1話:神社の奥で
---
レイは紫苑の腕の中で、少しずつ冷たくなっていった。
「……だめだ」
声が震えた。指先はすでに血と埃でぐしゃぐしゃで、抱きしめた身体は信じられないほど軽かった。
今にも砕けてしまいそうだった。
なのに、先に壊れかけているのは腕の中のレイより、自分のほうだとしか思えなかった。
「レイ」
「おい、目を開けろ」
返事はない。
赤い瞳は半分閉じたままで、濡れた睫毛の先には血なのか涙なのか分からないものが滲んでいた。
裂けた膜は力なく垂れ、長く伸びた尾の先は、かすかに震えては止まるのを繰り返していた。
紫苑は歯を食いしばり、レイをさらに強く抱き寄せた。
「俺を見ろ」
「俺はここにいる」
頼む。
その言葉は最後まで声にならなかった。
喉が詰まった。息が裂けそうだった。視界は滲み、世界のすべてが燃え落ちていくようだった。
そのときだった。
誰かが、すぐそばで囁いた。
——望むものは何だ?
紫苑は顔を上げられなかった。
見るまでもなかった。
見てはいけないものだと、本能が先に知っていた。
「……生かしたい」
声は形もなく震えていた。
「レイを……助けたい」
静寂が落ちた。
——それだけか?
紫苑は目を閉じて、また開いた。
腕の中の体温が、またひとつ遠のいたのが分かった。
その瞬間、頭の中に残っていたためらいみたいなものは全部砕け散った。
「強くなりたい」
しゃがれた息が漏れた。
「誰よりも」
「もう二度と……こんなふうに失わないように」
「レイを助けられるくらい……誰よりも強くなりたい」
今度は沈黙が少し長かった。
とてもゆっくり、何かが笑う気配がした。
それを聞いた瞬間、紫苑には分かった。
今、何かが始まるのだと。
二度と引き返せない何かが。
けれど、構わなかった。
代償が何であろうと。
終わりがなくても。
紫苑は冷えかけたレイの手を掴み、泣きそうな声で呟いた。
「……絶対に、俺がお前を救い出す」
その言葉が落ちた瞬間、世界が裂けた。
そして——
創造主の身勝手な夏 — 第一話
神社の奥で
遅くなったといっても、会社の明かりが全部落ちたあと、一人だけ残って残業していたわけではない。
定時退社まであと少し、という頃になって、課長だか係長だか、そんな肩書きの人間に人前で呼び止められたせいだった。
紫苑の勤め先は、たいした会社ではなかった。
都心のど真ん中にそびえる立派なビルでもなければ、名前を出せば誰でも知っている大企業でもない。
小さな広告印刷会社。
取引先向けのチラシ、イベント用の販促物、季節ごとに山ほど出てくる印刷見本。
降って湧いたみたいな修正依頼とスケジュール変更を、明らかに足りていない人数で無理やり回している――そんな程度の場所だった。
紫苑はその中で、メールを整理し、取引先への連絡を回し、データを確認し、上司の機嫌まで適当に受け流す、味気ない事務職にすぎなかった。
「紫苑くんってさあ、まず表情からして問題なんだよね」
黒みがかった髪は適当にまとめただけのポニーテール。
薄く夏の色を含んだ目の下には、くっきりと疲労が沈んでいた。
たしかに、何の表情も浮かべていなければ、冷たく見えるのかもしれない。
問題なのはそっちの顔面のほうだろ。
紫苑は課長の説教を、片耳で聞いて片耳から流した。
たいていの人間なら「申し訳ありません」と反射で口にするのだろう。
けれど紫苑はそういうタイプではなかった。
かといって、真正面から噛みつけるほど元気でもない。
だから彼は、適当に頭を下げ、適当に相槌を打ち、適当に聞いているふりをして立っているだけだった。
「言いたいことがあるなら、ちゃんとこっちを見て言ってくれる?」
紫苑は顔を上げた。
視界に飛び込んできたのは、てかてかと光る課長の禿げ頭だった。
あれを太鼓みたいに叩いたら、どんな音がするんだろう。
それとも鏡代わりに使えるだろうか。
そんな、いつものどうでもいいことを考えながら、紫苑は口を開いた。
(申し訳ありません)
「また始まったな」
やばい。吹き出しが入れ替わった。
その日、課長の禿げ頭は夕焼けを受けて妙に赤くてかっていて、
