19話:三人で暮らす家
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創造主の身勝手な夏 — 第十九話
三人で暮らす家
新しい家で目を覚ました最初の朝は、奇妙なほど静かだった。
本来なら、もっと慌ただしくて当然だった。見慣れない空間で、家具の配置もまだ目に馴染んでいない。何より、一昨日から起きた一連の出来事が、あまりにも壮絶だった。誰かが寝坊して慌てたり、誰かが朝から不機嫌そうに騒いだりするくらいが普通だった。
けれど実際に部屋を満たしていたのは、ぞっとするほど整った静寂だけだった。
紫苑は半分閉じた目で天井をぼんやり見上げ、やがて深いため息を吐いた。
「……夢じゃないよな」
当然、夢ではなかった。胸の奥は相変わらず気味が悪いほど静かで、その静けさこそが、目の前の光景が紛れもない現実であることを示していた。数日間、体の内側を削っていた冷たい異物感は、もっと深い場所へ沈み込んでいる。消えたわけではない。見えない底へ降りて、まるで最初からそこにあったもののように、図々しく居座っているだけだった。
それが余計に腹立たしかった。
体を少し起こすと、ベッドの端がかすかに軋んだ。まだ完全に自分の家とは思えない、見慣れない異質な音だった。
紫苑はベッドの端に腰掛け、乾いた顔をこすりながら目を強く閉じ、それから開いた。今日は本当に、どうあっても出勤しなければならなかった。
一昨日は災厄に巻き込まれて死にかけ、昨日は真っ昼間から追われるように引っ越しをして、今日はまた何事もなかったように普通の会社員のふりをして出社する。
考えれば考えるほど、人生というものがあまりにも雑に転がっている気がした。
「はぁ……」
彼は顔を荒く一度こすり、重い体を起こした。部屋の扉を開けてリビングへ出た瞬間、紫苑はゆっくりと表情を歪めた。
食卓の上には、すでに朝食が並んでいた。
正確に言えば、やけに整っていて完璧な朝食だった。こんがり焼けたトースト、湯気の立つ簡単な卵料理、きれいに切られた果物が数切れ、それから温かい茶まで。ホテルの朝食とまでは言わないにしても、少なくとも一人暮らしの男が出勤直前に口へ押し込むコンビニのおにぎりとは、明らかに格が違っていた。
そしてその完璧な食卓のそばに、冥渡峰が座っていた。
黒いシャツに黒いスラックス姿。頭頂部付近で頑固に跳ねている一房の髪を除けば、乱れひとつない整った姿だった。表情は昨日と一ミリも変わらない。まるでこの家で何年も暮らしてきた人間のように、彼はあまりにも自然に、そして優雅にカップを持ち上げて茶を飲んでいた。
紫苑は固く口を閉ざしたまま、その呆れるような光景をしばらく見つめていた。
「……なんでお前が一番先に起きてんだよ」
峰はゆったりとカップを置き、平然とした声で答えた。
「必要なことがありましたので」
「人の家で?」
「現時点では、管理対象の居所です」
紫苑は本気で痛み始めた眉間を指で押さえた。
「そのムカつくほど整った喋り方、どうにかしろよ。聞いてるこっちが苛立つ」
峰は特に反論しなかった。その代わり、ひどく平然とした顔で一言付け足した。
「トーストが冷める前に召し上がったほうがいいかと」
紫苑は呆れすぎて、笑いすら込み上げそうになった。
「なんでお前がこの家の主みたいになってんだよ」
「主ではありません」
峰が淡々と訂正した。
「監視役です」
「そっちのほうが嫌だ」
そのとき、キッチンのほうから小さく物音がした。
紫苑が顔を向けると、そこにレイが立っていた。
今日は人間の姿だった。青い角も、背中の膜も、大きな尾も綺麗に隠している。それでも、人ではないもの特有の冷たい美しさは、まだ肌の上に漂っていた。長い髪はゆるく結ばれ、袖をまくったシャツの裾には少し水気が染みていた。おそらく、峰の朝食の準備をそばで手伝っていたのだろう。
問題は、その表情だった。
