をこなしている存在と向き合うことだ、という点さえ除けば。
六時きっかり。会社の建物を出た瞬間から、紫苑の歩調は速くなった。自分でも気づかないほど微かに、けれど切実に。
前は、退勤後の道のりがやたらと長かった。疲れた日はコンビニを無意味にうろつき、駅の近くをぼんやり歩き回った。帰る場所があっても、特別早く着きたいとは思わなかったからだ。
けれど今は違う。
帰る場所があった。
そこには、自分を待っている誰かがいた。
紫苑は意味もなく、さらに歩く速度を上げた。
玄関の前に立ったとき、一日中まとわりついていた粘つくような疲労が少しだけ薄れていくのを感じた。紫苑は鍵を取り出して扉を開ける。
すると同時に、待っていたみたいな聞き慣れた声がした。
「おかえりなさい、紫苑」
紫苑はその場で固まった。
キッチンのほうで、レイが顔を上げていた。ゆるいシャツに楽なズボン姿で、腰には似合わないエプロンをつけている。袖は肘の下までまくられ、黒い髪は結んだのか結んでいないのか曖昧なまま肩に流れていた。
紫苑はしばらくその見慣れない光景を目に焼きつけてから、やっと口を開く。
「……なんだよ、その言い方」
レイはごく自然に答えた。
「覚えた。家に帰ってきたら、こう言うんだって」
紫苑はまだ靴も脱ぎきらないまま、玄関先で立ち止まっていた。
「どこでそんなの覚えた」
「動画。あと、本」
「余計なこと覚えたな」
言葉は刺々しく出た。けれど、妙に胸のあたりがくすぐったかった。
おかえりなさい。
その短い挨拶が妙に新鮮で、そしてたまらなく心地よかった。誰も待っていない静けさの中へ沈んでいくのと、誰かが当然みたいな顔で自分を迎える家へ帰るのと。その差が、こんなにも大きかったのかと思って、紫苑は余計に無愛想な顔を作った。
「鞄、ちょうだい」
レイが自然に近づいてくる。紫苑は反射的に鞄の持ち手を強く握ったが、結局は素直に手渡した。
「……こういうのまで覚えたのか」
「うん。紫苑、疲れてるみたいだから」
紫苑はしばらくレイを見つめた。レイは何の含みもなく、ただ見えたままの事実を口にしているだけの顔だった。その無垢さが、余計に人をおかしくさせる。
「俺がいない間に、どっかの誰かさんがまた何かやらかしてないか、一日中心配してたから疲れてるんだよ」
「ぼくは紫苑が会社で何かやらかして、帰るの遅くなるんじゃないかって心配してた」
「一言も負けなくなったな」
レイはごく浅く微笑んだ。今では表情も言葉も動きも、ずっと自然になっている。とはいえ、完全に人間になった感じはしなかった。滑らかすぎる肌と、現実離れした美しい顔立ちと、じっとしていても空気の質がどこか違うような奇妙な神秘性は、まだそこに残っていた。
紫苑はそんな考えが長くなる前に家の中へ足を踏み入れた。
そして、もう一度立ち止まる。
家が綺麗だった。
正確には、綺麗すぎた。
最初にレイを連れてきた頃、この部屋には独り暮らしの男の生活感があけすけに散らばっていた。適当に脱ぎ捨てた服、適当に押し込んだコップ、床を転がるレシートや充電コード。汚いというより、ただ“どうにか持ちこたえて生きている”痕跡だけが残っていた。
でも今は違う。床には何も転がっていない。シンクはきちんと片づき、テーブルの上には余計なものがなく、窓辺の埃さえ消えていた。何より、空間そのものに“暮らしの温度”が宿っていた。空気の密度からして、もうあたたかかった。
紫苑は思わず呟く。
「……これ、ほんとに俺んちか?」
鞄を置きながら、レイが振り返る。
「正確に言えば、紫苑が大家さんに家賃を払って住んでる家だよね?」
「いや、そうだけど」
紫苑はキッチンのほうを見た。
心地いい匂いがする。刺激的ではなく、馴染み深くて、胃の奥をほどいていくような匂いだった。
「今日の飯、何」
レイの顔に、かすかな得意げさが浮かぶ。
「ごはんと、お味噌汁。それから卵焼き」
紫苑は眉をわずかに上げた。
「卵焼き?」
「うん」
「……お前が?」
レイはひどく真面目にうなずいた。紫苑は疑わしげな目つきのまま食卓に近づく。
そこには、素朴だけれど整った食事が並んでいた。湯気の立つ白いご飯、澄んだ味噌汁、黄色い卵焼きといくつかの小鉢。華やかではないのに、確かに温度のある“家のごはん”だった。