夏片紫苑は同僚たちの見ている前で盛大にやらかした。
残業自体は珍しくなかった。
けれど今日は業務ではなく、課長の説教に捕まったせいで、定時退社より三時間も遅くなってしまった。
帰宅してシャワーを浴び、ベッドに倒れ込んでも、あの声は耳の奥でまだうるさかった。
紫苑の住んでいる部屋は、駅近と呼ぶにはあまりにも苦しい、古びた1Kだった。
日当たりはいつも半拍遅れで、換気よりも生活の悪臭のほうがよく染みつく。
狭いキッチンとベッド、それから小さなテーブルを無理やり押し込んだ部屋の中には、昨日食べ残したコンビニ弁当の匂いと洗剤の匂い、それから疲れきった人間の体臭が何層にもこびりついていた。
部屋の中は静かだった。
けれど、決して静寂ではなかった。
天井の向こうからは見知らぬ誰かの生活音がかすめ、壁の向こうには他人の気配があり、窓の外では街のせわしない息づかいが止まることなく流れていた。
紫苑は目を閉じ、小さく呟いた。
「……もう、こんなふうに生きるのやめたい」
本当に死にたいわけじゃない。
ただ、こんなテンポで、こんな疲労にまみれたまま、毎日を無理やり繋いでいくことにうんざりしていただけだった。
翌日は土曜日だった。
昼まで寝れば少しは楽になるかと思ったのに、紫苑が目を開けたのは十一時という微妙な時間だった。
腹は減っているし、気分は最悪で、部屋の空気は人ひとり窒息させるには十分なくらい重かった。
結局、彼は適当に顔を洗い、そこらの服を引っかけ、財布とスマホだけを持って外に出た。
行く場所はなかった。
あるはずもなかった。
週末に一人で行けるまともな場所を考えつけるほど、彼は人生に執着していなかったからだ。
道を歩けば、夏休みの予定を楽しそうに話している家族連れや、夏祭りが楽しみだとアイスを分け合う若い恋人たちがそこら中にいた。
自分だけがこの世界の異物みたいで、逃げるように歩いているうちに、いつの間にか小さな神社の前に立っていた。
赤い鳥居の下から、短い石段が続いている。
深い緑に包まれた境内は、不気味なくらい静かだった。
紫苑は少しだけ迷ってから、その石段を上った。
何かでも願えば少しはましになるのか、それとも単にやることがなかっただけなのか、自分でもよくわからなかった。
ポケットを探り、五円玉を一枚取り出す。
からん――。
賽銭箱の中に落ちた音が、妙に澄んで聞こえた。
紫苑は両手を合わせ、目を閉じた。
真面目な顔をしようとしたのに、先に漏れたのは自嘲まじりのため息だった。
「宝くじ一等までは望まないんで……」
少しだけ間を置いてから、もっと低い声で囁く。
「……いや、正直、望んではいるけど。そこそこ金が入って、そこそこ疲れなくなって、そこそこマシな人生になりますように」
最後まで、それは祈りらしい祈りにはならなかった。
自分でも呆れて、紫苑は小さく笑って手を下ろした。
「神様も呆れてるだろうな。まあ、あんたが作った衆生なんだし、可愛く見てくれよ」
そう言って体を返し、石段を下りようとした、そのときだった。
かさり。
乾いた葉が擦れる音が、足元近くからした。
何気なく振り向くと、落ち葉の上を軽やかに跳ねる小さな茶色い塊が見えた。
「……え?」
リスだった。
小さな前足を揃え、黒い瞳で紫苑をじっと見つめている。
無表情だった紫苑の顔が、一瞬で緩んだ。
「わ……」
思わず、笑い混じりの声が漏れた。
紫苑はもともと、可愛いものにめっぽう弱かった。
かなり、弱かった。
そのことを知っている人間はほとんどいないけれど、昔の彼は野良猫を見かければつい立ち止まり、子どもの動物の写真一枚にも目尻を下げるような男だった。
ただ最近は、心の余裕が底をついていて、そんな感覚すら忘れていただけだ。
冷たく見える顔の奥に、ちいさな生き物ひとつで心を奪われる本来の自分がいる。
そんな自分が少し滑稽で、でも少しだけ懐かしくて、紫苑はわずかに口元を緩めた。
「なんだよ、ほんとにリスじゃん」
吸い寄せられるように一歩近づく。
するとリスは逃げるように駆けていき、少し先でまた立ち止まってこちらを振り返った。
まるで、ついて来いとでも言うように。
「おい、待てって」
