2話:連れ帰ったもの
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創造主の身勝手な夏 — 第二話
連れ帰ったもの
紫苑は家のドアを開けた瞬間、呆然と立ち止まった。
靴を脱ぐのも、電気をつけるのも、いつもより半拍ずつ遅れた。
玄関先に転がった自分のスニーカー、ぐしゃぐしゃのコンビニ袋、適当に脱ぎ捨てたシャツ、テーブルの上に山積みになった缶、充電器、レシートの束――そんな散らかった日常の風景が一気に視界へ流れ込んでくる。
けれど、そのだらしない光景よりもずっとはっきりと、腕の中で脈打つ小さな体温のほうが意識にのぼってきた。
「……」
紫苑はゆっくりと腕の中を見下ろした。
森で拾ってきた、角の生えた正体不明の赤ん坊みたいなもの。
ありえなかった。
最初から最後まで、何一つ理屈が通っていない。
今の状況を説明してみろと言われたら、紫苑はむしろ会社で一生残業しているほうを選ぶ自信があった。
「……いや、今のはなしだ。俺ほんとに頭おかしくなってるな。一生残業ってなんだよ……」
小さな存在は、相変わらず目を閉じたままだった。
泣き疲れたのか、すうすうと規則正しい寝息を立てて眠っている。
森の中で一瞬だけ覗いた、あの非現実的な赤い瞳はもう見えなかった。
ただ、紫苑のシャツを掴んだままの小さな手だけが、まだしつこくそこにしがみついている。
紫苑は片手で顔を撫で下ろした。
「……いや」
静かに、自分を落ち着かせるように呟く。
「ちょっと待て。まずは……ほんと、ちょっと待て」
彼はかかとで玄関扉を押し閉め、そのまま部屋の中へ入った。
そしてまた立ち止まる。
この状態で、どこに置く?
ベッドか。床か。
いや、床はだめだろ。汚すぎる。
かといってベッドは……ベッドもたいがい綺麗じゃない。
紫苑は部屋をぐるりと見回したあと、突然慌ただしく動き出した。
テーブルの上の空きカップを流しへ押し込み、床に落ちた服を端へ寄せる。
ベッドの上に散乱していたタオルとイヤホンと、半分まで読んだ本をまとめて隅へ放り投げた。
もともと几帳面な性格だからではない。
むしろその逆だ。
普段ならあと数日は平気で放置していたようなものを、紫苑は今、何かに取り憑かれたみたいに片づけていた。
「なんで俺が」
とさっ。
クッションをベッドの下に押し込みながら、紫苑は自嘲まじりに呟いた。
「なんで赤ん坊のいる家みたいに整えてんだよ」
口ではそう言いながらも、手は止まらない。
最後にくしゃくしゃの布団をぴんと伸ばし、枕をどかして、ベッドの真ん中にようやくひとり分の寝かせる場所を作ったところで、紫苑はやっと大きく息を吐いた。
「……よし」
そして腕の中の小さな存在を、壊れ物を扱うみたいにそっとベッドへ下ろした。
布団の上に触れた瞬間、その子は尾を丸めて自分の体のほうへぐっと引き寄せた。
その動きに、紫苑は一瞬固まる。
やっぱり、尾がある。
森では気が動転していてよく見られなかったが、部屋のLEDの明かりの下で見るとますます現実味がなかった。
自分の体より大きく見える尾は、幾重にも重なった膜でできていて、先へ行くほど花びらみたいにやわらかく広がっている。
背中の薄い膜も、腕の線に沿って流れる透明な鰭みたいなものも、夢だと言い張るにはあまりにも輪郭がはっきりしていた。
紫苑はベッドの端に腰掛け、しばらくその子を見下ろした。
肌は相変わらず、冷たい青みを帯びた灰色をしている。
黒髪は濡れた夜みたいに艶めいていて、額から伸びた二本の青い角は、あまりにも小さく滑らかで、生き物の一部というより精巧な装飾品のようだった。
「……お前、ほんと何なんだよ」
もちろん返事はない。
小さな胸が、ごくゆっくり上下しているだけだった。
その穏やかな光景を見ていると、逆に怖くなってくる。
静かすぎた。
ここまで静かだと、むしろどこか悪いんじゃないかと不安になる。
紫苑は迷った末に、指先で額のあたりをそっと触ってみた。
生きている。
温かい。
信じがたいくらいに。
「はぁ……また起きて泣く前に、何か用意して食わせたほうがマシか……」
彼は重い体を持ち上げ、冷蔵庫へ向かった。
扉を開けた瞬間、ため息が先に漏れる。
水が二本。
ビールが一本。
食べかけの三角おにぎり。
カップ麺。
いつ買ったかも覚えていないソースの小袋がいくつか。
「……マジかよ」
紫苑は冷蔵庫の扉を掴んだまま呟いた。
「赤ん坊に食わせられるもん、一個もねえじゃん」
そう言った直後、自分で自分にツッコミを入れる。
「いや、ほんとに赤ん坊かどうかも分かんねえけど」
冷蔵庫を閉め、再びベッドのほうを見る。
小さな存在は相変わらず、布団の上でおとなしく横になっていた。
文字通り、おとなしかった。
静かすぎて、かえって不安になるくらいに。
紫苑はスマホを取り出した。
検索画面を開いたものの、指はしばらく宙をさまよった。
何て入れる?
