5話:二度と勝手にいなくなるな
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創造主の身勝手な夏 — 第五話
二度と勝手にいなくなるな
紫苑はしばらくのあいだ、冷蔵庫の前でぼうっと立ち尽くしていた。
開けては閉め、また開けては、意味もなく閉じる。中に入っているものは、どうにも頼りなかった。水は半分ほど残っているだけ。自分が適当に腹を満たすものすら微妙で、ましてレイに食べさせられそうなものなんて、ほとんどない。
「……買いに行かないとな」
腕を組み、冷たい冷蔵庫の扉にもたれながら、紫苑は小さく呟いた。
それから、ゆっくりと後ろを振り返る。
ベッドの上には、レイが座っていた。
昨日よりも明らかに成長している。手足は目に見えて長くなり、柔らかかった輪郭も、わずかに鋭さを帯びていた。まだ幼さは残っている。けれど、もう単純に“子ども”の一言で片づけるには無理がある。成長の速さが異常だという事実を、紫苑ももう否定できない。
そんなレイが今、ただひたすらに紫苑だけを見つめていた。
本当に、この世界には紫苑しかいないと言わんばかりに。
「……なんだよ。何か言いたいのか、チビ」
紫苑がそう問いかけると、レイは静かに目を瞬かせた。
そして、まだ少したどたどしい発音で、短く唇を開く。
「紫苑」
名前の呼び方すら、昨日よりはっきりしていた。昨日までは真似するように零れていただけの音が、今日はちゃんと意志を持って紫苑に向けられている。成長を喜ぶべきなのか、誇らしく思っていいのか。この奇妙な関係は、日に日に曖昧さを増していく。
「そう。俺が紫苑」
結局、気恥ずかしさに耐えきれず、紫苑はぶっきらぼうに返した。
レイはベッドの端までそっと近づいてきた。尻尾の先が、不安そうに揺れている。紫苑がどこかへ行こうとしている気配を、もう察している顔だった。
紫苑は眉間をぐっと寄せる。
「仕方ないだろ。お前に食わせるためにも買い出し行かなきゃなんねえんだから。また一人で行くなって泣くなよ」
レイはしばらく紫苑の顔を見つめ、それから今度はもっと短く、はっきりと言った。
「いっしょ」
紫苑は即座に首を横に振る。
「ダメ」
レイの瞳が、途端に揺れた。
紫苑はわざと視線を逸らし、見なかったふりをした。目を合わせたら、また甘くなるに決まっている。
この先もずっと、外へ連れ歩くわけにはいかない。どんどん隠しづらくなっていく外見も問題だったし、いつまでも腕の中に入れて連れ回すわけにもいかなかった。何より、明日からは本当に会社のことがある。有休を一日二日使ったところで、目の前の現実が魔法みたいに消えてくれるわけじゃない。
けれど、いつかは通らなければならないことだった。
レイを一人残して、少しのあいだ家を空ける練習。
それは決して間違った判断じゃない。
そう自分に言い聞かせてから、紫苑はできるだけ冷静を装って口を開いた。
「よく聞け、レイ。俺、すぐ戻るから。本当にすぐだ」
「遠くには行かない。覚えてるだろ、あそこの近くのスーパー。それに、いつまでもこうやって駄々こねてちゃダメだ。俺も明日からはちゃんと仕事しなきゃいけないんだから」
レイは不満そうに、少しだけ唇を尖らせた。
「やだ」
紫苑は深いため息をついた。
「俺だって嫌だよ。でも、仕方ないだろ」
レイはベッドの端を、小さな手でぎゅっと掴んだ。少し成長したおかげか、表情も以前よりずっと読みやすい。今にも泣き出しそうというほどではない。けれど、状況を受け入れているわけでもない顔だった。ほんの少しでも自分が席を外すのが、そんなに嫌なのか。どういうわけか、悪い気はしなかった。
紫苑は努めて口調を和らげる。
「すぐ戻るって言っただろ。鍵もちゃんとかけて行くし、危ないものなんてない。ただ……これからこの家で暮らしていくなら、一人でいる練習もしないとダメだ」
短い沈黙が部屋を満たした。
レイはしばらく黙って紫苑を見つめていたが、やがてとてもゆっくりと視線を落とした。完全に納得したわけではないのだろう。それでも、紫苑はそれだけで十分だと思うことにした。
「はぁ……よし、いい子だ」
レイの気が変わる前にと、紫苑は急いで外出の支度を整えた。財布、スマホ、鍵。靴を履きながら最後に振り返ると、レイはまだベッドの上に人形みたいに大人しく座っていた。
大人しすぎる。だからこそ、余計に不安になる。
