3話:レイという名前
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創造主の身勝手な夏 — 第三話
レイという名前
紫苑はとてもゆっくりと目を開けた。
瞼の裏が鉛みたいに重かった。頭は鈍く痛み、口の中はからからに乾いている。ろくに眠れていないのは明らかだった。ちゃんと熟睡した記憶なんてほとんどない。夜中に何度も寝返りを打ち、そのたびに浅い眠りの底から引き戻された。それでもほんの一瞬だけ、泥みたいな眠りに沈んでいた気がした。
その短い意識の空白の上に、最初に浮かんだのはたったひとつだった。
……消えたか?
あまりにも現実味がなかったからだ。森で正体不明のものを拾って、家まで連れて帰って、食べさせて寝かせた――そんな馬鹿げた一連の出来事が、朝になったら悪夢みたいに消えていてくれたらと、少しも思わなかったわけじゃない。
紫苑は布団の中で指先をわずかに動かし、ゆっくりと顔を横へ向けた。
「……あ」
思わず、どこか失望の混じった吐息が漏れた。
ベッドの上、腕が届きそうなすぐそばで、小さな存在がまだ眠っていた。
漆黒の髪が枕の上にやわらかく散っている。額の青い角は昨日よりほんの少しだけ透き通って見え、体のそばに丸められた大きな尾は相変わらず自分を守るみたいに包み込んでいた。肩から腕に流れるように折りたたまれた薄い膜まで、どれも生々しいほど現実だった。
紫苑は一度目を閉じて、また開いた。
それでも景色は変わらない。
「……はあ」
低いため息が漏れた。
「夢じゃなかったのかよ」
その声を聞き取ったみたいに、ベッドの上の小さな存在が微かに身じろぎした。背中の膜がかすかに震え、尾の先が一度だけゆっくり揺れる。やがて、ゆっくりと目が開いた。
赤い瞳。
昨日よりも少しだけはっきりしていて、宝石みたいに澄んでいた。
小さな生きものは目を開けるやいなや、周囲を見回したり、自分の体を確かめたりはしなかった。最初から最後まで、たったひとりだけを探す目で紫苑を見た。視界の中に紫苑がいると分かった瞬間、その小さな顔から警戒がふっとほどけた。
紫苑はそのあからさまな安堵を見て、なぜか眉をひそめた。
「……何だよ」
相手は返事の代わりに、もぞりと身をよじった。
その短い動きだけで、紫苑は妙な違和感を覚える。
昨日より……少し大きいか?
本当にわずかな違いだった。人に言えば寝ぼけてるだけだと笑われる程度の。けれど昨夜抱いた感覚と比べると、確かに違った。手足がほんの少し長く見えて、頬の丸みも微妙に薄れている。尾の膜も昨日より豊かに広がっていて、全体の輪郭がうっすらとくっきりしたように見えた。
紫苑は上体を起こし、ベッドに身を乗り出した。
「……気のせいか?」
その子はそんな紫苑へ向かって、両腕をもぞもぞと伸ばした。抱いてほしいのか、触れてほしいのか、まだ言葉を持たない存在らしい、単純でまっすぐな仕草だった。
紫苑はしばらくその小さな手を見下ろし、結局脇の下へ手を差し入れて持ち上げた。
そして、すぐに止まった。
「……あれ?」
その子は紫苑の腕の中でおとなしく抱かれたまま、ゆっくり目を瞬かせた。
紫苑はその小さな体を少し持ち上げて、また見下ろして、もう一度重さを確かめる。急に重くなったわけではない。けれど昨日とまったく同じでもなかった。ほんの少し、本当に少しだけ、昨日より重みがある。
「……お前、昨日よりちょっと大きくなってないか?」
当然、返事はない。
その子はただ紫苑の服の襟元を小さな手で掴み、もっと深くその胸に潜り込もうとするだけだった。紫苑はしばらくそれを見下ろしていたが、結局舌打ちした。
「……いや、何なんだよそれ」
その言葉が誰に向けたものなのか、自分でもよく分からなかった。腕の中の相手か、自分自身か。あるいはこの息苦しい部屋全体に対するぼやきだったのかもしれない。
紫苑はその子を抱えたままゆっくりベッドを降りた。腰は重く痛み、首の後ろもこわばっていた。何より喉が渇いていて、今すぐ水を飲まなければ次のことを考える気力も出ない気がした。
「はあ……状況が詰みすぎてると口の中まで乾くのかよ……」
彼はその子をベッドへ戻そうとした。
途端に、その子の表情が一変した。
ほんの一瞬だった。
瞳が小さく揺れ、唇が震え、尾の先が不安げにぴくりと動く。今にも泣き出しそうな顔。昨日、紫苑が自分を置いて出ようとしたときに見た、あの切羽詰まった表情だった。
紫苑はため息から漏らした。
「何でそんな顔すんだよ……こっちが弱くなるだろ」
その子は小さな手で紫苑の袖を探った。触れる前からもう顔が崩れていた。
「いや、キッチン行くのまでお前の許可いるわけ? この家の主、俺なんだけど?」
もちろん通じるはずもない。
それでもその子は、ただ今すぐそばにいてほしいと言うみたいに、ますます唇を震わせた。
紫苑はあきれ半分で息を吐いた。笑いそうというより、呆れて力が抜けた感じだった。
「……俺だから許してやってるんだからな。ありがたく思えよ」
結局、彼はその子を抱き直してシンクへ向かった。片手でコップを取り、水を注ぎながらも、もう片方の腕は自然に相手の体を支えていた。反射みたいにそんな動きをしている自分が、いちばん信じられなかった。
コップを口に当てて冷たい水を数口飲み込むと、ようやく少しだけ頭が回り始めた。
けれど、意識が戻ると同時に現実が待っていた。
今日は休みだ。
だが、明日は。
紫苑はコップを置き、ぼんやり壁を見た。
明日、会社。
その四文字が急に鋭い刃物みたいに胸へ刺さった。
「……終わってるな」
腕の中の子は静かに紫苑の顔を見上げていた。紫苑はそれにも気づかないまま、小さく独り言をこぼした。
「今日まではいいとしてさ」
「で、明日は?」
「お前を置いて出る?」
「どこに?」
「誰に預ける?」
病院?
