6話:一晩のうちに
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創造主の身勝手な夏 — 第六話
一晩のうちに
紫苑は、息が詰まるような重苦しさに最初に目を覚ました。
体が重い。ベッドは妙に狭く、布団の中は昨夜よりずっと熱を孕んでいた。正確には、あたたかいというより、誰かが近すぎるくらいにぴたりとくっついている。腕をひとつ動かすだけでもどこかに引っかかり、足を少しずらしただけで、見知らぬ体温があまりにも生々しく触れてきた。
半分眠った意識のまま、紫苑は眉間をきつく寄せた。
「……なんだよ」
寝ぼけた頭では、レイがまた尻尾を変に巻きつけて絡ませているだけだと思った。昨夜はいつにも増してぴったり密着して眠っていたのだ。レイは何度も紫苑の胸元へしつこく潜り込んできて、紫苑も結局、その哀れっぽい仕草を振り払えなかった。だからベッドが狭く感じるのも、そこまで不思議なことではなかった。
けれど。
これは、そんな程度じゃなかった。
紫苑はゆっくりと目を開けた。
そして、隣へ顔を向ける。
「……え?」
その瞬間、息が止まった。
そこに横たわっている存在は、もう昨日までの幼いレイではなかった。
布団の上を長く、重たく占める身体。昨日までは腕の中にすっぽり収まっていた手足が、いつの間にかまるで違う長さになっている。広く開いた肩、長くしなやかに伸びた腕、研ぎ澄まされたような腰の線と、すらりと長い脚。筋肉はたしかにあるのに、決して粗野でも鈍重でもない。まるで、誰かがこの世で最も美しく均整の取れた線だけを選んで彫り上げたかのように、硬質でありながら滑らかすぎる曲線を描いていた。
夜空みたいな黒い髪は枕の上に長く散り、青みを帯びた灰色の肌は朝の鈍い光を受けて、ひやりとした艶を返している。伸びた首筋、くっきりと整った顎の線、広がった肩から下へ流れる身体のラインは、信じられないほど精巧だった。額の上の青い角も、昨日よりさらに威厳を増して伸びている。背に折りたたまれた薄い膜と、布団の外へ長く流れた尾もまた、まったく違う存在感を放っていた。
そして。
赤い目。
その瞳が、ゆっくりと開いた。
目の前の存在は、たしかにレイだった。
なのに紫苑は、その圧倒的な現実をしばらく受け入れられなかった。
「……レイ……?」
声が情けないくらい掠れて漏れる。
レイは、寝起きの顔のまま紫苑をじっと見つめた。まだ眠気の残る、穏やかで、まるで何でもないことみたいな表情だった。一晩でほとんど成体に近い体になってしまった自分より、過剰に取り乱している紫苑のほうが理解できない、とでも言いたげな顔だった。
紫苑は目を擦ってもう一度見た。
それから、さらにもう一度。
それでも目の前の非現実は、少しも変わらない。
「……いや、待て。なんだよこれ」
心臓が妙に速くなっていく。頭の中は白く点滅し、目の前の事態を処理する脳の速度だけがひどく遅れていた。
レイはそんな紫苑をしばらく見つめたあと、ごく自然に身を傾けた。昨日までいつもしていたように。紫苑の体温を探す癖、そのままに。
ただ問題は、もうその体が大きすぎるということだった。
長く伸びた腕が、紫苑の腰を軽く抱き込む。広くなった肩がすぐ隣へ重たく寄りかかってくる。顔は紫苑の首筋近くに触れ、馴染んだ体温はたしかにレイのものなのに、その形だけが完全に変わっていた。
「どうしたの、紫苑」
低く柔らかく響く声。昨日までの拙いたどたどしさはほとんど消え、発音は信じられないほど鮮明になっていた。
紫苑は一瞬で全身が石みたいに強張った。
「お前……本当にレイなのか?」
レイはゆっくり瞬きをした。
「それ……どういう意味?」
紫苑の反応がまるで理解できない、という顔だった。けれど、自分にひどく戸惑っているのだということだけは感じ取ったのか、ほんの少しだけ身を離して、また訊ねる。