紫苑は椅子を引きながら、しばらくその光景を見下ろしていた。
「……お前、どこで料理覚えてきたんだよ」
レイは少し考え込む。
「わからない。ただ、できそうな気がしたから、やってみた」
その答えのほうがよほど非現実的だった。紫苑が席につくと、レイはあまりにも自然に水の入ったコップを隣へ置く。
「これも覚えたのか」
「うん。紫苑、先にお水飲んで」
紫苑はコップを手に取った。自分がよく使う、手に馴染んだやつだった。
「……なんでそんなことまで知ってるんだよ」
レイは少し首をかしげた。
「見てたらわかるよ。紫苑、このコップよく使うから」
紫苑は少しだけ口を閉ざし、それから水を飲んだ。喉を通る水より、この家の空気のほうがずっとあたたかかった。レイは紫苑のそばに立ったまま、反応をそわそわと待っていた。まるで採点結果を待つ学生みたいに。
紫苑はちらりとレイを見て、やがて箸を取って卵焼きを一口食べた。
そして、その動きを止める。
「……なんだこれ」
レイがすぐ不安そうに尋ねた。
「変?」
「いや」
紫苑はもう一度口に運ぶ。
「……悪くない」
その瞬間、レイの顔がぱっと明るくなった。紫苑はその率直な反応を見て、つい付け足す。
「めちゃくちゃうまいってほどじゃないけどな。ただ、普通に食える」
レイは一瞬だけしょんぼりしたが、すぐにまた息を吹き返したような顔になる。
「次はもっとおいしくする」
紫苑はそこで危うく吹き出しそうになった。
「お前、ほんと真面目だな」
「紫苑が食べるものだから」
その言葉が、あまりにも淡々と落ちてきて、紫苑は箸を持った手をわずかに止めた。レイは自分がどれだけ重いことを言ったのかも知らない顔だった。ただそれが当たり前の事実だ、という無垢な表情。
紫苑はわざと味噌汁をすくいながら視線を逸らす。
「……そこに立ってると邪魔だから、お前もさっさと座って食え」
レイは静かにうなずいたが、口元にはまだ小さな笑みが残っていた。
紫苑は食べながらも、つい周囲を見回してしまった。整ったシンク、きれいに畳まれたタオル、埃ひとつない床。ほのかに残る洗剤の匂いと、食卓の上の夕飯。
一週間前には想像もしなかった光景だった。
紫苑は心の中で、ゆっくり認めるしかなかった。
……楽なんだよな。すげえ。
会社で魂まで削られて帰ってきても、部屋が散らかっていないこと。誰かが当然みたいに自分を待っていて、「おかえりなさい」と言ってくれること。それが、こんなふうに人を柔らかくしてしまうなんて知らなかった。
紫苑は匙を置いて、小さく呟く。
「人の住む家みたいだな」
向かいに座ったレイが訊ねた。
「前は違ったの?」
紫苑は少しだけ思い返す。
「……前は、なんていうか。家っていうより、会社行く前に少しだけいて出てく場所って感じだったな。それ以上でも以下でもなかった。でも今は、ちょっと違う」
レイはその言葉をじっと聞いていた。
それから、静かに笑う。
「よかった」
紫苑はわざとその顔を見ないまま、ご飯に視線を落とした。
よかった、って。
まるで、自分がこの場所をちゃんと暮らせる場所に変えられたことが、本気で嬉しいみたいな顔だった。
紫苑は無意識にコップの縁を指先でなぞった。
そのとき、ふと気づく。
最近どうしてあんなに定時退社に命をかけていたのか。どうして会社で少しだけ柔らかくなれたのか。どうして家に向かう足取りが軽くなったのか。
早く帰りたかったからだ。
この家に。
レイがいる、ここに。
その事実に気づいた途端、紫苑は少し強張った顔で水を飲み干した。認めたくない本音に直面した人間みたいに。そんな紫苑の内心も知らず、レイは平然と訊ねる。
「明日は何食べたい?」
紫苑はしばらくしてから、ぶっきらぼうに答えた。
「……なんでもいい」
「なんでもいい、はだめ。紫苑、思ったより好みあるから」
紫苑はとうとう、ふっと笑ってしまった。
「誰が言ったよ」
レイはひどく当然みたいな顔で答える。
「ぼくが」
その確信に満ちた声が、あまりにも何でもない調子だったから、紫苑はそれ以上反論できなかった。