紫苑はわざと何でもないふうを装い、平然とした声で言った。
「すぐ戻るからな。また勝手に泣いて騒ぐなよ」
レイはごく小さく唇を動かした。
「……はやく、かえってくる?」
紫苑は一瞬だけ動きを止めた。
けれどすぐに顔を背け、視線を遮る。
「ああ」
扉が閉まる、そのほんの一瞬まで。
レイの切実な視線が背中に張りついてくる気がした。
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紫苑の姿が見えなくなったあとも、しばらく部屋の中は止まったように静かだった。
レイはベッドの上で、ぴくりとも動かずに座っていた。
本当に、紫苑に言われたとおりにしようと頑張っているみたいに。
静かだった。冷蔵庫の微かな振動音。窓の外、遠くを走る車の音。建物のどこかから聞こえる、かすかな生活音。紫苑がいないだけで、世界が妙に大きく感じられる。
レイはぼんやりと扉のほうを見た。
もう少し待った。
また扉を見た。
さらに待った。
けれど、紫苑は戻ってこなかった。
一分が十分みたいに長く感じられて、十分は一時間みたいに重くのしかかってくる。
待っているだけじゃ、だめな気がした。
紫苑のいない部屋の中は、外よりもずっと怖かった。
レイはゆっくりとベッドから足を下ろした。床に足が触れたかと思うと、押し寄せる不安に引かれるように、体がふわりと浮き上がる。両足がわずかに床から離れたまま、レイは磁石に引き寄せられるみたいに扉の前へ進んだ。
「紫苑……」
小さく名前を呼んでみる。
返事はなかった。
レイは冷たい扉にそっと触れた。
そこには、紫苑の匂いがほんのわずかに残っていた。
それを感じた瞬間、必死に堪えていた心の堤防が、一気に崩れた。
レイはとうとう、そろそろと動き出した。扉の隙間、窓辺、ベランダのほう。紫苑が通った軌跡をなぞるように追っていく。しっかり歩くというより、不安が大きくなるほど体がふわふわと浮き上がり、滑るように移動していた。
少し開いた隙間。
それよりもう少し広い隙間。
そしてレイは、ついに家の外へ足を踏み出してしまった。
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初めて向き合う外の世界は、レイが思っていたよりはるかに脅威だった。
建物の外の空気は、部屋の中の温もりとはまるで違う。さまざまな匂いが入り混じり、鼻を刺した。見知らぬ人間たちの体臭、排気ガスの匂い、熱を持ったアスファルト、冷たい金属の気配、刺激の強い食べ物の匂い。音も多すぎた。人の荒い足音、自転車がかすめる金属音、遠くから聞こえる機械的な信号音、扉が乱暴に開閉する音まで。
レイはびくりと体を震わせ、身をすくめた。
そのとき、一台の自転車がすぐ脇をひゅっと危うくかすめていった。
レイは飛び上がるように驚き、空中へふわりと浮かび上がった。大きな尻尾が本能的に自分の体を守るみたいに巻きつく。
通りすがりの女子高生が二人、そんなレイをちらりと見た。
「……なに、コスプレ?」
「かわいくない?」
無責任な言葉は、すぐに空気へ溶けて消えていった。
どうやら人々の目に、レイは完全な“怪物”としては映っていないらしい。少し変わった格好の子ども。精巧に仮装した子。あるいは、一瞬見間違えた何か。角は手の込んだ飾りに、尻尾は長い装飾布に、翼膜は陽光の下でぼんやりと溶ける不思議な衣装の一部のように認識されているようだった。
けれどそれは、あくまで一瞬すれ違う程度の話だ。
近くで、長く、じっと見られれば、誰だっておかしいと気づくに違いない。
そんな理屈を、レイは知らない。
ただ、紫苑がそばにいないという根源的な喪失感と、世界があまりにも怖いという恐怖だけを、全身で感じていた。
「紫苑……」
今度は、さっきよりもっと小さな声で名前を呼ぶ。
大きな車が一台、道路を滑るように走り抜けていった。光る窓、威圧的なエンジン音、圧倒的な速度。
レイは本能的に後ずさる。足は床につかないまま、逃げるように体の向きを変えて走った。そうしているうちに、スーパーへ向かう道も、あたたかかった家へ帰る道も、どちらもわからなくなってしまった。
もう、どこへ行けばいいのかわからない。
レイはただ、見知らぬ街をあてもなく漂うしかなかった。
「うぅ……」
耐えきれない恐怖の前に、レイはついに本能的に身を隠してしまった。