「ぼく、変?」
紫苑はそこで、一瞬呼吸を忘れた。
レイは本当にわかっていないのだ。自分がどれほど変わったのか、この部屋の空気がどれだけ密度を変えてしまったのか、紫苑の目に映る自分がどれほど危ういのか。ただ紫苑の反応がいつもと違うから、それが不思議でたまらないという顔をしていた。
紫苑は唇をきつく結んだまま、もう一度レイを見た。
……綺麗だ。
その考えがあまりにも素早く浮かんできて、紫苑は反射みたいに顔をしかめた。
いや。綺麗、なんて程度じゃない。
これは反則だった。人間というより、創造主が一針一針、執拗に手をかけて造り上げた彫像みたいだった。美しいという言葉すら足りないほどに。冷たく、非現実的なのに、どうしても目を逸らせなくなるような、そういう種類の身体と顔だった。
紫苑は乾いた手で自分の顔を乱暴に撫で下ろした。
「なんでそんな見た目してんだよ」
レイはその言葉に、ゆっくり目を細めて笑った。褒められたと思ったのかどうかもわからない表情だった。そして、そのままもっと近くへ入り込もうとする。
紫苑はそこでようやく我に返った。
「待て。近づくな」
「いや、来るなって意味じゃなくて」
「はあ……俺も何言ってるかわかんねえ」
レイは少しだけしょんぼりした顔で動きを止めた。
その表情がまた、あまりにもレイそのままで、紫苑は心の中で短く悪態をついた。
体はあんなに大きくなってしまったのに、そういう顔だけはまるで変わっていない。紫苑を見れば安心して、紫苑の様子がおかしければすぐ気づいて、突き放されればたちまち傷ついた顔をする。
紫苑は長く息を吐いた。
「……そのままじゃ、絶対外には出せない」
レイがゆっくり瞬きをする。
「そと?」
「そうだよ、外。前より余計に目立つだろ、もう。いや、目立つどころか、そのうち噂になるぞ」
紫苑は雑に手を動かして、レイの全身を示した。
「今のお前、人間って言うにも微妙だし、怪物って言うにも微妙だけど、とにかくそのまま放り出したらまずい。体格もそうだし。その……これも……」
背中の膜と尾のほうを、曖昧に指さす。
レイは自分の体を見下ろした。大きくなった膜は肩の後ろで折りたたまれ、長い尾は布団の上に無造作に流れている。よく考えてみれば、この大きさでは紫苑の服が合うかどうかも怪しかった。
紫苑は結局ベッドから起き上がり、クローゼットを開けた。大きめのTシャツ、ゆるいシャツ、どうにか履かせられそうなズボン。そんなものをいくつか引っ張り出し、ベッドの上へ放り投げる。
「着ろ。……いや、俺が着せるのか」
レイは投げられた服を見下ろしたあと、ひどく無垢な顔で言った。
「着るの、やって」
紫苑は一瞬、何も言えなかった。
「……ずいぶん自然に頼んでくるな。体だけ大人かよ、ほんと」
それでも、やらないわけにはいかなかった。紫苑はTシャツを手に取り、レイへ近づく。
問題はすぐに始まった。
紫苑には十分ゆとりのあるサイズのはずなのに、レイに着せようとすると脇や胸まわりが妙に窮屈そうだった。背中で折れている翼みたいな膜のせいで肩のあたりが変に引っ張られ、尾のせいでズボンを上まできちんと上げることもできない。
紫苑は片目を細め、服を無理やり引っ張った。
「いや、体格もだけど、これのせいで余計入んねえじゃん」
レイが首をかしげる。
「これ?」
「そう、それ。膜と尻尾。わかったなら、なんとかしてみろよ」
半ば苛立ち紛れに言ったつもりだったのに、レイはその言葉をひどく真面目に受け取った。少しだけ考え込むような顔をして、それから静かに囁く。
「……ちょっと、待って」
そして目を閉じた。
紫苑は動きを止めた。