体は鉛みたいに重かった。会社で少し肩の力を抜けるようになったとはいえ、疲れていることに変わりはない。肩はこり、頭の奥は鈍く痛んでいた。レイはそれを見事なほど察したのか、すでに浴槽には湯が張られていた。
紫苑が浴室の扉を開けると、やわらかな湯気がふわりと外へ流れてくる。紫苑は扉の前で少しだけ立ち止まった。
「……これもお前がやったのか」
少し離れたところで、レイがうなずく。
「うん。あったかいお湯、あったほうがいいと思って」
紫苑はしばらく黙っていたが、やがて短く言った。
「……まあ、間違ってはないな」
レイの目元がやわらかくゆるむ。その反応が、まるで褒められて嬉しい子どもみたいで、紫苑はわざとそっけない顔をしたまま浴室に入った。
「とにかく、俺は風呂入るから。入ってくんなよ」
レイは何も言わずにうなずいた。
紫苑はなぜか、それを少しだけ安心だと思った。
あたたかい湯に体を沈めると、一日かけて幾重にも積もっていた疲労が、雪みたいに溶けていった。強張っていた肩がゆるみ、固まっていた首筋の奥までじんわりほどけていく。
「はぁ……」
これなら、ほんとうに人らしい暮らしをしている気がした。仕事を終えて帰ってきて、片づいた家で飯を食い、用意された風呂に体を沈める生活。誰かにとっては当たり前でも、紫苑にはあまりに縁遠く、むしろ非現実的なくらいだった。
目を閉じて、もう少しだけ深く湯に沈もうとした、そのときだった。
ばたん。
浴室の扉が何の前触れもなく開いた。紫苑は目を見開いた。
「おい――!」
扉のところに、レイが立っていた。
裸だった。
正確には、人の姿ではなかった。
あの、本来の姿のままだった。
青みを帯びた神秘的な灰色の肌。濡れたように艶めく長い黒髪。奇妙な光を宿した角。背には薄く透明な膜がやわらかく折りたたまれ、長い尾が静かに垂れている。人間の常識から外れた形なのに、羞恥を覚えるより先に、その姿が美しすぎて問題だった。
背中の膜は浴室の光を受けて、濡れたガラスみたいに淡くきらめいていた。尾はタイルの上をするりと引き、濡れた肌の上には微かな光が揺れていた。その一瞬だけ、浴室の中全体が現実ではない別の場所みたいに見えた。紫苑はその光景を何秒か呆然と見つめてから、ようやく息を吸い込んだ。
そして、そこでやっと叫ぶ。
「なんで開けるんだよ! 入ってくるなって言っただろ?!」
レイはゆっくり瞬きをした。
「でも……考えてみたら、紫苑ひとりじゃ背中洗うの難しいかなって……」
紫苑はその場で固まった。
「……は?」
レイの顔には、本当に助けてやろうという気持ちしかなかった。羞恥も、含みも、何もない。ただ紫苑が大変そうだったから、手伝おうと思っただけ。それだけの、無垢で完全な表情だった。
それが余計にたちが悪い。
「いや、待て。入ってくるな。あと、その姿でそんな自然に立ってるな」
レイは理解できないという顔のまま、一歩中へ入ってくる。タイルの上に水滴が散った。
「なんで? お風呂なんでしょ。すみずみまで綺麗に洗わなきゃいけないんでしょ」
紫苑は一瞬、言葉を失った。間違ったことは言っていない。けれど問題はそこじゃない。問題は、今のレイがあまりにも当然みたいに、あまりにも非現実的に美しく、あまりにも近くまで浴室へ入り込んでいるということだった。人間の裸とは違って、どこか性別の輪郭が曖昧だった。だから余計にあけすけなのに、不思議と露骨な性的さより、圧倒的な官能だけが迫ってくる。
それが、よほど危険だった。
紫苑は湯の中で体を縮こませた。
「いいから出ろ」
レイは少し首を傾げた。
「いっしょに洗っちゃだめ?」
紫苑はそこで窒息しかけた。
「それをなんでそんな平然と聞くんだよ!」
レイは少し考え込むような顔をしてから、紫苑の反応そのものが面白いらしく、浴槽のほうへさらに近づいた。そして純粋な目で、紫苑の顔をじっと覗き込む。
「紫苑、大丈夫? 顔赤い」
紫苑はその露骨な視線にすぐ顔を背けた。
「熱い湯に入ってるからに決まってんだろ!」
「温度、下げる?」
「いいから黙ってろ!」
レイは少しだけ笑った。からかうでもなく、嘲るでもなく、ただ不思議で面白いとでも思っているような、小さな微笑みだった。紫苑はついに両手で顔を覆う。
「……お前ほんと危ないな、ほんと」