『赤ちゃん 離乳食』?
いや、人間かどうかも分からないのに。
『角の生えた赤ん坊 餌』?
完全にヤバいやつだろ。
散々迷った末に、彼は結局、本当に頭のおかしい人間みたいな検索ワードを打ち込んだ。
異生物 育て方 何を食べさせればいいですか
検索結果は悲惨だった。
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ゲーム攻略。
怪談まとめ。
どう見てもネタのスレッド。
その中で、質問にぶら下がっていた回答のひとつが目に入る。
> 【回答】こういう知人いたけど精神科行って落ち着いたよw まずそっち勧めるw
紫苑は画面をじっと見つめたまま、低く言った。
「……それで解決するなら、どれだけ楽だったか」
夢かどうか確かめるように、自分の頬を指でつねる。
痛い。
少し強めにつねってみる。
もっと痛い。
「なんで起きないんだよ」
本気だった。
これだけ痛ければ目が覚めてもいいはずだった。
夢なら、とっくに冷や汗をかいて飛び起きていなければおかしい。
けれど、ベッドの上の小さな存在はまだそこにいた。
腕に沿った薄い膜が呼吸に合わせてかすかに揺れ、尾の先がゆっくりと布団の上を撫でている。
紫苑はスマホを置き、額を押さえた。
「はぁ……ほんと、どうかしてる」
とにかく何か買ってこなければならない。
赤ん坊が好きそうなものを。
いや、赤ん坊である保証もないが。
おかゆか。
ミルクか。
離乳食か。
もう一度スマホを取ろうとして、やめた。
どうせまた精神科だの何だの言われるだけだ。
「……とりあえず、おかゆ」
そう結論づけて財布を掴み、玄関のほうへ二、三歩進んだときだった。
くすっ。
背後で、ごく小さな音がした。
紫苑の足が止まる。
ゆっくり振り返ると、小さな存在はもうぱっちり目を開けて紫苑を見ていた。
「う……」
泣き声というより、泣く寸前の細い震えだった。
小さな手が空を探るように動き、尾の先が不安げに震えている。
「……おい」
紫苑は思いきり眉間に皺を寄せた。
「すぐ戻るからな?」
「うぅ……」
返事の代わりに、ちいさな唇が震える。
赤い瞳には涙がいっぱいに溜まっていて、変に綺麗で腹が立つ。
紫苑は玄関のほうとベッドのほうを見比べた。
「いや」
本気で呆れた。
「そのちょっとも待てないのかよ」
目を閉じて、開く。
罵声が喉元までせり上がったが、なんとか飲み込んだ。
そして、またベッドへ戻る。
「……ほんと、手がかかる」
近くに放ってあった薄いブランケットをひったくるように掴む。
小さな存在を包み込むように抱き上げると、その震えはようやく少し収まった。
紫苑はブランケットの中へ黒髪と青い角、それに尾の先までできるだけ押し込みながらぶつぶつ言う。
「お前が自分で招いたんだからな。見つかって通報されても俺は知らないからな。どっかの変人科学者に解剖されようが、実験台にされようが」
当然、通じるはずもない。
なのに相手は、やけに機嫌よさそうにへらっと笑った。
「……何だよ、その顔」
コンビニまでの道はいつもよりずっと長く感じられた。
ブランケットの中から伝わる体温は小さくて、それなのに妙に確かで、紫苑は無意識に腕へ力を込める。
誰かに見られないよう、まるで拾った子猫でも隠して運んでいるみたいに肩をすぼめた。
コンビニの自動ドアが開き、軽いメロディーが鳴る。
紫苑は普段以上に無表情を装った。
何も怪しくない人間の顔をして。
正体不明の角付きの子どもを抱えて、おかゆを買いに来た男ではない、というふうに。
ベビーフードの棚の前で少しだけ足を止めたが、すぐに諦めた。
何を基準に選べばいいのかまったく分からない。