空気が、ごくわずかに揺れた。湿り気のようなものが部屋の中へ薄く広がっていく感覚。昨日、水の粒を浮かせたときよりも、もっと精巧で、もっと柔らかな力だった。レイの身体の線に沿って波のような光が淡く走り――次の瞬間、紫苑は息を止めた。
角が消えていた。背中の膜も、長く流れていた尾も、空気の中へ溶けるみたいにゆっくりと隠れていく。肌の色も、わずかに人間らしい血色へと整えられていた。もちろん、完全に平凡になったわけではない。もともとの非現実的な美しさはそのままで、むしろ余計にはっきりしたようにすら見えた。けれど少なくとも、見た目だけなら誰が見ても“人間の男”に見える状態にはなっていた。
レイは再び目を開けて、紫苑を見る。
「……どう? これなら、だいじょうぶそう?」
紫苑は呆然とレイを見つめた。
「……どうやったんだよ、それ」
レイは一度だけ自分の体を見下ろして、それから当然みたいに言った。
「こうしたらいいかなって……」
紫苑はしばらく何も言えなかった。
それから、ようやくまばたきをして口を開く。
「便利すぎるだろ、その機能」
レイが、少しだけ得意そうな顔をした。
紫苑は呆れて、笑いそうになる。
「そんなことで得意げになるなよ。ほんと……単純だな、お前」
それでも、服を着せるのはずっと楽になった。膜が引っかかることもないし、尻尾のせいでズボンが浮くこともない。けれど問題は、まったく別のところから始まった。
紫苑は上から羽織らせるためのシャツを持って、レイに近づく。Tシャツ一枚だけでは、レイの体つきが布越しにあまりにもはっきり出すぎていた。
「腕、こっち」
「じっとしてろ」
レイは聞き分けのいい子どもみたいに腕を差し出した。紫苑は片方の袖を通し、もう片方も通して、肩の位置を合わせながらシャツの裾を前へ整える。
その途中で、ふと気づいた。
近い。
近すぎる。
広くなった胸元と、長く伸びた首筋がすぐ目の前にある。濡れていない黒髪は朝の光を受けてなめらかに艶めき、鎖骨の上へ流れ落ちていた。シャツの隙間からちらりと見える肌は冷たく白いのに、妙に熱を孕んでいるようにも見える。
紫苑は無理やり表情を固めた。
「動くな」
レイはうなずいた。
けれど服を整えられるたびに、体を小さく震わせる。
「じっとしてろって言っただろ」
「くすぐったい」
レイがくすりと笑った。
その瞬間、紫苑の手が止まる。
「ここ。触られると、くすぐったい」
紫苑は耳の先が一気に熱くなるのを感じた。
「紫苑、顔、赤い」
その一言で、紫苑は完全に固まった。
そして、ひどくゆっくり顔を上げる。
レイは本気で不思議そうな顔をしていた。本当に、自分が何かまずいことをしたとも思っていない。ただ、紫苑の変化が珍しくて、その理由が知りたいだけの顔だった。それが余計にどうしようもなかった。
「……黙ってろ」
「なんで?」
「いいから黙ってろ」
レイは口を閉じたものの、笑いを堪えきれていなかった。広い肩がかすかに揺れている。そんなふうにしてようやく上の服を着せ終え、今度はズボンを履かせようとした、そのときだった。
「……ちょっと待て」
紫苑は手を止めたまま、信じられないものを見るような目で一点を凝視した。レイもそれにつられて、自分の下を見下ろす。
「どうしたの?」
紫苑はしばらく何も言えなかった。
そこには、本来なら昨日まで“存在していなかったはずのもの”があった。
正確には、昨日まではそもそも紫苑がそんなことを意識する必要すらなかった存在が、今やあまりにも明白に、成体の男の身体としてそこにあった。それも、人間の姿になった状態で、ひどく自然に、当然みたいに。
紫苑はぎゅっと目を閉じた。
「なんでそこまでできてんだよ!」
レイは少しだけ考え、それから無垢そのものの顔で首をかしげた。
「人間なら、あるものじゃないの?」
紫苑はそのまま言葉を失った。
正論すぎて、余計に腹が立った。
