20話:普通には終わらない一日
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創造主の身勝手な夏 — 第二十話
普通には終わらない一日
紫苑は通勤中、ずっと機嫌が悪かった。
体調が悪いわけではなかった。むしろ妙にすっきりしていた。それが余計に問題だった。ここ数日、内側を削っていた冷たい異物感は深い場所へ沈み込み、一晩中、内側からひっくり返されそうだった体も、今はただ適度に重いだけだった。疲れてはいるが、出勤できないほどではない。
それが、どうにも気に入らなかった。
こんな形でまともになったことが、あまりにも気分が悪かった。
地下鉄の窓に映った自分の顔をちらりと見た紫苑は、すぐに視線を逸らした。普段と大きく違うわけではない。けれど、どこか微妙に変わって見えた。死にかけて生き延びた人間というより、ただ何日もろくに眠れていない人間の顔。
むしろ、そう見えるだけで済んでいることを幸いと思うべきなのか。
「はぁ……」
長く息を吐いた瞬間、ポケットの中のスマホが短く震えた。
新しいメッセージではなかった。昨日の朝、自分が送ったメッセージの下に、課長からの短い返信がぽつんと届いているだけだった。
出勤したらすぐ話しましょう。
紫苑はその画面を見て、そのまま目を強く閉じた。
「……まあ、そうなるよな」
あの禿げ頭が、この状況をそのまま流すはずがなかった。
一昨日は連絡不能。昨日は無断欠勤。そして今日は、何もなかったふりをして出勤。
禿げ課長の立場からすれば、思う存分説教する名分があまりにも揃いすぎていた。
紫苑は通勤中、意味もなく唇をさらに強く噛んだ。家を出るときにレイが向けてきた、あの不安そうな目も、峰のやけに淡々とした「退勤予定時刻は?」という質問も、何度も耳の奥でこだましていた。あんな狂った状況の中で、それでも会社へ行かなければならないという、この薄っぺらい現実が、今さらながら侮辱的だった。
俺の人生には、本当に演出センスってものがない。
会社の建物に着いたころには、紫苑の顔はすでに疲れ切っていた。エレベーターの鏡に映った顔色があまりにも死人じみていて、彼は意味もなく口角を少し上げたり下げたりしてみた。大した変化はなかった。
事務所の扉を開けると、慣れた空気が一気に押し寄せてきた。プリンターが回る音、絶え間なくキーボードを叩く音、コピー機特有のぬるい熱気、こもった紙の匂い。あまりにもいつも通りの、人々の生活音。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、一昨日この会社の中で世界が裂けたあの惨状が、すべて夢だったのではないかと思った。
もちろん、違った。自分の体がはっきりと覚えていた。
紫苑はできるだけ気配を消して、自分の席へ向かおうとした。
失敗した。
「紫苑くん」
まさに聞こえてほしくないタイミングで、一番聞きたくない声が飛んできた。
紫苑は心の中だけで短く悪態を噛み殺し、ゆっくりと振り返った。
禿げ課長が腕を組んで立っていた。今日もてかてかと光るその頭は、蛍光灯の下でやけに存在感を主張している。
「ちょっとこっちへ来なさい」
紫苑は本気で逃げ出したかった。だが今回は、本当に言い訳のしようがなかった。
彼は静かに頭を下げた。
「……申し訳ありません」
課長が一瞬、目を細めた。普段なら目つきだけでも反抗する準備をしているような男が、あまりにも素直に出てきたので、かえって出鼻をくじかれたような顔だった。
「とにかく来なさい」
紫苑は大人しくその後ろについていった。
会議室ですらなく、事務所の片隅にある空いた机の前だった。中途半端に開けた場所で、最悪だった。きっと周囲の人間は仕事をしているふりをしながら、全員耳をそばだてているに違いない。
課長が重くため息をついた。
「紫苑くん、会社を何だと思っているんだ」
「……そんなつもりはありません」
「なぜ連絡が取れなかった?」
「申し訳ありません」
「昨日も出てこなかったな」
「申し訳ありません」
「体調が悪かったなら、せめて一本くらい電話を入れるべきだろう」
「……はい。申し訳ありません」