話になるか。
警察?
もっと無理だ。
役所?
説明の段階で詰む。
紫苑は無表情のままテーブルの上のスマホを手に取った。連絡先を開く。名前がずらりと並ぶ。会社の人間。形式だけの知り合い。一、二度会っただけの相手。もう使われていない番号。
そこで指が止まった。
誰もいなかった。
このふざけた状況を見せられる相手も、少しの間預けられる相手も、「何だそれ」と一緒に毒づいてくれる相手すら。
紫苑は無言で画面を閉じた。
部屋が妙に静かだった。冷蔵庫の小さな駆動音。窓の外からかすかに届く生活音。そして手のひらに伝わる小さな体温。その重たい静寂の中で、紫苑は唇を噛んだ。
「……笑えない」
その乾いた言葉が落ちた途端、部屋の空気まで少し沈んだ気がした。紫苑自身にもそう思えたし、腕の中の子もそれを感じ取ったようだった。
その子はしばらく何も言わず紫苑を見上げていた。赤い瞳が静かに動く。何かを考えているみたいな、子どもらしからぬ繊細な表情だった。
紫苑はその視線に気づかないまま、また深いため息をついた。
そのときだった。
コップの中の水が、ごく小さく波打った。
紫苑が最初にそれに気づいたわけではなかった。腕の中の子が、じっとコップを見つめていたからだ。
「……何してる」
紫苑がそちらへ目を向ける。
水面がかすかに震えていた。エアコンはついていないし、誰かが触れたわけでもない。それなのに、細い波紋が静かに広がっていく。次の瞬間、小さな水滴がひとつ、コップの縁からふわりと浮いた。
紫苑は固まった。
その水滴は蛍光灯の光を受けて、ガラス玉みたいにきらりと光っていた。ほんの爪の先ほどの大きさで、少しでも気を抜けばすぐ弾けてしまいそうなくらい頼りなかった。
その子はものすごく真剣な顔でそれを見ていた。
水滴が一度ふらつく。もう少しだけ高く浮かびそうになって、ふっと形を崩し、紫苑の手の甲へ落ちた。
「……え」
紫苑は濡れた手の甲を呆然と見下ろした。
その子は失敗したと思ったのか、一度瞬きをして、またコップをじっと見た。
紫苑は息を詰めたまま、その様子を見守った。
今度は水滴が二つ浮かんだ。片方はすぐ形を失ったが、もう片方はなんとか丸いまま残った。その子はそれを不器用に紫苑のほうへ押しやろうとする。水滴はふらふらと空中を進み、途中でまた消えた。
紫苑はしばらく何も言えなかった。
その子はそっと紫苑の顔色をうかがった。
誇らしげでもなく、怒られるかもと怯えているわけでもない。
ただ本当に、自分なりに何かを見せたかっただけの、そんな顔だった。
それを見た瞬間、紫苑はひと拍遅れて気づいた。
……まさか。
「お前」
その子がゆっくり瞬く。
「……今、俺のこと慰めてるのか?」
返事はない。
でも尾の先が小さく揺れた。まるで、それで合っていると言うみたいに。
紫苑は呆れて顔を覆いかけて、やめた。
「は……」
笑いに近い息が漏れる。
「もう驚きもしないな……お前が魔法使おうが、空飛ぼうが」 「でもそれ、誰にでも見せるなよ。俺だから許してるだけだからな」
その子がそこまで理解しているとは思えなかった。それでも紫苑の声からさっきまでの重さが少し消えたのを、本能で感じたのかもしれない。張り詰めていた表情がほんの少しやわらいだ。
紫苑は濡れた手の甲を親指でそっと拭った。冷たくも熱くもない、小さな水の感触が残る。
それがあまりに些細で、逆に妙だった。
森で封じられていた。
角がある。
尾がある。
一日で少し大きくなった気がする。
水を浮かせる。
しかも今は、自分の沈んだ顔を見て、それなりに慰めようとしていた。
紫苑は改めてその小さな存在を見下ろした。
「……お前、ほんと何なんだよ」
今度はさっきよりもだいぶ棘が薄かった。
その子は紫苑の服の襟を掴む手に少し力を込めた。紫苑はしばらくその手を見つめたあと、結局指先でその頬をそっとつついた。
くすぐったかったのか、その子は目を細めて小さく笑った。