レイは相変わらず、何もわかっていない顔をしていた。むしろ、なぜ紫苑がそこまで激しく反応するのかのほうが不思議らしかった。
「紫苑、へん」
「変じゃねえ」
「でも、すごく顔赤いよ」
紫苑はそのまま黙り込んだ。これ以上口を開けば、完全にレイのペースに巻き込まれる気がした。
結局、紫苑は何も言えないまま、黙々とズボンを履かせるしかなかった。レイはそのあいだも「くすぐったい」「なんでそんなに強く持つの」「変な感じがする」などと笑い混じりに言い続け、紫苑は顔を真っ赤にしたまま、最後まで視線の置き場を失っていた。
ようやく服をすべて着せ終えたあと、紫苑は一歩下がった。
レイは服を着たまま、ぼんやりとそこに立っている。見た目だけなら、もうほとんど完璧に人間だった。――いや、完璧ではない。格好よすぎるのが問題だったし、目立ちすぎるのも問題だった。けれど少なくとも、角も尾も膜も丸出しの状態よりはずっと危険が少ない。
紫苑は髪を乱暴にかき上げた。
「はぁ……」
レイはそんな紫苑をしばらく見つめ、それからそっと訊ねる。
「ぼく、どう?」
紫苑はわずかに動きを止めた。
どう、なのか。
レイが何を聞いているのか、なんとなくわかってしまうからこそ、余計に答えづらかった。人間に見えるか、という意味なのか。変じゃないか、という意味なのか。それとも、紫苑はどう思うのかと聞いているのか。
紫苑は結局、視線を逸らしたままぶっきらぼうに言った。
「……まあ。見られたもんじゃないってほどではないな」
わざと愛想のない顔と声で言い捨てて、誤魔化すみたいに手を振る。
「それより。とにかく、お前もう大人なんだろ?」
レイが首をかしげる。
「おとな?」
「そう、大人。体だって俺より二十センチはデカくなってるし、喋るのもちゃんとしてきただろ」
レイは少し考え、それから真面目な顔でうなずいた。
「……うん。おとな」
それを見た紫苑は、急に結論を出すみたいな口調で言った。
「じゃあ、体で払え」
レイの動きが止まる。
「……からだ?」
紫苑は部屋の中を適当に指さした。
「食って寝て着て、全部金かかるんだよ。お前も大人なら、これからはちゃんと自分の分くらい働いて生きろってこと。まあ今のお前、できることはあんまりなさそうだから、体で払えって言ってるだけだけど」
レイはその言葉をひどく真剣に聞いていた。
それから本当に純粋な顔で尋ねる。
「体で払えば、いいんだよね?」
紫苑はそこで、危うく吹き出しそうになった。真面目すぎて。あまりにもレイらしく、真っ直ぐすぎて。
けれど笑いより先に、別の感情がじわりと胸の奥へ染み込んできた。体がどう変わろうと、言葉がどれだけ流暢になろうと、結局レイはずっと紫苑だけを見ていた。紫苑が言うことをやりたくて、紫苑が困れば何とかしたくて、紫苑が変な反応をすれば、その理由を知りたくて仕方がない顔をしている。
紫苑はしばらくしてから、やっと低く答えた。
「……ああ。何をさせるかは、俺があとで決める」
レイは素直にうなずいた。
「うん。紫苑が決めて」
紫苑はその場で凍りついた。
その短い返事が、妙なくらい深く胸に刺さった。
紫苑が決めて。
あまりにも軽く口にされた言葉だった。
なのに、その中身は少しも軽くなかった。
体が大きくなって、言葉も増えて、姿すら自在に変えられるようになったのに、それでもレイの世界の中心はまだ紫苑にあった。
紫苑はベッドへどさりと腰を下ろし、頭を抱えたまま、しばらく自分の服を着て嬉しそうに鼻歌をこぼしているレイを見つめていた。
綺麗だった。
どうかしてしまいそうなほどに。
レイはそんなことも知らずに、一人で浮き立ったような顔をしていた。
だから、なおさら厄介だった。
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