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18話:朝が来てからようやく


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創造主の身勝手な夏 — 第十八話

朝が来てからようやく



紫苑が目を覚ましたのは、太陽がすでに高く昇ってからだった。


最初は、自分がどこに横たわっているのかさえ、すぐには思い出せなかった。見慣れた天井と、見覚えのある部屋。けれど体の感覚だけは、ひどいほどに見知らぬものだった。腰から下は鉛をぶら下げたように重く、胸の奥は奇妙なほど静まり返っている。昨日一日中、内側を引っかき続けていたあの冷たい違和感は、今ではずっと深く、低い場所へ沈んでいた。


それが、かえって不快だった。


状態は良くなったような気がする。

ただ、その方法がどうしても気に食わなかった。


「……は」


乾いたため息が唇のあいだから漏れた。


少し体を起こした瞬間、昨夜の記憶が満ち潮のように一気に押し寄せてきた。礼装、印、峰、レイ。そして、その先に続いた生々しい記憶まで。


紫苑はそのまま、顔を険しく歪めた。


「夢だったらよかったのにな……」


そのときだった。


枕元に放り出していたスマホが、まるでこのタイミングを狙っていたかのように、けたたましく鳴った。


紫苑は眉間に皺を寄せながらスマホを手に取った。そして液晶画面を確認した瞬間、本気で体が凍りついた。


不在着信十三件。

二十件以上溜まったメッセージ。


課長。

同僚。

会社の番号。

課長。

また同僚。


紫苑の顔色が、瞬く間に白くなっていった。


「……待て」


昨日、自分がどこにいたのか。

そこでようやく、はっきりと思い出した。


会社。


正確には、会社にいた最中に混沌が押し入り、そのあと世界が歪み、自分は姿を消し、結局戻ることもできなかった。


そして今日。


当然、出勤もしていない。


紫苑はしばらく何も言えず、そのまま両手で顔を覆った。


「ああああ……」


骨身に染みるような呻きが漏れた。


「何やってんだよ……夏片紫苑、この馬鹿野郎……」


彼はほとんど反射的にメッセージ画面を開いた。指先が微かに震えて一瞬止まり、それからすぐに文字を打ち込んでいく。


申し訳ありません。事情があり、ご連絡が遅くなりました。

本日は欠勤扱いでお願いいたします。

明日からは出勤いたします。


送信ボタンを押したあとも、心臓は破裂しそうなほど騒いでいた。


こんなありきたりな言い訳で許されるはずがないことくらい、よく分かっている。それでも、社会人として遅ればせながら連絡を入れることが、最低限の筋だった。


「……終わった」


低く呟いて息を吐いた瞬間、部屋のどこかから、静かな視線を感じた。


紫苑はゆっくりと顔を向けた。


レイは、先に目を覚ましていた。


まだ本来の姿のままだった。青みを帯びた灰色の肌には、昨夜の名残が淡く刻まれていた。首筋や肩、胸元には赤い跡が浮かび、拘束されていた痕もまだ消えていなかった。長く流れ落ちた黒髪のあいだから青い角が覗き、背中の膜は完全には広がらないまま半ば折り畳まれている。大きな尾は、体の内側へ丸まるように巻かれていた。


その赤い瞳は、ひどく慎重な光を帯びて、ただ紫苑だけを見つめていた。


「紫苑……」


とても低い、小さな声だった。


紫苑は反射的に息を呑んだ。

そしてすぐに答えた。


「何だよ」


自分でも分かるほど、声は硬く強張っていた。


紫苑自身もそのことには気づいていたが、一度口にしてしまったものは取り戻せない。


レイはしばらく唇を動かしてから、遠慮がちに様子をうかがうように尋ねた。


「体……大丈夫?」


紫苑はしばらく、すぐには答えられなかった。


正直なところ、体調は思っていたよりずっとましだった。疲労感は残っているものの、昨日まで肉体を内側から蝕んでいた不安定さは、確かに落ち着いていた。けれどそれを素直に認めた瞬間、昨夜のことがあまりにも鮮明になる気がして、かえって言葉が出てこなかった。