今日のレイは、いつもよりずっと控えめで静かだった。紫苑がリビングへ出てきた瞬間、反射的に視線は向いた。けれど目がほんの一瞬合ったかと思うと、すぐ怯えたように床へ落とした。昨日、廊下で冥渡の家の者たちからあれほど露骨な嫌悪を向けられてから、ずっとそうやって肩をすくめた罪人のような顔をしていた。
紫苑はそのひどく縮こまった様子を見るなり、妙に腹が立った。
もちろん、その苛立ちの矛先がレイに向いているわけではなかった。だから余計に面倒だった。
「……なんでそこに突っ立ってんだよ」
紫苑がぶっきらぼうに吐き出すと、レイの肩がほんのかすかに跳ねた。
「足りないかと思って……もっと持ってこようかと」
紫苑は食卓の上を見渡した。すでに自分の分は、皿の上に山のように盛られている。
「いらない」
短く切り捨て、椅子を引いてどかりと座る。レイはようやく動いたが、まだ様子をうかがう顔でおずおずと近づいてきた。そして食卓の向かい側に座ろうとしたところで、峰のいるほうを一度ちらりと見た。結局、紫苑から一番離れた斜め向かいの端の席へと下がって座った。
そのぎこちない動きが妙に目について、紫苑はトーストへ伸ばしていた手を止めた。
「なんでそんな遠くに座るんだよ」
レイがはっと顔を上げ、それからまた視線を落とした。
「……なんとなく」
その“なんとなく”は、少しも“なんとなく”には聞こえなかった。紫苑はレイの頭頂部を少し睨み、それから顔を向け直して峰を見た。
峰は徹底した無表情だった。正確に言えば、自分がこの気まずい空気の原因かもしれないという自覚すらない、薄味の顔をしていた。
その図々しさが、紫苑にはさらに腹立たしかった。
彼は結局、トーストを一切れ苛立たしげにちぎりながら、鋭く言った。
「お前が近くにいすぎるから落ち着かないんだろ」
レイが驚いたように目を見開いた。峰はゆったりと茶を一口飲んでから、ようやく静かに視線を上げた。
「その可能性はあります」
紫苑は負けずに言い返した。
「可能性じゃなくて、そうなんだよ」
峰はほんの少し沈黙し、状況を計算するように間を置いてから口を開いた。
「でしたら、私が別の席へ移るほうが効率的ですね」
そう言って、未練も不快感も一切見せずに席を立った。食卓から二、三歩離れたリビングの窓際にある低いテーブルへ移動するその一連の動作が、あまりにも滑らかだったので、紫苑は一瞬、口を開けたまま言葉を失ってしまった。
レイはその極端な席替えを見ても、まだ落ち着かない顔をしていた。ただ、さっきよりは肩に入っていた力がごくわずかに抜けている。
紫苑はその変化を横目に捉え、わざとさらにぶっきらぼうな声を出した。
「食え」
レイはすぐに小さくうなずいた。
「うん」
しばらく食卓には、食器がかすかに鳴る音だけが漂った。空気があまりにも気まずくて、今にも窒息しそうだった。
けれど実に腹立たしいことに、その息苦しい空気の中でも、朝食の味は見事だった。トーストは完璧な焼き加減で、卵は雲のように柔らかく、茶の温度すら飲むのにちょうどよかった。レイが主導したのか、峰が手を入れたのかはわからない。けれど結果だけを見ればあまりにも完璧で、かえって腹が立った。
紫苑は結局、湧き上がる好奇心に耐えきれず、ぽつりと投げた。
「これは誰がやった」
レイが慎重に、まるで叱られる子どものようにそっと手を上げた。
「トーストは、僕」
峰がすぐに付け加える。
「茶は私です」
紫苑は呆れたように目を閉じ、それから開いた。
「なんで妙に役割分担ができてんだよ」
レイが今にも消え入りそうな声で言い訳した。
「……一緒にやったほうが早いから」
「なんでそれをまた真面目にやってんだ」
「紫苑、出勤しなきゃいけないから」
その答えが、ほんの一瞬の迷いもなく、あまりにも淡々と返ってきたせいで、紫苑は数秒間そのまま口を閉ざした。やがて込み上げてくる妙な気まずさに、何の罪もないカップを持ち上げて茶を一口飲む。
喉を通っていく茶は、やけに温かかった。
どうにも慣れない食事が終わるころ、紫苑は壁時計を確認し、椅子から勢いよく立ち上がった。ぼんやりしているうちに、あと五分で遅刻するところだった。