課長は一瞬言葉を失った。しっかり叱るつもりで構えていたのに、紫苑が一切口答えせずすべて受け止めるものだから、妙に調子が狂った顔だった。
紫苑は深く頭を下げたまま、じっと立っていた。今回ばかりは、今回ばかりは、本当に弁解の余地がなかった。
『一昨日は世界が裂けて、混沌が押し寄せて、自分は消えていて、昨日は精気の儀式の後遺症でまともに意識もなかったので――』などということを言えるはずがない。
課長がまた咳払いをして口を開いた。
「紫苑くん、最近君の精神状態がどうなっているのかは知らないが、会社はあくまで会社だ」
「……はい」
「個人的な事情があっても、最低限の連絡はするべきだろう」
「はい」
「それに、君の席が今どういう席なのかもわかっているな?」
紫苑はぼんやりと心の中だけで思った。
知りません。一昨日までは印刷会社の事務員でしたけど、今は龍王と体まで絡めて生き延びた半分非人間です。
もちろん、口には一文字も出さなかった。
「申し訳ありません」
課長はついに首を振り、大きくため息を吐いた。
「今回はここまでにしておく。二度とこういうことがないように」
紫苑はその言葉に、丁寧に頭を下げた。
「はい。申し訳ありません」
ようやく禿げ課長は紫苑を解放した。紫苑は自分の席へとぼとぼ戻りながら、唇を小さく動かした。
一昨日は死にかけて、人間ではないものと体まで絡んで、今日は禿げに何度も申し訳ありませんをした。
人生は、本当に腹立たしいほど屈辱的だった。
その日の午前は、信じられないほど普通に過ぎていった。
メール確認。修正事項の反映。印刷文言のチェック。取引先への連絡。
体は少し重かったが、仕事はそれなりにこなせた。むしろ妙なほど集中できた。何事もなかったかのように、指が勝手に仕事を見つけて動いていくような感覚だった。時折ふと胸の奥が冷たく揺れることはあったが、その感覚もすぐに散っていった。
一度だけ、カップに入れていた水から水滴がひとつ、重力に逆らうように浮かび上がり、そのまま宙をふわふわ漂った。
紫苑はそれを見た瞬間、びくりとして両手でカップを強く包み込んだ。
「……」
周囲をうかがったが、幸い誰にも見られていないようだった。
また別のときは、決裁書類をめくっている途中で、やけに指先が湿っていく感覚があった。案の定、紙の端がごくわずかにふやけていた。
紫苑は何事もなかったような顔で、その紙をそっと裏返した。
昼ごろには、トイレの鏡の前でふと足を止めた。冷たい水で顔でも洗おうかと思って蛇口へ手を伸ばしたが、指先が触れる前に、たまっていた水面が先に揺れ、波紋を立てた。
紫苑はすぐに水を出さず、手を引いた。
「……ふざけるな」
唇の隙間からこぼれた独り言は、ひどく低く冷たかった。
これはまだ、完全に自分のものではなかった。いや、もしかしたら今後一生、完全に自分のものにはならないのかもしれない。
ただ自分の体の中に入り込み、居座った、レイの力。
それを自覚した瞬間、唐突に家のことが頭に浮かんだ。レイは今ごろ何をしているのか。今もまた峰の顔色をうかがいながら、音もなく動いているのだろうか。すぐ帰ると言った自分の言葉を、ちゃんと噛みしめているのだろうか――そんなくだらない考えが、波のように押し寄せてきた。
紫苑は険しく顔をしかめた。
仕事しろ。余計な家のことなんか考えるな。
そうしてどうにか一日を耐え抜き、退勤時間に合わせて会社の建物を出たころには、もう全身がくたくただった。
残業まで発生しなかったことだけは、不幸中の幸いだった。
紫苑は鞄の紐を掛け直し、深いため息を吐いた。体は水を吸った綿のように重く、頭の中も鈍く沈んでいる。それなのに、不思議なことに足取りだけは少しずつ家へ向かって速くなっていた。
今日はただ早く帰って、適当に飯を食べて、風呂に入って、何も考えずに横になりたかった。
本当に、ただそれだけを望んでいた。
もちろん、そんなささやかな望みが素直に叶うはずもなかった。
見慣れた路地に入ったときだった。
最初に来たのは、不快な匂いだった。
湿った下水の悪臭。腐り落ちた草の匂い。雨のあと長いあいだ放置された地下室のような、じっとりと重い空気が、風に乗って一気に流れ込んできた。