「……知らねえ」


結局、そうぶっきらぼうに吐き捨ててから、ごく短く付け加えた。


「でも、昨日よりは変じゃない」


レイの肩が、ごくわずかに下がった。


その安堵した様子を見て、紫苑の胸はさらに複雑になった。何かもう一言くらい言うべきなのだろうと思うのに、実際に口に出そうとすると気まずさのほうが先に立つ。


だから、わざとさらに素っ気なく尋ねた。


「お前は」


レイがびくりとした。


「……え?」


「大丈夫なのかよ」


レイは少し止まってから、ごく小さく頷いた。


「うん」


短い返事だった。

けれど二人とも、その短いやり取りに含まれた気まずさとぎこちなさ、そして昨夜を境に微妙に変わってしまった空気を、知らないふりはできなかった。


紫苑はその空気に耐えきれないというように、先にベッドから体を起こした。


「……出るぞ」


レイが瞬いた。


「外に?」


「部屋の中にいると息が詰まる」


それは本音だった。


二人はしばらく黙ったまま服を整えた。紫苑はできるだけ何でもないふうに振る舞い、レイもその気配を察したのか、余計な言葉を重ねようとはしなかった。


そうして玄関の扉を開け、外へ出た瞬間、周囲の空気が一変した。


扉の前の廊下には、すでに冥渡家の者たちが立っていた。


黒を基調とした整った服装。過剰なほど端正な姿勢。

そして誰一人として隠そうともしない視線。


彼らの眼差しが向かう先は、紫苑ではなかった。


レイだった。


あまりにも露骨だった。単なる警戒というより、嫌悪に近い目つきだった。災厄を目の前にしながら、手に武器がないからかろうじて堪えているような表情。ある者はあからさまに口元を歪め、ある者はレイの足先から角、膜、尾までを舐めるように見て、息苦しいほどの敵意で睨みつけていた。


その敵意があまりにも直接的で、隣にいる紫苑のほうまで背筋が冷えるほどだった。


その中の誰かが、ごく小さく、しかし周囲にはっきり聞こえる声で呟いた。


「こんなものが、本当に我々冥渡家の領域内にいたのですか」


隣にいた者が、冷たく応じる。


「だから結界が狂うのです」


別のほうからは、露骨な舌打ちが聞こえた。


「近くで見ると、なお酷いな」


レイの肩が、ごくわずかに縮こまった。


その姿を見た瞬間、紫苑は本能的に冥渡家の者たちへ向けて顔をしかめた。


そのとき、奥から冥渡峰が歩いてきた。


今日もまた、過剰なほど整った顔つきだった。昨夜あれだけの混乱があったとは信じられないほど、落ち着いて、乾いていて、腹が立つほど冷静だった。


紫苑は峰を見つけるなり、すぐに噛みついた。


「朝っぱらから人の気分を最悪にする才能があるな、あんたら」


峰はただ、無言で一度瞬きをしただけだった。


「お目覚めでしたか」


「ノックもしないで人の家の前に並べておいて、それが言うことか?」


峰は答える代わりに、レイのほうへ軽く視線を投げた。その短い一瞥だけで、廊下に漂っていた他の者たちの空気が、さらに鋭く研ぎ澄まされる。


レイは降り注ぐような視線に耐えきれず、ついに先に口を開いた。


「し……紫苑は、外してほしい」


その一言で、廊下の空気が硬く凍った。


レイは紫苑を見ることなく、ただ冥渡家の者たちへ向かって言葉を続けた。


「紫苑は何も知らなかった」


「僕のせいだ」


「だから、僕だけを最前線に立たせて」


「紫苑は放っておいて」


「お願い」


低く沈んだ声だったが、その口調だけははっきりしていた。


廊下に並んだ者たちの表情が、いっそう冷たく凍りついた。


誰かが呆れたように鼻で笑う。


「身の程も知らずに」


別のほうからも、冷たい声が重なった。


「やはり災厄側は、最後まで身勝手ですね」


「自分一人で済ませられると信じていること自体が傲慢だ」


その瞬間、レイの瞳が、ほんの一瞬だけ紫苑へ向いた。


本当に短い瞬間だった。

糸のように細い期待、あるいは最後くらいは味方でいてほしいという、ごくかすかな切実さが混ざった気配。


紫苑はその目と合った瞬間、思わず視線を逸らしてしまった。


本当に、頭で考える暇もなく、体が先に反応した。


レイの表情が、ごくわずかに強張っていく。


その短い沈黙を、冥渡家の者たちはすべて自分たちに都合のいいように解釈したらしい。


「ご覧ください」


誰かが、低く嘲りを含めて囁いた。


「結局、それを庇おうとした人間も同じです」


「災厄に関われば、ああなるのです」


レイの肩が、さらに小さく縮こまった。


その瞬間、紫苑の表情が険しく歪んだ。


「うるさい」


廊下のざわめきが一瞬で止んだ。


紫苑は不快感を剥き出しにした顔のまま、今度はまっすぐ彼らを睨み返した。


「朝っぱらから大勢で口を揃えて、胸糞悪いこと言うのも才能だな」


冥渡家の者たちの視線が、一斉に紫苑へ突き刺さった。


それでも紫苑は、一歩も退かなかった。


「何だよ」


「間違ったこと言ったか?」


峰はそこでようやく、片手を軽く上げて周囲の者たちを制した。冥渡家の者たちは不満げな気配を隠そうともせず口を閉ざしたが、だからといって張りつめた空気まで和らいだわけではなかった。