「……はあ」
またため息が出た。
でも今度のそれは、さっきまでとは少し違っていた。
呆れ。
諦め。
それから、ごく薄い、どうしようもない種類のやさしさ。
「捨てることもできないし」
「置いてもいけないし」
「預けるとこもないし」
誰に聞かせるでもない言い訳みたいに、紫苑はぽつぽつと言った。
「……まあ、何とかなるか」 「なるようにしかならないしな」
その子は紫苑の口元をじっと見ていた。声が出るたび、その動きを覚えようとするみたいに。
紫苑はふと、いつまでも「おい」「お前」「ガキ」「正体不明」ではさすがに変だと思った。今さらだ。名前もないまま抱いて、食べさせて、寝かせて、慰められていることのほうがよほどおかしい。
「何て呼ぶかな」 「別に命名センスあるわけじゃないから期待はするなよ」
何となくそう呟いた、その瞬間だった。
「……レイ」
自分の声に、自分が先に止まった。
その子も目を大きく見開いた。
紫苑はわずかに眉を寄せる。
「……何だよ」
真面目に考えたことなんて一度もなかった名前だ。どこから出てきたのか、自分でも分からない。なのに妙にしっくりきた。
その子はその名前を聞いた瞬間、はっきりと紫苑を見た。尾の先がゆっくり揺れ、背中の膜が小さく震える。
まるで、その名前をずっと前から知っていたみたいに。
紫苑はその反応を見て、ますます妙な気分になった。
「……似合うな」
その子は紫苑の腕の中で少しだけ身を縮めた。
紫苑は小さく舌打ちし、ほんの少し口元を緩めた。
「よし」 「この家にいる間は、レイだ」
そうして名前が決まった。
正体不明の“もの”から、
ちゃんと“レイ”になる瞬間だった。
部屋の空気が少しだけ変わった気がした。紫苑には理由が分からなかったし、レイはただ紫苑の腕の中が温かいとしか思っていない顔をしていた。
時間は、そんな感情の変化にかまわず流れていく。
紫苑がようやく気を取り直してコップに手を伸ばしたとき、レイがその袖をきゅっと掴んで、かすれるような声で何かをこぼした。
「ハ……ベン……」
紫苑の動きが止まる。
「……は?」
レイは眠気に滲んだ顔のまま、もう一度同じ音を吐いた。
「ハ……ベン……」
紫苑はその場で固まった。
「ハベン?」
返事はない。
レイは自分が何を言ったのかも分かっていないような顔で、紫苑の袖を握ったままだった。
紫苑はしばらくその顔を見下ろし、眉をひそめた。
「誰だよ、それ」
レイはまた静かな寝息に近い呼吸をこぼしながら、紫苑の胸元へ顔を埋めた。
紫苑は妙に落ち着かない気分になった。
「……お前の前の保護者の名前、とかか?」
そう言いながらも、首筋が妙にぞくりとした。初めて聞く名前のはずなのに、ただ初めてという感じがしなかった。どこか遠く、ずっと昔に一度触れたことがあるような、不愉快な既視感だけが残った。
気のせいだろ。
紫苑はそう片づけようとした。
そのとき、テーブルの上に放ってあったスマホの画面がぱっと点いた。アラームだった。
紫苑は無意識に時間を見て、そのまま顔をしかめた。何度見ても変わらない、容赦のない現実がそこにあった。
【明日 出勤】
紫苑は何も言わず画面を落とした。
それから、自分の袖を命綱みたいに握っている小さな手を見下ろす。
レイはそれを放す気なんて少しもなさそうだった。
紫苑は重い沈黙のあと、結局深く長いため息をついた。
「……明日、会社なんだけど」
レイは目を半分閉じたまま、さらに紫苑の腕の中へ潜り込んだ。
その仕草があまりにも自然で、最初からそこが自分の場所だったみたいに見えて、紫苑は余計に頭が痛くなった。
「はあ……山越えたと思ったらまた山かよ」
それでも今度は、そんなふうにぼやきながらも、レイを下ろすことはできなかった。
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