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4話:雨が好きなこと


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創造主の身勝手な夏 — 第四話

雨が好きなこと



紫苑は結局、朝早くから会社に連絡を入れるしかなかった。


「ゴホッ、ゴホッ……ちょっと、体調が悪くて……」


わざとらしく咳を混ぜて具合の悪いふりをしたが、とはいえ完全な嘘でもなかった。実際、体調はまるで万全じゃなかった。ろくに眠れていないし、頭はしつこく痛むし、胸の奥には説明のつかない妙な疲労がずっしりと居座っていた。ただし、その“具合が悪い理由”の中に、角の生えた正体不明の存在を拾ってきてしまったことが含まれているだけだ。


電話を切ったあと、紫苑はしばらくスマホの画面をぼんやり見下ろしていた。どうにか体調不良を理由に二日間の有給をもぎ取ったものの。


「二日で解決策なんか見つかるわけないだろ……」


ベッドの上でおとなしく座っていたレイが、その言葉を聞いて瞬いた。ルビーみたいな赤い瞳は今日も澄んでいて、昨日よりまた少しだけはっきりした顔立ちをしていた。


紫苑はため息をつき、スマホをベッド脇に放り投げた。


「お前のせいだっての。……いや、よく考えたら、お前を何も考えず連れて帰った俺の責任でもあるけど……」


レイは意味がまるで分かっていないような無垢な顔で、ただ紫苑だけを見つめていた。そして紫苑がきちんと自分を見たと分かると、満足したみたいに尾の先をゆっくり揺らした。


紫苑はそれを見て、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。


本当におかしなことだった。こいつは目に見えて成長していた。ほんの少しずつではあるが、はっきり分かる速さで。昨日より抱いたときの感触が明らかに違っていて、今朝に至っては気のせいで片づけるには無理があるほどの重みがあった。


それでも本質はまだ子どもだった。紫苑を見ると安心して、目の前からいなくなると不安になって、機嫌がよければ尾を振って、水滴なんか浮かせて得意げになるような、小さな存在。


紫苑は座椅子にどさりと腰を下ろし、ノートパソコンを開いた。


「ハベン」


昨日、レイがかすかに漏らしたその名前が、ずっと頭の中を回っていた。紫苑は検索欄にその名を慎重に打ち込んだ。


ハベン。

はべん。

Haben。


綴りを変えたり、日本語にしたり、英語で入れてみたりもした。怪談掲示板、オカルト系コミュニティ、名前辞典、ファンタジーWikiみたいな場所まで片っ端から漁ってみたが、出てくるのはどれもこれも面倒くさいものばかりだった。


とあるゲームの端役の名前。

中世風ウェブ小説の脇役。

ニックネームで使っている一般人。

前世の記憶があるとかいう妙な書き込み。

読んでいると頭が痛くなる陰謀論。


紫苑は眉間に深い皺を寄せたまましばらくスクロールを続け、とうとう苛立たしげにノートパソコンを閉じた。


「いや、マジで誰なんだよ。そもそも実在すんのかよ」


レイはいつの間にかベッドから音もなく降り、紫苑のそばまで来ていた。まだ歩くのは少しおぼつかなくて危なっかしいのに、移動する速さだけは妙に速かった。いや、歩くと表現するのも少し違った。足が床についたかと思えば、ときどきほんのわずかに身体が宙に浮いているからだ。見ていると、歩いてくるというより、なめらかに滑ってくるというほうがしっくりきた。


レイは紫苑の腕を小さな手でぎゅっと掴み、顔を見上げた。紫苑は思わずその子を見下ろした。


「何だよ。ハベンが誰か教えに来たのか?」


レイはその名前を分かっているのかいないのか、ただゆっくりと瞬きをするだけだった。紫苑は口元を歪めた。


「まさかお前の元の保護者の名前じゃないだろうな……」

「……だったら気分悪いんだけど」


言ってから、自分が何を口走っているのかに気づいた紫苑は、ちっと舌打ちして額を押さえた。


「は、もういい……俺、何で嫉妬みたいなことしてんだよ」


レイはその仕草を真似るみたいに、小さな手で自分の額をとんと触れた。紫苑はそれを見て呆れたように笑った。


「お前、ほんと人をイラつかせる才能だけ伸びてる気がする」


けれど家に引きこもってばかりもいられなかった。昨日買ってきたものだけでは今日一日を乗り切るにも心許なく、水も足りない。何より、紫苑は目の前の子を飢えさせるほど非情な人間にはなれなかった。