「あ」
彼は悪態を噛み殺すように短く呻き、部屋の中を鷹のような目で見回した。
「ネクタイどこ行った」
昨日、新しい家へ移ってきたときに適当に突っ込んだ鞄や服が、部屋の隅で山のように積み上がっていた。紫苑はその混沌の前でしばらく苛立たしげに探し回り、顔つきは徐々に険しくなっていった。
「確かに持ってきたはずなんだけどな」
その様子を見ていたレイが反射的に手伝おうと立ち上がりかけ、峰のほうを一度ちらりと見て、そのまま動きを止めた。紫苑はその萎縮した態度を見つけた瞬間、また苛立った。
「お前は普通に来い」
レイはほんの一瞬まばたきし、それからようやくおずおずと紫苑のそばへ近づいてきた。
そのときだった。
ベランダの窓際で腕を組んで立っていた峰が、あまりにも平然と言った。
「左の箱の下です」
紫苑とレイの視線が同時に勢いよく向いた。
峰は相変わらず余裕のある姿で窓際にもたれたまま、落ち着いて説明した。
「先ほど整理した際に見えました」
紫苑は固まったまま、乾いた笑いを漏らした。
「……なんでお前のほうが詳しいんだよ」
「観察しましたので」
本当に頭を抱えたくなる話だったが、峰の言う通り、ネクタイは正確にそこへ挟まっていた。紫苑は救出したネクタイを乱暴に引っつかみ、床が沈みそうなほど深いため息をついた。
「はぁ……」
今日出勤したら、いったいどんな顔で課長に会えばいいのか。一昨日は無断欠勤同然に姿を消し、昨日の朝は申し訳ありませんというメッセージひとつを送っただけだ。それなのに今日は、何もなかったような顔で出勤しなければならない。その一方で、家にはこの怪しさしかない人間と非人間の二人組が残っている。
人生の軌道がなぜ一晩でこんなスペクタクルなジャンルへ急発進したのか、誰も親切には説明してくれなかった。唯一、答えを知っていそうな人間はそこにいる冥渡峰だけだったが、この男は説明するたびに人の気分を悪くした。
紫苑は鏡を見ながらネクタイを締めていたが、ふと手を止めた。
「……待て」
レイが真っ先に反応した。
「どうしたの?」
紫苑は首に半分かかったネクタイを握ったまま、後ろに立つ二人を交互に睨んだ。
「俺がいない間、二人で家にいるのか」
レイがひどく慎重に、小さく答えた。
「……そうみたい」
峰の返事はもっと簡潔だった。
「現状ではそうなります」
紫苑の眉間に深い皺が刻まれた。
「それが一番不安なんだが」
不安を抱えたまま、紫苑は結局ネクタイを適当に締め、鞄を掴んだ。玄関へ向かう足取りがやけに重い。レイを空っぽの家に一人で残していくわけではない。だが、もしかするとあの男と二人きりにしていかなければならないことが、余計に落ち着かず、不安なのかもしれなかった。
屠殺場へ引かれていくような気分で玄関にしゃがみ、靴紐を結んでいると、背後からレイのか細い声が聞こえた。
「紫苑」
紫苑は顔を伏せたまま、素っ気なく答えた。
「何だよ」
背後に短い沈黙が降りた。レイはきっと、いくつもの言葉を飲み込んでいる顔をしているのだろう。行かないでと駄々をこねることもできず、自分も連れていってとねだることもできず、それでも一人残される恐怖を完全には隠せない、あのわかりやすい顔。
長い逡巡の末に出てきた言葉は、とても短く、慎重だった。
「……今日も、行くの?」
紫苑は靴紐を結ぶ手を止めた。
どうにも解釈しにくい質問だった。今日もあの忌々しい会社へ行くのかという意味なのか、今日も自分をここに残して行くのかという意味なのか。それとも、今夜も自分のところへ帰ってきてくれるのかという意味なのか。
おそらく、その三つすべてが含まれている。
紫苑はゆっくり体を起こし、振り返った。
レイはいつの間にか玄関の上がり框のすぐそばまで来ていたが、そこまでだった。あと一歩踏み出せば紫苑の負担になるのではないかと恐れるように、自分で見えない線を引いて立っている。
紫苑はしばらく、その大きくて痛々しい男をじっと見つめてから、やがて何気ないふうに吐き出した。