紫苑は歩いていた足をぴたりと止めた。
この路地って、もともとこんな匂いだったか。
顔を上げると、街灯の光さえ届かない塀の下の影が、妙に黒く揺れていた。排水溝のほうから、ぬめった水が流れるような音が聞こえてくる。じっと耳を澄ませると、それはただの水音ではなかった。何か粘ついたものが、地面を引っかきながら這い出してくる音に近かった。
紫苑の背筋に、ぞっとする寒気が走った。
「……いや、ないだろ」
誰かが聞いたら笑い出しそうなほど、消え入りそうな声だった。
「まさか、また」
その呟きに答えるように、排水口の格子の下で何かが不気味に蠢いた。
黒く濡れた手が、隙間をこじ開けるように突き出てきた。次に、異様に長く痩せた腕が引きずり出される。最後に、人の頭よりは小さいが、決して人とは呼べない形のものが顔をもたげた。濁った黄色の瞳。顎関節が外れたように裂けた口元からは、粘ついた液体が涎と混じってぼたぼたと落ちている。
ゴブリンめいてはいたが、それよりずっと不快で、形の整っていない粘土の塊のようだった。まるで路地の隅に腐って溜まった汚水が寄り集まり、無理やり人の真似をしているかのような、おぞましい姿だった。
紫苑はその場で石のように固まった。
「……うわああっ!」
本気の混じった、生々しい悲鳴が飛び出した。
その声を捉えた瞬間、怪物はぐりんと首を折り曲げた。紫苑と目が合った瞬間、そいつの口が大きく裂ける。鋸のような歯の隙間から、吐息とも雑音ともつかない嫌な音が漏れた。
「王の……匂い……」
紫苑の目が見開かれた。
言葉というより、泥の中で声帯をずたずたに裂きながら出したような、奇妙な破裂音だった。
怪物が地面に低く伏せ、跳びかかる姿勢を取った。
「見つけた……」
「あの方の匂い……」
「龍王……」
次の瞬間、そいつのぬめった体が、ばねのように紫苑へ弾け飛んできた。
「来るな!!」
紫苑は本能的に両腕を交差させ、空中へ突き出した。
ただそれだけだった。どうにかしてあの不快な塊を止めなければならないと思った。体に触れる前に押し返したいという切迫感だけがあった。
その刹那、路地のくぼみに溜まっていた汚水が、まるで生き物のように一斉に噴き上がった。
ざあっ――!
単なる水しぶきではなかった。排水溝、塀の隙間、それどころか室外機の下に溜まっていた湿気までが一斉に一点へ引き寄せられ、鋭い槍の形を取って放たれ、怪物の胴体を貫いた。
空中でそいつの体が、奇妙な角度にねじ曲がる。
「ぐ、ぎ……っ!」
紫苑は自分が何をしたのか理解することもできないまま、慌てて後ずさった。
「なんだよ、これ――」
だが怪物は、それほどの傷を負っても死ななかった。胴体の真ん中が大きく抉れて吹き飛んでいるのに、溶け崩れた肉を無理やり繋ぎ合わせながら、また地面に手をついて這い上がってくる。黒い粘液を血のように垂らしながら、さっきよりさらに濁った、不気味な声で呟いた。
「魔王様が……」
「探しておられる……」
その名が空気の中へ落ちた瞬間だった。
「……アスモデウス」
誰かが低く呟いた。
紫苑はぎょっとして勢いよく顔を向けた。
濃い闇がほどけ、路地の入口、塀の影、さらには紫苑の背後の曲がり角からも、黒い衣の裾がひとつ、またひとつと姿を現した。冥渡家の者たちだった。
紫苑は信じられないという顔で、彼らを順に見た。
「なんであんたたちがここにいるんだよ!!」
一番奥の影から悠然と歩み出て答えたのは、峰だった。
今日も相変わらず、塵ひとつないほど整った顔をしている。まるで帰り道の路地から混沌の残滓が飛び出すことなど、通勤ラッシュと同じくらい当然の日常だとでも言いたげな表情だった。
「監視中でしたので」
紫苑は本気で呆れた。
「まさか、さっきからずっと見てたのか?!」
「介入基準を確認していました」
「呑気なこと言ってんじゃねえよ!」
彼らが言い合っている間にも、半壊した下級個体が、また奇怪な関節を折り曲げながら体を起こした。冥渡家の配下の一人が武器を握って前へ出ようとしたが、峰が軽く手を上げて制した。
その冷たい視線が、まっすぐ紫苑に向けられた。
「ご自身で処理されたほうがよろしいでしょう」