結局、いちばん無難そうな白がゆと水、それから自分用にツナマヨのおにぎりを一つ取った。
レジに立ったとき、ブランケットの中で尾の先がかすかに動いた。
紫苑の心臓がひやりとする。
店員がちらりと顔を上げた。
「袋、ご利用ですか?」
「あ、はい」
返事が一拍遅れる。
会計が終わるまで、紫苑は内心ずっと冷や汗をかいていた。
当の本人はというと、腕の中からきらきらした目で紫苑を見上げているだけだった。
家へ戻ると、紫苑は真っ先に鍵を閉め、大きく息を吐いた。
「こんなこと、これから何回やる羽目になるんだよ……」
もちろん、まだやることは山ほど残っている。
紫苑はおかゆの蓋を開け、小さな器に少しだけ移した。
熱い。
ぎこちない手つきでスプーンを持ち、しばらくふーふーと息を吹きかける。
小さな存在を布団の上に凭れさせると、その子は紫苑の手の動きだけをじっと追った。
好奇心に満ちた目だった。
紫苑は先に自分で少し口をつけて温度を確かめる。
薄い。
赤ん坊には優しい味なんだろうが、自分が食べるには驚くほど味がない。
「……これ、食うのか?」
そう呟きながら、スプーンをゆっくり差し出す。
小さな存在はまず、くん、と匂いを嗅いだ。
それから舌先でほんの少しだけ触れ、ぴたりと止まる。
紫苑は思わず息を止めた。
「……どうだよ」
少しして、その小さな唇がまたスプーンの先へ寄ってきた。
今度は、さっきよりも少しだけはっきりと。
「食った」
その声には、かすかな安堵が混じっていた。
紫苑は危うく笑いそうになって、慌てて口元を引き締める。
「……よかった、ほんとに」
それからは思いのほか順調だった。
少しずつ。ほんの少しずつ。
おかゆをすくって冷まして、食べさせて、またすくって、また冷ます。
最初は警戒しているようだったその子も、次第にずいぶんおとなしく口を開けるようになった。
機嫌がいいのか、尾の先がゆっくりと揺れる。
ようやく紫苑の張り詰めていた肩の力が少し抜けた。
「腹減ってたのか」
自分でも何を言っているのかよく分からないまま呟く。
その子は返事の代わりに、もっと、と言わんばかりにスプーンを追った。
半分ほど食べさせた頃には、紫苑はほとんど降参していた。
「……まあいい。食わせるしかないだろ。とりあえず赤ん坊なんだから」
おかゆを食べ終える頃には、その子はもう眠そうにこくりこくりと頭を揺らしていた。
紫苑はあらためて布団を整え、その小さな体をそっと横たえる。
今度は泣かなかった。
ただ、指先で紫苑の袖をそっと掴んだままだった。
紫苑はしばらくその手を見下ろしていたが、やがて本当にゆっくりと、自分の袖を抜き取った。
それからようやくテーブルのほうへ向かい、すっかり冷えきったツナマヨおにぎりの包装を開けた。
もう味なんてほとんどしなかった。
海苔はしんなりしているし、米は少し固くなっている。
それでも腹は減っていたから、何口かはすぐに胃へ落ちていった。
部屋の中は、さっきよりももっと深い静けさに包まれていた。
ベッドの上では正体不明の小さな生きものが眠っていて、テーブルの前ではくたびれきった会社員が冷えたおにぎりを噛んでいる。
滅茶苦茶な光景だった。
滅茶苦茶すぎて、逆にこれ以上なく現実みたいだった。
紫苑はおにぎりを片手に、ぼんやりとベッドのほうを見た。
小さな角。
黒髪。
青みを帯びた肌。
背中と腕にある膜。
体より大きな尾。
そして、自分を求めるみたいに見上げてきた、あの赤い目。
紫苑は小さく、吐息みたいに呟いた。
「……これから、どうすんだよ」
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