結局、彼はまた慌ただしく外出の準備をした。


「今日はほんとにすぐだ」

「すぐ行って、すぐ帰ってくる」

「だからまた泣くなよ」


言い終わるより早く、レイが紫苑の袖をぎゅっと掴んだ。泣き顔を作るわけでも、声を上げるわけでもないのに、明らかに“今から泣くよ”と訴えてくるような痛ましい目だった。紫苑は思わず「うっ」と情けない声を漏らした。


「だから……お前、ほんとずるいんだよ」


レイはほんのわずかに笑った。

本当に笑ったのか、それとも紫苑の目にそう見えただけなのかは分からなかったけれど。


薄い毛布の代わりに、今日は少し大きめのフード付きパーカーでレイを包んだ。角と尾をできるだけ内側に隠し、胸元にしっかり抱き込む。ただ、昨日より隠しづらくなっているのは明らかだった。レイが一晩でまた少しだけ大きくなっていたからだ。


「このままだと数日後には隠しきれなくなるんじゃないのか」


レイはフードの中から、紫苑の顎先をじっと見上げた。


「分かったならゆっくり育つとか、早くそのハベンだか何だか思い出して帰るとかしろよ」


紫苑は不満たっぷりの声でぼやいたが、レイはただ紫苑の腕の中で、子猫みたいに機嫌よさそうに喉を鳴らすだけだった。


外に出たとき、空は今にも泣き出しそうなほどどんより曇っていた。


そして一時間後。買い物を終えて家へ戻る途中、紫苑は雲で埋まった空を不安げに見上げた。


「あ……」


嫌な予感ほど、妙に当たる。


一、二滴だった。最初はぽつ、ぽつとわずかに落ちてくるだけだったのに、すぐに雨粒は勢いを増し始めた。紫苑は顔をしかめた。


「くそ……ツイてなさすぎだろ……せめて着くまでは降るなって思ったのに……」


腕の中のレイがフードの隙間から顔を覗かせた。透明な雨粒がひとつ、レイの青い角の先にぽつんと落ちた。


紫苑は反射的にフードをもっと閉じてやろうとしたが、レイはもう別のことに意識を全部持っていかれていた。赤い瞳が、踊るみたいに落ちてくる雨粒を敏感に追っていた。


ぽつ。ぽつ。ぽつ。


雨水がアスファルトに溜まり、冷たい壁を伝い、車の屋根で小さく跳ねる。そのひとつひとつを見逃すまいとするように視線を動かしていた。


「おい、風邪ひくぞ? もうちょっと中に入れ」


紫苑の忠告にも、レイはまるで聞いていなかった。生まれて初めて世界を見たみたいな、ただただ不思議そうな顔をしていた。


「おい、雨なんてこれから生きてれば嫌ってほど見るんだからな。感動は後にして、まず帰るぞ」


けれどレイは聞こえていないみたいに、そっと手を伸ばした。白い指先に触れた雨粒が、ガラス玉みたいにころりと留まった。


そしてその瞬間、レイの目がぱっと見開かれた。


「え」


今度は先に紫苑が声を漏らした。


さっきレイの指先に落ちた雨粒は、そのまま流れ落ちなかった。丸いまま、透明なガラス玉みたいにしばらくその場に留まっていた。レイは息をするのも忘れたような顔でそれを見つめた。やがて、そっと指を動かした。