「行くしかないだろ」
レイの視線が、ほんのかすかに床へ落ちた。
紫苑はすぐに言葉を続けた。
「でも、残業はしないで、できるだけ早く帰ってくる」
その淡々とした一言に、レイの表情がごくわずかに揺れた。明るく笑ったと言うにはあまりにもかすかで、ただ安心しただけと言うにはあまりにも慎重で脆い変化だった。
「……うん」
紫苑はその顔を長く見ていられず、急いで目を逸らした。その一瞬の表情だけで、胸の奥を小さく刺されたようにくすぐったくなったからだった。
逃げるように玄関のドアノブへ手をかけた瞬間、今度は峰の乾いた声が飛んできた。
「退勤予定時刻は?」
紫苑が眉間をひどく歪め、振り返って睨んだ。
「なんで」
「予想時刻は把握しておく必要があります」
「出席確認でもする気か?」
「警戒範囲を調整します」
紫苑はまたしても言葉に詰まった。反論できないほど合理的で重い理屈が、人を余計に苛立たせる。
「……早ければ六時くらい」
「承知しました」
入力値を確認した機械のような淡泊な返事に、紫苑は文句を言う気力すら失ったまま、追われるように扉を開けて外へ出た。
廊下をとぼとぼ歩いている間も、後頭部が痛くなるほど背後が気になっていた。一度くらい振り返ってやるべきだという衝動が湧いたが、実際に振り返ったら一日中仕事が手につかなくなるのは目に見えていたので、最後まで意地でも前だけを見て歩いた。
がちゃり。
重い扉が閉まると、家の中には再び重い静寂が降りた。
レイはその場に石像のように立ったまま、閉ざされた玄関扉をしばらくぼんやり見つめていた。廊下の向こうへ紫苑の足音が完全に遠ざかるまで、一歩も動かなかった。
静けさが完全に空間を飲み込んでから、レイは抑えていた息を、ゆっくりと吐いた。
「……行っちゃった」
空気の中へ溶けていく、小さな呟きだった。
そのころ、ベランダの窓際にいた峰は、いつの間にか腰を下ろしていた。低いテーブルの上には、ぴんと広げられた紙が数枚、細い筆ペン、それから護符の欠片のような小さなものが幾何学的に整然と並んでいる。朝食の前から何かを慌ただしく整理している様子ではあったが、紫苑が出ていった直後に本格的に始まった彼の作業は、想像以上に執拗で冷ややかだった。
峰はまったく揺らがない手つきで、紙の上に細く奇妙な文字を途切れることなく書きつけていった。時折、筆ペンの先で鋭い文様を描き足し、ときには護符の端を指先で強く押さえ、何かを密かに刻み込んだ。かと思えばふと顔を上げ、ベランダの外の虚空を見つめ、また玄関の上を鋭く見上げ、リビングの隅と部屋の敷居を交互に細かく確認する。
彼の視線が届くたび、空中には肉眼では見えなかった細い線が一瞬浮かび上がり、すぐ跡形もなく消えた。光と呼ぶにはあまりに淡く、波紋と呼ぶにはひどく乾いた、ぎりぎりの境界線のようなもの。前日の夜の印に似た気配を帯びていたが、それよりずっと緻密で精巧な網だった。
レイは息を殺し、その一連の過程をじっと見つめていた。
怖い。あの男は、やはり怖い存在だった。
けれどその怖い男が今していることは、思っていたよりもずっと静かで献身的だった。結界の隙間を確かめ、異常の兆候を細かく記録し、この見知らぬ空間の内と外を鉄壁のように整えている。紫苑がいない間にどんな不測の事態が起きても即座に対応できるよう、ひどく精密に、計算高く動く防衛者の姿だった。
本当に、妙な人間だった。
息苦しいほど怖くて、腹が立つほど無愛想で、氷のように冷たいくせに、家を守るための手だけは一度も休まない。
レイはその場でしばらく迷っていたが、やがて慎重にキッチンのほうへ足を向けた。
朝に淹れた茶が、まだ少し残っていた。香りがよかったから、もう一度カップに注いでも悪くなさそうだった。昨日の引っ越し荷物に運良く紛れていた小さなクッキー型と基本の材料もあったし、朝食を準備したときに残しておいた生地も少しあった。華やかで大がかりな焼き菓子は無理でも、添えて食べられる素朴な焼き菓子くらいなら、すぐに作ることができた。