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スーパーで会計を済ませ、家へ向かう途中。
紫苑はずっと、妙に落ち着かなかった。
理由はうまく説明できない。ただ、漠然と不安だった。
今ごろ何してるだろう。泣くのを必死に我慢してるのか。あるいは拗ねて、家の中をぐちゃぐちゃにしているのか。
紫苑はポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。家を出てから、まだほんの十分ほどしか経っていなかった。
「十分経過……」
どうしてわざわざ口に出したのか、自分でもわからなかった。
彼はほとんど駆け足で建物へ戻った。
そして扉を開けた瞬間、直感した。何かがおかしい。
部屋の中が、静かすぎる。
生き物の持つ温度が、まるで感じられない。
ひやりとした沈黙だけがそこにあった。
紫苑はその場で凍りつく。
「……レイ?」
返事はない。
彼は買い物袋を玄関に放り投げるように置き、そのまま部屋へ駆け込んだ。
ベッドの上。いない。
風呂場。いない。
テーブルの下。布団の中。クローゼットの奥。
どこにも、いない。
絶望的な気持ちで視線がベランダの窓へ向く。
ほんのわずかに開いた隙間。
「……まさか……」
頭の中が一瞬で真っ白になった。
最初の、本当に刹那のあいだだけ。
紫苑は自分を誤魔化そうとした。
――いや。むしろよかったのかもしれない。
元いた場所へ帰ったのかもしれない。自分の世界へ。自分を守ってくれる、本当の保護者のもとへ。ハベンとかいう、あいつを待っている誰かのところへ。そうなら、これで全部終わりだ。明日からはまた何事もなかったみたいに会社へ行って、平凡な日常に戻って、この数日間の奇妙な騒動にもここで終止符が打てる。
紫苑は、その理性的な考えを最後まで押し通そうと必死になった。
けれど、まるでだめだった。
雨の中で無邪気に笑っていたレイの顔が浮かぶ。拙い手で水の粒を浮かせて見せてきた、小さな手。紫苑が扉を閉めて出ていくとき、最後まで追いかけてきたあの大きな瞳。
「……はやく、かえってくる?」
あの細い声。
自分を見れば、世界中の誰より安心した顔をして。自分がそばにいなければ、世界が崩れるみたいに不安がる、あの盲目的で純粋な視線。
そのあとに、別の記憶がいくつも浮かんできた。好きだと言いながら、結局は自分に都合のいい期待ばかり押しつけてきた人間たち。必要なときだけ甘い顔で近づいてきて、失望すれば容赦なく背を向けた人間たち。先に手を差し伸べておきながら、真っ先にその手を離した人間たち。
そんな裏切りに満ちた顔の群れに、レイが重なった瞬間。
まるで違うと、痛いほど思い知らされた。
レイは、何の打算も意図もなく、ただ紫苑だけを見ていた。
紫苑はその場で一度きつく目を閉じ、そして開く。
「……違う」
そんなわけがない。
よかったことなんかじゃない。終わったことでもない。
彼は荒々しく踵を返した。
「このバカ……」
靴を乱暴に突っ込みながら扉を開け放つ。
「どこ行ってんだよ」
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最初は家の周辺の路地を片っ端から探した。
建物の前。人気の少ない細道。自販機の横。コンビニの前。さっき自分が通ってきた道。
紫苑はほとんど全力疾走みたいな勢いで走り回った。
「レイ!」
思った以上に大きな声が飛び出す。
「おい! どこだ! 聞こえたら返事しろ!!」
通りすがりの人々が訝しげに振り向いたが、気にしている余裕などなかった。そうして何ヶ所も狂ったように探し回っても、レイの痕跡ひとつ見つからない。すると逆に、熱を持ちすぎていた頭が少しずつ冷えてくる。
レイが行きそうな場所。
紫苑は道の真ん中で立ち止まった。
レイはこの街の地理を知らない。道も、人も知らない。そんなやつが、恐怖の中で本能的に向かうとしたらどこだ。
頭の中を、たった一つの鮮明な風景がよぎった。
緑の濃い木立。気だるい陽射しがこぼれる道。
最初にあいつと出会った、あの場所。
神社だ。
紫苑はそのまま方向を変え、駆け出した。
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神社は不気味なくらい静まり返っていた。