雨粒が重力を無視したまま落ちずに、指の動きに合わせて一緒に動いた。


紫苑はその場で固まった。


「……おい」

「ちょっと待て」


レイは何かを理解したような顔になった。

そして次の瞬間、笑った。


とびきり明るく。

どこまでも無邪気に。

世界が初めて自分に秘密の玩具をくれたみたいな顔で。


「お、おい――!」


レイは嬉しそうに両手を広げた。すると周囲の雨粒がいくつか、ぎこちないながらも確かな意志を持って、その手の動きに引き寄せられた。小さな水の玉がふわりと宙に浮かぶ。形は不安定で、今にも崩れそうなのに、その短い一瞬だけは確かにレイの周りを軌道みたいに巡っていた。


その直後、レイの身体が前のめりになって、紫苑の腕の中からするりと抜け落ちた。


「おい、待て! 危ない!」


その瞬間、レイの身体がふわりと浮いた。


足が完全に地面から離れた。


正確には勢いよく飛び上がったわけじゃない。ただ、水に浮かぶ木の葉みたいに自然に。嬉しさで体重そのものが消えてしまったみたいに。レイは雨の中で二、三十センチほどふわりと宙に浮かび、楽しそうな顔で紫苑を振り返った。


紫苑は慌ててレイを掴まえようとしながら、本気で肝を冷やした。


「おい! 落ちるぞ!」


けれどレイは落ちなかった。むしろ空気の流れに乗るように少し向きを変え、そのまま紫苑のほうへなめらかに滑ってきた。小さな水滴がいくつか、その後ろをちょこちょことついてくる。紫苑は呆れすぎて、思わず笑いそうになった。


「いや、お前もう飛ぶのかよ?」

「そのうち山でも丸ごと持ち上げそうだな」


レイは紫苑の反応が面白いのか、宙に浮いたまま小さな水滴をひとつ軽く弾いた。小さな水玉が紫苑の頬にぽつりと当たり、すぐ弾けた。


冷たかった。


紫苑は何が起きたのか理解できないような顔で、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。レイはきゃらきゃらと笑った。


「……今何した?」


もうひとつ。


ぽつ。


今度は首筋だった。紫苑は呆気に取られて固まったあと、結局手で雨水をさっと払った。


「やめろ」

「冷たいんだよ、この野郎」


レイはますます楽しそうになった。水滴が三つ一度に浮かび上がり、ひとつは途中で弾け、二つだけが残った。その二つがぎこちなく紫苑へ飛んでくる。紫苑は避ける暇もなく、また水滴を食らった。


「……よし、やる気だな?」

「俺は相手がガキでも絶対に容赦しないからな?!」


そのまま彼は掌で雨をひと掬いし、レイのほうへ向かって思いきり弾いた。水滴が宙でぱっと散る。レイは一瞬きょとんとしたあと、すぐにもっと大きく笑い出した。


そうして始まったのは、ほんとうに低レベルな乱戦だった。


レイは雨粒を集めて投げ、紫苑は手で払い返したり、地面の水を蹴り上げたりした。レイは宙でふわふわと漂いながら自在に向きを変え、紫苑は「おい、そこ止まれ!」と叫びながら、気づけば自分も笑っていた。


雨は次第に強くなっていった。車の屋根にも、アスファルトにも、建物の壁にも太い筋を描いて流れていく。レイはその雨の中で、生まれたばかりの生きものみたいに活き活きとしていた。角の先には雫が宿り、膜は濡れた光を受けて透明に輝き、大きな尾は水の流れみたいに空気を裂いた。


紫苑はその幻想みたいな姿をぼんやり見つめ、しばらく言葉を失った。


……綺麗だな。


その考えがあまりにも自然に頭をよぎって、紫苑はすぐさま思いきり顔をしかめた。


「はあ……俺、今何考えた……」


レイはそんな紫苑の複雑な内心なんて知るはずもなく、水滴をひとつ丁寧に浮かせて彼の目の前まで運んできた。今度はいたずらみたいにぶつけたりはしなかった。自分の宝物を見せびらかしたいみたいに、きらきらした小さな玉を紫苑の鼻先で止めた。