峰はその短い騒動を収めるように、ひどく淡白で乾いた口調で言った。


「ともかく、精気儀式は成功しました」


紫苑はすぐさま峰を鋭く睨んだ。


「それで」


「あなたの体内に入ったあの子の力は、ひとまず安定しています。接続も切れていません」


紫苑は眉を寄せた。


「“ひとまず”って何だよ」


「言葉どおりです。完全に終わったわけではないということですね」


峰は平然とした顔で続けた。


「あなたが今、あの子から完全に離れることができない理由もそれです」


紫苑の目が鋭く細まる。


「……どういう意味だ」


「今のあなたの肉体と、あの子の力はすでに混ざっています。単なる接触ではなく、生存そのものがその接続に依存している状態です」


レイがごくわずかに体を強張らせ、紫苑もまた無言でその言葉を呑み込んだ。


峰は淀みなく説明を続けた。


「昨夜、私が外で警戒していたのも同じ理由です。儀式を妨げられれば、二人とも崩壊する可能性が高かったので」


「そして今後も、定期的な結びつきが必要になります」


紫苑は即座に顔を歪めた。


「またやるってことか?」


「はい」


「ふざけてんのか?」


「いいえ」


峰は少しも動じなかった。


「昨夜の一度で基礎は安定しました。ですが、あの子の力は人間の肉体に比べて深すぎ、大きすぎます」


「あなたの体は、それに耐え続けられるよう再調整されなければなりませんし、接続も定期的に固定する必要があります」


紫苑は本気で頭がおかしくなりそうな顔をした。


「うわ」


「人を不安にさせる才能があるな、あんた」


「事実を申し上げているだけです」


紫苑は押し寄せる頭痛に耐えるように、指で眉間を強く押さえた。


そこでふと、さらに恐ろしい疑問が頭をよぎった。


彼の顔色が、一瞬で白くなる。


「待て」


廊下の空気が再び静まり返った。


「俺、昨日……」


紫苑は本気で魂が抜けたような顔をしていた。


「コンドームもつけてないんだけど」


冥渡家の者たちの表情が、一斉に奇妙に歪んだ。ある者は露骨な嫌悪感を浮かべて顔をしかめ、ある者は『この人間は今、この状況で何を言っているんだ』という目で見ていた。


紫苑はその刺すような視線を受けた瞬間、さらに苛立ちが募った。


「ああ、あんたらはいいから」


彼は峰のほうへ顎をしゃくった。


「あんた。ちょっと来い」


峰が不思議そうに一度瞬きをした。だがすぐに、特に文句もなく紫苑について廊下の端へ数歩移動した。


他の者たちの耳に届かないほど距離が開いたところで、紫苑はひどく低く、ひそやかな声で尋ねた。


「まさか、妊娠するわけじゃないよな?」


峰のポーカーフェイスが、初めてほんの一瞬だけ崩れた。


本当に刹那のことだったが、『この人間はこの状況で真っ先にそれを心配するのか』という困惑が、その顔をかすめた。


紫苑はその反応を見て、さらに腹が立った。


「何だよ、その顔」


峰はすぐに平静を取り戻した。


「混沌側の個体の繁殖構造は、人間と同じではありません」


「それは前にも聞いた」


峰はごく短く言葉を選んだ。


「少なくとも私の知る記録の中では、子を宿し、産んだ例は極めて限られています」


紫苑の目がわずかに揺れた。


「つまり、例外ってことか?」


「はい」


「リリスという名で伝わる例が一つありますが、それも一般的な事例とは言い難いですね」


紫苑は額を押さえ、眉間を寄せた。


「それ、誰だよ」


峰は紫苑をしばらく見たが、深く説明はしなかった。


「今知る必要はありません」


「重要なのは、あの子に人間式の妊娠という概念をそのまま当てはめるのは難しいという点です」


紫苑はしばらく何も言えなかった。


「つまり」


「今すぐそれを心配なさる段階ではない、ということです」


紫苑は本気でこめかみを押さえた。


「うわ」


「全然安心できねえ」


「不確かなことを断定的に言うほうが、無責任ですから」


紫苑は足元が沈みそうなほど深いため息を吐き、それ以上は問い詰めなかった。正直、疑念が完全に晴れたわけではない。だが、少なくとも先ほどのように今すぐ髪を掻きむしりたくなるほどのパニックは免れた。