日はすでに傾きはじめ、長い木々の影が地面に低く落ちている。紫苑は荒い息を吐きながら石段を上り、境内を横切った。足は急いていて、心臓はそれ以上に速く脈打っていた。
「レイ!」
もう一度、大きく名前を呼ぶ。
返事はない。
その瞬間、心臓がひやりと落ちた。
まさか、ここにもいなかったら――そんな考えが頭を冷たく掠める。
紫苑は何かに引かれるように奥の林道へ走り込んだ。落ち葉を踏むかさりという音。湿った土の匂い。夕方の冷気が沈みはじめた空気。
あと数歩、さらに奥へ踏み込んだときだった。
かすかな気配を感じた。
大きな木の根元、最も濃い影が落ちるその場所に、レイが小さくうずくまっていた。
大きな尻尾を体にぐるぐると巻きつけて、まるで盾のようにしている。膝を胸元まで抱え込み、頭を深く伏せて、細い肩をかすかに震わせていた。
そして、そのそばには小さな動物たちが寄り添うように集まっていた。
茶色いリスが一匹。低い枝に降りた小鳥が二羽。静かに隣を守るように座る野良猫が一匹。まるで、ひとりで泣いている子どもをどうにか慰めたいのに、何もしてやれないことを悲しんでいるみたいに、ただ黙ってそばにいた。
その胸を締めつける光景を目にした瞬間、紫苑はその場に釘づけになった。
「……レイ」
レイがゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳は涙でいっぱいに濡れていた。乾く間もなく頬を伝い落ちている。なのに、レイは以前のように先に駆け寄ってくることはできなかった。目が合った瞬間、むしろ怯えたように体をさらに小さく縮める。
叱られるんじゃないか。捨てられるんじゃないか。
怖くて、近づきたくても、自分から一歩も踏み出せない。
そのみじめで危うい姿が、かつて孤独だった自分の欠片とあまりにも重なって見えた。
紫苑はしばらくその姿を見つめ、それから長く息を吐く。
「……はぁ」
苛立ちも、怒りも、きつく叱らなきゃという理性も。
その一瞬で、全部が砂の城みたいに崩れ去った。
「このバカ」
紫苑が先に、大股で歩み寄った。
レイは相変わらずその場でうずくまったまま、透明な涙をぽろぽろ零していた。紫苑がすぐ目の前まで来ても、しがみつくことすらできない。いつもなら抱いてほしいと甘えてくるくせに、今は自分から手を伸ばすことさえできず、ただ震えている。
紫苑はその前に片膝をついてしゃがみ込んだ。
「なんで勝手に出てきてんだよ。どれだけ探したと思ってんだ」
レイの唇が、ひくりと震える。
それから、とても小さく、けれど以前よりはずっとはっきりとした一文をこぼした。
「……紫苑……こなくて……」
その短くて、真っ直ぐなひと言が、紫苑の心臓のどこかをあまりにも正確に突き刺した。
紫苑はもう耐えきれず、そのまま両腕を広げてレイを乱暴なくらい強く抱きしめた。
その瞬間、レイの堪えていたものが完全に決壊する。
「う……あ……あぁ……!」
怖かった。申し訳なかった。
そして、見つけてもらえた安堵で。
レイは紫苑の服を必死に握りしめ、顔を胸元に深く埋めたまま、子どもみたいにわんわん泣いた。
紫苑はぎゅっと目を閉じる。
「はぁ、ほんとお前は……」
片手でレイの後頭部をそっと包み込み、ほとんど歯を食いしばるみたいな声で低く言った。
「二度と勝手にいなくなるな」
レイの泣き声が、さらに濃くなる。
「十分待つの、そんなにきつかったか? だからって一人で出てくるやつがあるか。外がどれだけ危ないと思ってんだ」
言っていることは確かに叱責だった。
けれど、その声は隠しようもなく細く震えていた。
紫苑自身、よくわかっていた。
これは怒りなんかじゃない。
怖かったのだ。
本当に。
もう二度と見つけられないんじゃないかと。
本当に、このまま永遠にいなくなってしまったんじゃないかと。
このバカみたいなやつが、見知らぬ世界のどこかで、たった一人震えながら泣いているんじゃないかと。
その感情を認めるのが、あまりにも遅すぎた。
レイは泣き混じりの荒い息の合間に、たどたどしく言葉をつないだ。
「紫苑……いっしょ……いっしょ、い……」
紫苑の喉の奥が、妙に熱を帯びる。
彼はレイを壊れそうなほど強く抱きしめた。
「ああ。俺、ここにいるだろ」
その確かな一言だけで十分だったかのように、レイはまたいっそう激しく涙をこぼした。
森は静かだった。