紫苑はそれをしばらく見つめてから、指先でちょんと触れた。水滴は弾けて、冷たい感触だけを指先に残した。


レイはまた嬉しそうに笑った。


紫苑もつい、口元の動きを押さえきれなかった。


「……そんなに嬉しかったのかよ」


レイは答える代わりに、またふわりと浮かんだ。そこでようやく紫苑は我に返った。


「よし、終わりだ。これ以上やったら二人とも風邪ひく」

「降りてこい、早く」


レイはもっと遊びたいとでも言いたげな顔をしたが、紫苑が両腕を広げると、結局はおとなしくその胸へ飛び込んできた。濡れた尾が紫苑の腕にするりと絡む。冷たいのに、不思議と嫌な感触じゃなかった。


家に着いたときには、二人ともずぶ濡れの子ネズミみたいになっていた。紫苑は玄関のドアを閉めるなり、そのまま壁に寄りかかった。


「はあ……何やってんだ、これ……」


レイは濡れた髪からぽたぽた水を落としながら紫苑を見上げた。まるで水をたっぷり吸って育ったみたいに、その顔には妙なくらい生気が満ちていた。


紫苑は濡れた服を脱ぎ捨て、大きなタオルを持ってきて、まずレイをぐるぐる包んだ。


「おい、動くな。尾っぽじっとしてろ」


レイは最初こそ大人しくしていたが、タオルが敏感な尾に触れるたび、くすぐったいのかぴくっと身体を震わせた。背中の膜は濡れているぶんますます透明で、照明を受けると細かく砕けたガラスみたいだった。


紫苑はその水気を拭いてやりながら、ふと手を止めた。


「……あれ?」


レイが顔を上げた。紫苑はタオルを持ったまま、そこで固まった。


雨に降られる前から少し大きくなったとは思っていた。

けれど今は、気のせいで済ませられるレベルじゃなかった。


腕が長くなっていた。

脚も同じだ。

腰を抱いたときの体格が明らかに違う。

頬の丸かった子どもの肉が少しだけ落ち、首筋も前より長く滑らかに見えた。


まだ子どもの姿ではあった。

でも、昨日の“赤ん坊みたいな”印象とはもう完全に別物だった。


紫苑はレイの身体を両手で支え、目線を合わせた。


「おい、ちょっと」


レイは何も分かっていない無垢な顔で瞬くだけだった。紫苑は一度、二度、ゆっくりその姿を見直した。


「……また大きくなっただろ」


今度は確信のこもった声だった。


レイは意味が分からないまま、濡れた尾の先だけをゆるく揺らした。紫苑はタオルを持った手で顔をこすった。


「いや、雨ちょっと浴びただけで何でこんな育つんだよ」

「植木鉢だってこんな速く伸びねえよ」


言い終わるか終わらないかのうちに、レイがまだ拙いながらも確かに唇を動かした。


「し……おん……」


紫苑の手がぴたりと止まった。


レイは自分が何を言ったのかも分かっていないような顔で、また紫苑をじっと見上げていた。紫苑はしばらく何も言えなかった。


さっきまで雨の中でふざけ合っていた熱が、その短い一言で妙に深い場所へ沈んでいく。


「……お前」

「今、何て言った?」


レイは答える代わりに、紫苑の手の甲へ自分の額をそっと擦り寄せた。まるで、その名前で合っているのか確かめるみたいに。


紫苑はゆっくり息を吸って、長く吐いた。


レイという名前がついてまだ一日も経っていない。なのに、その名前をレイ自身が口にした瞬間、二人の関係はまた少し別の段階へ進んでしまった気がした。


紫苑は結局、濡れた髪を乱暴にかき上げながら、ごく小さな声で呟いた。


「……ほんと」

「これで情が移ったら最悪なんだけど……」


けれどそのぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、紫苑の手はもう一度、今度は前よりずっと丁寧にレイの髪を拭いてやっていた。


耳の先がほんのり赤く染まっていたことに、当の本人だけが気づいていなかった。



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読んでくださってありがとうございます。

次回は毎週金曜日、21時頃に更新予定です。

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