レイはその言葉の含みを知らないまま、浴室の端に腰を下ろした。濡れた尾がタイルに沿ってゆっくり揺れ、背中の膜が光を受けてかすかに震える。紫苑は湯の中からぼんやりその姿を眺め、それから視線の置き場に困って天井を見上げた。
「本来の姿で風呂場の扉開けて入ってくるの、反則だろ」
レイが静かに訊ねる。
「反則なの?」
「人が中で風呂入ってるときに、ノックもしないで入ってくる時点でアウトなんだよ」
レイはその指摘がかなり重要だと感じたらしく、ゆっくりと真面目にうなずいた。
「わかった。次はノックする」
紫苑はそこでとうとう、乾いた笑いを漏らした。
「は。そうしろ」
レイはしばらく扉のそばに座っていたが、紫苑が本気でもう一度出ていけと言ってから、ようやく素直に立ち上がった。扉が閉まったあともしばらく、浴室の中にはさっきの夢みたいな空気が残っていた。
紫苑は湯の中に身を沈めたまま、長いことぼんやりしていた。心臓の鼓動がやけに速い。妙に熱いのが、風呂のせいなのか、さっきのせいなのか、もう自分でもわからなかった。
「ほんと……勘弁してくれ……」
風呂を上がって出ると、レイはいつの間にか、また普通の人間の姿に戻っていた。さっきの本来の姿が幻だったみたいに、何でもない顔で座椅子に座っている。その平然とした様子が、余計に腹立たしい。
「レイ」
名を呼ぶと、レイは待っていたみたいにぴんと意識を向けて紫苑を見た。
「うん」
紫苑は濡れた髪をタオルで乱雑に拭きながら言う。
「お前、家のことはうまいよな」
レイは少し考えてから、こくりとうなずいた。
「料理もするし、お掃除もする」
「ってことは、体で払うって意味ではもうやってるようなもんか」
その言葉に、レイは首をかしげる。紫苑は壁にもたれたまま続けた。
「でも、家の中だけじゃなくて。そろそろ外にも出たほうがいい」
レイがゆっくり瞬きをする。
「そと?」
「そう、外。おつかい。今まで料理の材料も生活用品も、全部俺が買ってきただろ」
レイは黙って聞いていた。紫苑は指先で部屋のあちこちを適当に示す。
「お前が家のことやってるのはわかる。でも外のこと全部俺だけがやってたら、まだ半分だろ。だから、そっちも少しはやれ」
レイの顔が、思ったより真剣になった。
「おつかい……ひとりで?」
紫苑はそこで言葉を切った。自分で言い出したことなのに、すぐに嫌な予感が胸に広がってくる。外の世界はまだ危ないし、レイは世間知らずだ。人間の姿が完璧でも、あまりに目立つ外見は隠しきれない。言葉は増えたが、常識には大穴が空いている。
けれど同時に、いつかは越えなければならない壁でもあった。紫苑はタオルを首にかけたまま、小さく呟く。
「……慣れは必要だろ」
レイの目がわずかに明るくなった。
「できるよ」
その妙な自信に、紫苑はすぐ眉をひそめた。
「それが一番不安なんだけどな」
レイは疑われたのが不満なのか、少しだけ唇を突き出した。紫苑はそのむくれた顔を見てつい笑いそうになり、すぐに目を逸らす。
「とにかく。明日から練習な」
レイは少し黙ってから、静かに訊いた。
「紫苑といっしょに行くの?」
紫苑は一拍遅れて答えた。
「……何も知らないやつを、いきなり一人で行かせるわけないだろ」
その瞬間、レイの表情がはっきりとゆるんだ。紫苑はその顔を見たら、それ以上何も言えなかった。
窓の外はもうすっかり暗く、家の中はあたたかかった。この暮らしは甘いくらいに心地よくて、だから少し怖かった。けれど問題は、もう家の中だけではない。次の段階に進むところまで来ていた。
この心地よい家の外へ、レイを連れて一歩踏み出すこと。
紫苑は座椅子に座ったレイをしばらく見つめてから、小さく呟いた。
「まずいな」
レイがすぐに反応する。
「なんで?」
紫苑は息を吐いた。
「……明日になればわかる」
レイは意味がわかったのかどうかもわからない顔で、じっと紫苑を見つめ返した。
そして紫苑はふと、明日が少し怖くて、それと同じくらい楽しみでもあることに気づいた。
たぶん、静かなままでは終わらない。
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