そばで見守っていた動物たちは、もう自分たちの役目は終わったと言うみたいに、ただ静かにその光景を見つめていた。紫苑はレイの背をゆっくり、優しく叩きながら、低い声で囁く。
「……わかったから。泣くな」
それでも、一度溢れた涙はなかなか止まらなかった。
紫苑は結局、その場に長いこと座り込んだまま、レイが落ち着くまで背中を撫で、髪を梳き、大きな尻尾が自分の脚にぐるぐると絡みつくのも黙って受け入れていた。
どれくらい時間が経っただろう。
ようやくレイの泣き声が少しずつ収まってきた頃、紫苑が静かに口を開く。
「帰ろう」
レイは返事の代わりに、紫苑の服の襟元をさらに強く掴んだ。
それだけで答えは十分だった。
紫苑はレイを大事に抱き上げ、ゆっくりと森の道を引き返していく。今度のレイは何の抵抗もせず、大人しく抱かれていた。ただ、顔だけは最後まで紫苑の胸元に埋めたままだった。まだ恐怖が消えきらない、幼い獣みたいに。
石段を下りながら、紫苑はごく小さく呟いた。
「ほんと、バカ」
「俺までバカにしやがって」
レイの尻尾の先が、弱々しく、けれど確かに小さく揺れた。
そのわずかな動きを感じて、紫苑はふっと小さく笑う。
「……でも」
その先の言葉は、とうとう口にはならず、胸の奥へ沈んでいった。
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その夜、レイはいつにも増して紫苑にぴったりとくっついて眠ろうとした。
紫苑ももう、無理に引き離して寝かせようとはしなかった。ベッドは狭い。尻尾はやたらと脚に絡みついて邪魔だし、背中の翼膜は肌に触れるたび妙に落ち着かない。数え上げれば不便なことなんていくらでもある。
それなのに、不思議と。
少しも突き放したいとは思わなかった。
レイは眠りに落ちる直前まで、紫苑の袖口をぎゅっと掴んでいた。目を覚ましたとき、また一人だったらどうしようと怯えている子どもみたいに。
紫苑はその必死な手をしばらく見下ろしていたが、やがてとてもゆっくりと指を開き、その上に自分の手を重ねてやった。
レイはそれでようやく安堵したように、固く閉じていた目をそっと閉じた。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、夜遅くの風がやわらかく通り過ぎ、どこか遠くで水が流れるみたいなかすかな音がした。
紫苑は暗闇の中で、レイの寝息をじっと聞いていた。
規則正しくて、あたたかくて、とても近い呼吸。
しばらくして、意識が眠りへ沈みかけた頃。
彼はほとんど寝言みたいな掠れた声で呟いた。
「……二度と、勝手にいなくなるな」
レイは眠ったまま、小さく体を震わせた。
紫苑は目を閉じたまま、そっとレイの柔らかな髪を一度だけ撫でる。
「レイ」
その名が、暗闇の底へ静かに沈んでいく。
「ここにいろ」
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翌朝。
胸を押しつぶされるみたいな息苦しさで、紫苑は先に目を覚ました。
妙に体が重い。ベッドはいつもより異様に狭く感じる。布団の中の空気も、昨夜よりずっと熱い。腕を少し動かすだけでも、どこかにがっちり引っかかるようでうまくいかない。
紫苑は半分眠った頭のまま眉をひそめた。
「……なんだよ」
ゆっくりと目を開き、重たい首を横へ向ける。
そして、彼は完全に石のように固まった。
隣に眠っている存在は、もう昨日までの幼いレイではなかった。
子どもの体格と呼ぶには到底無理のある、すらりと長く整った身体。濡れた夜みたいに黒く流れる髪。はっきりと伸びた手足と、鋭く整った首筋。青みを帯びた神秘的な肌。大きく伸びた角。昨日よりもさらに豊かで華やかに広がった翼膜と尻尾。
紫苑は息をすることさえ忘れたまま、その圧倒的な姿を呆然と見つめた。
「……え?」
それから、本当に間の抜けた悲鳴みたいな声が飛び出す。
「……は……な、なに……?」
レイ――いや、もはやそう呼ぶだけでも違和感を覚えるほどに成長してしまったその存在が、紫苑の隣で、ひどく穏やかで美しい顔のまま深く眠っていた。
紫苑はしばらく衝撃のあまり、一言も発せなかった。
ベッドの上の重たい空気だけが、静かに揺れている。
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次回は毎週金曜日、21時頃に更新予定です。