紫苑は口を開けたまま固まった。
「は?」
「先ほどは非常によくできていました」
峰は人の気も知らず、あまりにも淡々と言葉を続けた。
「もう一度やってみてください」
「正気か?!」
その間にも、形を失いかけた怪物が再び歯を剥いて飛びかかってきた。
紫苑は罵声を最後まで吐く間もなく、反射的に跳び退いた。来るな、頼むから来るな、と心の中で叫んだ瞬間、胸の奥深くから、見知らぬ冷たい波が一気にせり上がってきた。
精気の儀式のとき、レイと触れ合った際に感じた、あの湿って圧倒的な感覚が、痺れるように血管を伝い、指先まで目覚めていく気がした。
紫苑は奥歯を強く噛みしめ、もう一度空中へ手を伸ばした。
今度は路地の湿気どころではなかった。空気中に漂う細かな水分まで無理やり絞り取られるように絡み合い、巨大な波を作り出すと、そのまま怪物のおぞましい首筋へ巻きつき、締め上げた。
ぐしゃり。
肉へ食い込む無慈悲な水圧に耐えきれず、怪物の頭と胴体が、嫌な音を立ててねじ切られた。ぬめった黒い残骸が、塀と地面へ破裂するように飛び散る。
静寂。
紫苑は空中へ手を伸ばした中途半端な姿勢のまま、荒く息をしていた。
「……なんだよ、これ」
震える自分の両手を見下ろす。あまりにも無傷だった。血の一滴もついていない。傷ひとつない。それなのに、さっき確かに、自分の手で何かを引き裂いた。
ただ本能的に身を守りたかっただけなのに、体が勝手に先に反応してしまったのだ。
その様子を見ていた峰が、ごくわずかに顎を引いた。
「想定より容易に処理されましたね」
紫苑は勢いよく顔を上げ、噛みつくように言った。
「そんなこと言われても、ちっとも嬉しくねえんだけど?!」
そこでようやく、冥渡家の者たちが一斉に動き始めた。誰かは散らばった残骸へ近づき、慣れた手つきで護符を貼りつけ、誰かは地面を回りながら結界の文様を刻み込んでいく。おぞましい肉片は黄色い護符が触れた瞬間、青白い火花を散らし、黒い煙のように消えていった。路地の入口に立つ者たちは、通行人の記憶が汚染されないよう帳を張っていた。
紫苑はまだ落ち着かない呼吸を整えながら尋ねた。
「……今の、いったい何だったんだよ」
「なんでいきなり俺に飛びかかってきたんだ」
峰は縮んでいく地面の粘液を、乾いた目で見下ろした。
「匂いを追ってきたのでしょう」
「何の匂いだよ」
「あなたの中に根付いた力と」
峰の無感情な視線が、一瞬だけ紫苑の胸元をかすめた。
「あの子との繋がりです」
紫苑の顔が一瞬で歪んだ。
「他人事みたいにぽんぽん言いやがって」
「厳然たる事実ですので」
紫苑は込み上げる罵声を、どうにか喉の奥へ押し込んだ。
そのとき、残骸を調べていた冥渡家の配下の一人が振り返り、低い声で報告した。
「これは下級の野生個体ではありません」
路地の空気が一瞬で数度下がったように冷えた。
配下は顔を硬くしたまま続ける。
「内側に印が残っています」
紫苑が眉を寄せて聞き返した。
「印?」
その言葉に、峰が自ら残骸のそばへ近づき、片膝を曲げてしゃがみ込んだ。焦げていく黒い粘液の隙間で、ひどく奇怪で細い文様のようなものが、不気味に光って消える。紫苑の目にはただの染みにしか見えなかったが、それを確認した冥渡家の者たちの顔は、一斉に強張った。
短い沈黙のあと、誰かが不吉な呪文のように、ひどく低く呟いた。
「……アスモデウス側の残滓だな」
紫苑は反射的に顔を上げた。
「誰だって?」
今度は、地面を見つめていた峰が冷ややかに答えた。
「魔王です」
その馬鹿げた呼び名が、峰の口からあまりにも平然と出てきたせいで、紫苑はむしろ背筋にぞっとしたものを感じた。
「混沌側の王の一人ですね」
紫苑は額に手を当て、顔をしかめた。
「魔王って……名前からして死ぬほど歓迎できねえな」
「今後も歓迎できる機会は永遠にないでしょう」
峰は無表情のまま言い終え、ゆっくり立ち上がった。
「たとえ下級の残滓であっても、王の匂いを辿らせて魔王が直接送り込んだのであれば、状況はかなり複雑になります」
紫苑は湿った路地の塀に背を預け、苛立ちと疲労がべったり貼りついた顔で、力なく呟いた。
「つまりお前の話だと……これからこういうイカれた連中が、俺の帰り道にまた出てくるかもしれないってことだな」