けれどレイは、手を忙しく動かしている間も、意識がずっと背後に引っ張られていて、うまく集中できなかった。峰が今も何かを延々と記録しているという圧迫感。その冷たい視線が、自分の背中をなぞっているのではないかという恐怖。そして何より、下手に好意を差し出して、冷たく拒まれたらどうしようという強い怯え。
それでも、手を止めることはなかった。
オーブンの中で生地が焼け始め、香ばしく甘いバターの匂いがキッチンとリビングにふわりと広がっていった。茶は飲むのにちょうどいい温度になるよう冷ましておいた。
レイは盆を両手で持ったまま、キッチンの入り口でしばらく身動きできずに立っていた。
……行っても、いいのかな。
怖い。けれど、これからしばらくは一つ屋根の下で一緒に暮らしていかなければならない。いつまでもこうして怯えながら様子をうかがっているわけにもいかない。
自分にそう言い聞かせ、もう一度深く息を吸ってから、レイは盆を持って、ゆっくりと峰のいるテーブルへ近づいた。
「……あの」
さらさらと動いていた峰の筆ペンの先が、ぴたりと止まった。オリーブ色の瞳が、ゆっくりと上へ向けられる。
レイはその冷たい視線に押され、思わず肩を少しすくめた。
「お茶……飲む?」
峰はレイが震えながら差し出したカップを一度見て、それから強張った彼の顔を見た。その表情には、相変わらず何の感情の揺らぎもなかった。
レイはすっかり気圧され、小さな声でどうにか付け足した。
「それと、これは……お菓子」
息苦しいほど短い沈黙。
峰はゆっくり手を伸ばし、カップと菓子の皿を受け取った。そして少しの間、皿の上の小さな菓子をじっと見下ろしてから、無味乾燥な声で尋ねる。
「ご自分で作ったのですか」
レイはごくりと唾を飲み、ためらってから小さくうなずいた。
「うん」
けれど峰はその答えを聞いても、すぐに菓子を口へ入れなかった。その代わり、実験室で標本を観察する研究員のように、淡々とした顔で菓子を指先につまみ、あちこちから眺め始めた。
その奇妙な行動に、レイの赤い瞳が小刻みに揺れた。
「……どうして?」
峰は顔色ひとつ変えず、何でもないことのように言った。
「毒があるか確認するためです」
その瞬間、レイの表情が痛々しいほど崩れた。
「……あ」
まるで、ぴんと張っていた糸が一瞬で萎れてしまったような顔だった。肩は床まで落ちそうなほど沈み、盆を持っていた手先まで微かに力が抜けて震えた。
けれど峰はその反応を見ても、特に何の変化も見せなかった。ただ手に取った菓子を何気なく半分に割り、断面の匂いを軽く確認してから、ごく小さな欠片を慎重に口へ運んだ。
レイはまるで処刑宣告を待つ罪人のように、息を殺してその様子を見守った。
永遠にも思える一瞬のあと、峰が不意に口を開いた。
「おいしいですね」
レイの両目が大きく見開かれた。
峰は相変わらず石仏のような無表情で、評価を続ける。
「甘すぎませんし」
「食感も悪くありません」
レイは頭を鈍器で殴られた人間のように、しばらく何も言えなかった。叱責が飛んでくると思って身構えていたところに、予想外の褒め言葉が飛んできたせいで、思考回路が止まってしまったような顔をしていた。
「……本当?」
「嘘をつく理由がありません」
その返事は実に峰らしく、徹底して無愛想で理性的だった。相手を優しくなだめようとする意図も、気まずい雰囲気を無理に和らげようとする気遣いも、一パーセントすら混じっていなかった。ただ自分の味覚細胞が感じた客観的な事実を、そのまま報告しただけという顔。
けれど不思議なことに、だからこそ余計に本心らしく聞こえた。
レイの固まっていた口元が、ほんの少し、かすかな弧を描いて緩んだ。
「……よかった」
峰はカップを持ち上げて茶を一口飲み、それからまた筆ペンを握って紙へ視線を落とした。
「お茶も悪くありません」