紫苑はくすりと笑って後を追った。
リスはまた先へ行く。
「ちょっと待てよ、リスノスケ」
いつの間にか名前まで付けていた。
どこから現れたのか、痩せた猫が一匹、紫苑の足元を静かに横切る。
木の枝の上には小さな鳥たちが降りてきて、ひとしきり鳴いたあと、みな同じ方向を向いて黙り込んだ。
紫苑の足取りが、少しだけ遅くなる。
「……なんだ?」
神社の裏手へ続く小さな獣道は、思っていたよりもずっと深かった。
入口はまだ明るかったのに、数歩入っただけで木漏れ日が細かく砕け、森全体が青みを帯びた薄闇に沈んでいく。
湿った土の匂い、苔の匂い、古い樹皮の冷たい気配。
都心からそう離れているわけでもないのに、ここだけが世界の音を切り離されたみたいに静かだった。
紫苑はふいに立ち止まる。
ここまで来るつもりじゃなかったのに。
リスは少し先でまた小さな体を立てていて、猫は尻尾の先だけを揺らしながら森の奥を向いている。
鳥たちは低い枝の上で息を潜めていた。
「……帰るか」
そう呟いて振り向いた、その瞬間だった。
森の奥のどこかで、光が揺れた。
陽の光だった。
けれど、おかしかった。
森全体は薄暗いままだというのに、そこだけがまるで空が裂けたみたいに眩しく輝いていた。
葉も枝も、その一点だけ円く避けるように開いていて、そこへ差し込む光はただの木漏れ日というより、何かの中心を射抜く黄金の槍のように見えた。
紫苑は思わず息を呑んだ。
「……あんなとこ、さっきあったか?」
さっきまでは無かった。
いや、見落としたとかではなく、最初から存在していなかった気がした。
リスがもう一度だけこちらを振り返り、そのまま光のほうへぽんと跳ねていく。
「……なんだよ、ほんとに。おい、リスマル!」
舌打ちをひとつしながらも、足はもう動いていた。
理屈より先に、説明できない引力のほうが勝っていた。
奥へ進むほど、光は現実味を失っていった。
森の空気は夕暮れみたいに青く冷たいのに、そこだけまるで別の季節みたいだった。
浮かぶ埃までもが金色にきらめく、その中心に――
最初は、大きな水滴かと思った。
青い光を帯びた半透明の膜。
地面すれすれに浮かぶ、楕円の球体。
卵にも見えたし、花の蕾にも見えた。
表面は生きているみたいに、ゆっくりと波打っている。
小さな動物たちはその周りをぐるぐると回るばかりで、決して近づこうとしない。
森全体がそれを畏れて、息を潜めているようだった。
「……なに、これ」
一歩近づいた瞬間、青い膜の表面にさざ波のような揺らぎが走った。
背筋にぞわりとしたものが這い上がる。
ここは、人間が軽々しく踏み込んでいい場所ではない。
そんな直感が遅れて襲ってきて、紫苑は反射的に二歩ほど下がった。
そのときだった。
膜の内側の光が、ほんのわずかに傾いた。
いや、そう感じた。
明らかに、自分のほうへ。
紫苑は目を細めた。
青い封印の奥、幾重にも重なった光のあいだから、小さな影がゆっくり浮かび上がる。
丸く体を抱いた、ごく小さな存在。
眠っていた。
肌は人間のそれではなかった。
薄い灰色に透けるような青が差した、冷たく澄んだ色合い。
注ぎ込む陽光さえ温度には変えず、水底の石みたいな冷たい艶だけを返している。
長く流れる髪は、夜そのものみたいな黒。
額には、若い枝のように滑らかな青い角が二本。
尖った耳と、背には薄く透明な膜が幾重にも折り重なっていた。
それは肩で終わるものではなく、腕の外側に沿って柔らかく続き、手首を包むように垂れている。
体より大きく見える尾は丸く抱え込まれていて、重なった膜の先は花びらにも、浅い海を裂く鰭にも見えた。
儚くて、なのに根本から人ではない静けさをまとっている。
美しすぎて、むしろ恐ろしい。
紫苑は呆けたように呟いた。
「……生きて、るのか?」
返事の代わりに、小さな指先がぴくりと震えた。
それだけのことで、紫苑の心臓が鷲掴みにされる。
初めて見るはずなのに、ずっと昔から知っていたみたいな馬鹿げた懐かしさと、本能的な恐れが同時に込み上げた。
「……いや、ないだろ。これはない。うん、ないない。帰ろ」
無理やり体を反転させて一歩踏み出す。