峰は気休めの言葉で否定することはしなかった。
「可能性は非常に高いです」
紫苑は両手で自分の顔を荒くこすった。
「勘弁してくれよ、マジで」
そのときだった。
ズボンのポケットに突っ込んでいたスマホが短く震えた。
紫苑は眉間に皺を寄せ、面倒そうに画面を取り出した。そこには「レイ」の二文字が浮かんでいた。
普通の人間ならメッセージの打ち方から苦労して覚えるところだが、こいつはその方面にだけはやけに不器用だった。その代わり、声をそのまま届けられる通話機能だけは、驚くほど早く吸収した。紫苑に何が食べたいか聞くときも、買い物の途中で必要なものが出てきたときも、レイはしばらくキーボードとにらめっこするくらいなら、真っ先に通話ボタンを押すタイプだった。
紫苑は画面を見て少しだけ止まり、それからゆっくり通話ボタンを押した。
「……何だよ」
受話器の向こうで、一瞬だけ息遣いが聞こえた。やがてレイの声が、慎重に落ちてくる。
「紫苑」
その短く不安そうな呼び声ひとつで、つい先ほどまで鋭く張り詰めていた紫苑の目元が、ごくわずかに緩んだ。
「……ああ」
「大丈夫? 峰とは、会えた?」
紫苑は数秒のあいだ、すぐに返事を返せなかった。
路地にはまだ黒い残滓が悪臭を放ちながら焼け落ちており、冥渡家の者たちは現場を処理していて、峰は相変わらず腹立たしいほど平然とした顔で、この惨状を見守っていた。
その異質でおぞましい現実の真ん中で、耳元に届くレイの声だけが、唯一現実味を帯びていた。
紫苑は唇を湿らせ、素っ気なく吐き出した。
「死んでない」
その短くぶっきらぼうな返事に、受話器の向こうで凍りついていた息が、すっとほどけていくのが伝わった。
レイはしばらくためらってから、低く掠れた声で尋ねた。
「……また、来たんだよね……?」
紫苑は地面に残った黒い焦げ跡をじっと見下ろした。それから、さっきよりさらに短く答える。
「ああ」
レイはしばらく黙っていた。
やがて、風にほどけてしまいそうなほど小さく、かすかに震える声で呟いた。
「ごめん」
その自責の混じった声に、紫苑の眉間が深く歪んだ。
「お前のせいじゃない」
思ったよりも先に、言葉が飛び出していた。声は荒かったが、その中にある断定には一切の迷いがなかった。
受話器の向こうが、ふっと静かになった。おそらくレイのほうも、その即座の反応に少なからず戸惑ったのだろう。
紫苑は突然訪れた沈黙が妙に気まずくなり、さらにぶっきらぼうに言葉を切った。
「とりあえず切る」
「もう家に帰るから」
今度はレイの沈黙の向こうに、ごくわずかだがはっきりとした安堵が滲んだ。
「……うん」
短い返事が落ち、通話は切れた。
紫苑は黒く消えたスマホの画面をしばらく見下ろし、それから乱暴にポケットへ突っ込んだ。その一連の動きを静かに見ていた峰が、隣で淡々と口を開いた。
「戻りましょう」
紫苑は宙に向かって深いため息を吐いた。
「今日は本当に、みんなみたいに普通に終わると思ってたんだけどな」
峰はやはり、まばたきひとつせずに答えた。
「その無意味な期待は、この機会に捨てておいたほうが精神衛生上よろしいかと」
紫苑は苛立たしげに言い返した。
「嘘でもいいから、少しはいい感じに包んで言えないのかよ、お前は」
暗い路地を抜けながらも、紫苑の足はかすかに震えていた。体はまだ、たった今経験した非現実的な衝撃を受け止めきれず、ぎこちなく揺れている。頭の中は、何百もの考えでぐちゃぐちゃだった。
それなのに、妙なことに、玄関の扉を開ければレイが自分を待っているという事実だけは、やけにはっきりしていた。
それは腹が立つほど心をかき乱し、それでいて気味が悪いほど人を安心させた。だからこそ、もう否定できない感情だった。
その夜、紫苑は見慣れた自分の家のドアノブに手をかける直前、ほんの一瞬だけ、苦く認めるしかなかった。
おそらくこれは、自分にとって“普通に終わる日”というものが、これから奇跡に近いほど稀になっていくという、確かな兆しなのだと。
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