レイはその連続した褒め言葉を聞いても、しばらくその場に立ち尽くしていた。やはり、この男は怖い。あの乾いた唇から、いつまた冷たい言葉が飛んでくるかわからないという張り詰めた緊張感も、まだ消えてはいない。
けれど少なくとも今この瞬間だけは、ほんのわずかに、怖さが薄くなっていた。
レイはそっと座椅子を引き、峰の向かいに腰を下ろした。しばらくの間、峰が機械のように書き続ける紙をちらちら盗み見ていたが、やがて込み上げる好奇心を抑えきれず、ぽつりと尋ねた。
「……それ、何してるの?」
峰は顔も上げずに答えた。
「記録です」
「何の記録?」
「一昨日の出来事、現在の状態、警戒範囲」
レイは唇を噛みしめ、少しタイミングを測ってから、また慎重に尋ねた。
「いつも、そういうことしてるの?」
「必要ですので」
「しなかったら、どうなるの?」
そこでようやく、峰の視線が一瞬だけ紙から離れ、レイへ向いた。
「誰かが死ぬ可能性があります」
レイはその冷たい警告に、また口を閉ざした。わざと脅すために言ったのか、それとも起こり得る事実を淡々と述べただけなのか、判別しにくい声だった。
峰はすぐに視線を戻し、また紙の上でペンを走らせた。
「あなたは家のことをしていればいいでしょう」
レイがまばたきをする。
「……許してくれるの?」
「禁じる理由がありません」
ひどく峰らしい答えだった。
レイは黙々と文字を書き続ける彼の頭をじっと見つめ、それから思わず小さく息を吐いた。
本当に、妙な人間だった。息が詰まるほど怖いのに、少しだけ行動の型が読める。だからこそ油断できず、かえって緊張してしまう相手。
けれど頭の中がそうして複雑に動いている間も、さっき聞いた「おいしいですね」という無味乾燥な声が、耳の奥で何度も心地よく響いていた。
レイは視線を膝へ落とし、自分の指先をもじもじと触りながら、ごく薄く、慎重な息で口を開いた。
「……紫苑」
さらさらと動いていた峰の手元が、ごくわずかに止まった。
レイは言ってしまってから、すぐに怖くなった。今すぐ取り消したくなった。けれどもう、口に出してしまった。
「紫苑……会社で、大丈夫かな」
今度は、峰からすぐに返事が返ってこなかった。重い沈黙が、短く宙に浮いた。
レイは余計な心配でくだらないことを言ってしまったのだと自分を責め、慌てて口を閉ざした。その瞬間、峰が紙から視線を離さないまま、ひどく淡々と言った。
「平気なふりは上手くやるでしょう」
レイが驚いて、ゆっくり顔を上げた。
峰は相変わらず無表情のまま護符の端を押さえ、淡々と付け足した。
「見たところ、自分の分のストレスは徹底的に押し殺して、日常を模倣する人間です」
レイはその容赦のない分析を聞いて、危うく小さく声を出して笑いそうになった。奇妙なほどに、紫苑という人間の本質をぞっとするくらい的確に見抜いている言葉だったからだ。
「……うん」
その小さく柔らかな返事が、見知らぬ家の静けさの中へ、温かく沈んでいった。
紫苑の温度が抜けた家は、まだ少し空っぽで見慣れなかった。けれど、息が詰まるほど心細く、孤独というわけではなかった。
帰ってくると言った。
あのぶっきらぼうで、けれど確かな一言が、不思議なほど胸の奥へ深く錨を下ろしていた。
レイは両手で温かいカップを、大切そうに抱え込むように持った。向かい側では、相変わらず冥渡峰が息を潜めるように、静かに、しつこく何かを書き続けていた。
その規則正しい筆ペンの音を聞きながら、レイはふと思った。
本当に、ひどく奇妙で似合わない三人が、なぜか一つ屋根の下で暮らすことになってしまったのだと。
そして結局、この家の中心になってしまった紫苑は、おそらく今ごろ、あの忌々しい会社の中で、世界で誰よりも不服そうな顔をしながら、平然と“まともな会社員”のふりをしているのだろう。
ありありと想像できるその不服そうな顔を思い浮かべた瞬間、レイの口元に、ついに隠しきれないほど小さく温かな笑みが静かに広がった。
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