けれど二歩目を踏む前に――
ぴしっ。
かすかに、けれど鋭いひび割れの音が森に響いた。
振り返った封印の表面には、細い亀裂が光のように走っている。
隙間から差し込んだ陽光が、その小さな存在の顔をより鮮明に照らした。
青白い唇。
今にも途切れそうな呼吸。
あれが今、自分が離れようとしたことに反応したのだと、紫苑にはなぜか確信できた。
「ちょっと待てよ……おかしいだろ。意味わかんないだろ。おい、リスマル! どういうことか説明しろよ!」
けれど案内役だったリスマルは、知らん顔で毛づくろいをしているだけだった。
森はまた静まり返り、世界そのものが紫苑の選択を待っているように止まっていた。
「……俺、ほんとにどうかしてる」
結局、紫苑はもう一度、光の中へ足を踏み入れた。
封印に触れると、そこにあったのは冷たさではなく体温に近いぬくもりだった。
指先が触れた瞬間、封印は待っていましたとでも言うように音もなくほどけて散った。
こぼれ落ちるように崩れてきたその小さな体を、紫苑は反射で抱きとめた。
あまりにも軽くて、抱いている実感すら曖昧だった。
それでも掌の上でかすかに脈打つ熱だけは、まぎれもなく生きていた。
腕の内側を、薄い膜がかすめる。
腰のあたりで丸くなった尾も、信じがたいくらい確かな感触でそこにあった。
そのとき、閉じていた瞼がゆっくり震えて――
細い睫毛の下から、鮮やかな赤が現れた。
濡れた柘榴の粒みたいに透き通った、あまりにも澄んだ赤。
揺らぎながら焦点を結んだその瞳が、まっすぐに紫苑を捉える。
まるで、ずっと昔から知っていた顔を確認するように。
その小さな存在は紫苑を見つめ、泣く寸前のように唇を震わせた。
そして細い指で、紫苑のシャツをぎゅっと掴む。
「……いや」
だめだ、これは。
「俺だって自分一人養うので手一杯なんだけど」
誰に向けたものとも知れない言い訳が飛び出した。
「こんなのどうしろっていうんだよ! 人なのか何なのかも分かんねえし! 通報案件かもしれねえし……! 家賃だってギリギリだし! 食うもんだって――!」
口では拒絶しているくせに、腕のほうはもうその小さな体をしっかり抱え込んでいた。
「おい! お前ら! 俺をここまで連れてきたんだろ! なんとかしろよ! 責任取れって!」
離れたところから見物している動物たちに叫ぶが、そいつらは示し合わせたようにそっぽを向いたり、遠くの景色を眺めたりしているだけだった。
紫苑は深く息を吐き、そっとその子を地面に下ろした。
「もっといい保護者、いるだろ……。そもそも俺だって、お前らに騙されてここ来た被害者なんだけど?」
一歩。
そして、二歩目を踏み出しかけた、その瞬間――
「うああああああああっ――!」
世界が崩れるみたいな泣き声が弾けた。
大きく騒がしい赤ん坊の泣き方ではない。
置いていかれると知ったものが、最後にしがみつくみたいな、聞いた側の胸を締めつける絶望の音だった。
それに呼応するように、動物たちまでもが一斉に鳴きはじめる。
紫苑はその場で足をばたつかせた。
「いや、待て、全員で泣かれたら俺どうしたらいいんだよ――!」
ついに彼は目をぎゅっと閉じて叫んだ。
「……お前ら、可愛けりゃ何でも許されると思ってるだろ!」
結局、彼はもう一度その小さな存在を抱き上げた。
すると不思議なくらいあっさり泣き声は止んだ。
その子はしゃくりあげながら、当然みたいに紫苑の胸元へ潜り込んでくる。
まるで、そこが最初から自分の居場所であったかのように。
「頭おかしいだろ、ほんと……」
森に差し込んでいた光は、いつの間にか柔らかな黄昏色へ変わっていた。
リスも猫も、役目は終えたとでも言うように森の向こうへ消えていく。
まるで、この瞬間のためだけに組まれていた舞台が終幕したみたいだった。
紫苑はその子を胸に抱いたまま、森の小道を引き返した。
陽の光はまだ暖かいのに、腕の中の熱だけが非現実みたいに鮮やかだった。
自分が平凡な日常の裏側、二度と引き返せない世界へ滑り込んでいくのだということを――
そのときの紫苑は、まだ知らなかった。
---
読んでくださってありがとうございます。