そのとき、峰がひどく淡々とした口調で付け加えた。


「それから、今後は私が同行します」


紫苑がぴたりと止まった。


「……は?」


「監視役として」


「必要であれば、同居も」


紫苑は本気で呆れ果て、言葉が出なかった。


「ふざけてんのか? 一緒に住むって言うなら、まず家賃を出してからそういうこと言えよ」


廊下にしばしの沈黙が流れた。


峰は目ひとつ瞬かずに答えた。


「住居を提供します」


今度は紫苑が、本当に言葉を失って呆然とした。


「……は?」


「より安全な場所が必要になるでしょうから」


「監視、移動、警戒まで考慮すると、今より広い空間のほうが効率的です」


紫苑は呆れたように乾いた笑いを漏らした。


「家賃の代わりに家?」


「はい」


「何だよ、それ」


「何でそんな、ちょっと魅力的な提案してくるんだよ……別の魂胆があるわけじゃないだろうな」


峰はなおも、静かな湖面のように平然としていた。


「合理的な方法を提示しただけです」


数時間後。


紫苑はまだ呆然とした顔のまま、新しい家の前に立っていた。


正直、今も状況をきちんと理解できていない。昨日は会社で働いていたら突然世界がひっくり返り、夜には精気儀式なるものを行い、朝には会社から連絡爆弾を食らい、今度はいきなり引っ越している。


人生の軌道が、急激に曲がりすぎていた。


家は、確かに以前住んでいたワンルームより広かった。部屋もきちんと分かれていて、窓も大きく、息が詰まるような窮屈さはずっと少ない。


紫苑は思わず、短く安堵の息を吐いた。


けれどその隣に立つレイは、さっきからずっとしょんぼりしていた。


廊下で冥渡家の者たちにあからさまな嫌悪を向けられて以来、ずっとこの調子だった。もともと用心深いところのあるやつだったが、今は完全に気が萎えて小さく縮こまっている。肩はすっかり落ち、紫苑の顔色ばかりうかがって、まともに視線も合わせられない。


紫苑はその姿をじっと見ていたが、ふいにぽつりと口を開いた。


「なあ」


レイの肩がびくりとした。


「……うん」


紫苑は何でもないことのように少し視線を逸らし、言った。


「冥渡家って、マジで感じ悪くないか」


レイが不思議そうに瞬いた。


「え?」


「特に峰」


「喋り方聞いてると、一発殴りたくなる」


一瞬の沈黙。


レイは戸惑ったような目で紫苑を見つめ、それからほんの少し迷った末、蚊の鳴くような声で答えた。


「……うん」


「ちょっと、そうかも」


紫苑が鼻を鳴らした。


「ちょっとじゃなくて、かなりだろ」


レイの口元が、ごくかすかに動いた。


紫苑はそのまま、無造作にぽつぽつと言葉を投げた。


「それに、外に立ってた連中も」


「あんなに露骨に嫌うことあるかよ」


レイはもう一度、目を丸くした。


その言葉が自分を庇うためのものなのか、それとも単に状況が腹立たしくて文句を言っているだけなのか、うまく判断できないという顔だった。


紫苑はそのぼんやりした顔を見て、なぜか照れくささが込み上げ、さらにぶっきらぼうに言った。


「お前が一番ムカついたはずだろ」


レイの赤い瞳が、ごく小さく揺れた。


そして長い時間が流れたあと、ようやく本当にか細く囁いた。


「……うん」


その短い一言が、思ったよりずっと痛ましく響いて、紫苑は胸の片隅がちくりとするのを感じた。


だから、さらに露骨にぶっきらぼうな口調を装った。


「だから」


「次は一緒に悪口言おうぜ」


レイはそのまま体を強張らせた。


紫苑は面倒くさそうに肩をすくめる。


「何そんな顔してんだよ」


「俺もムカついたんだって」


短い沈黙のあと、レイの口元に、ごく小さく慎重な笑みが淡く浮かんだ。


「……うん」


その笑みがあまりにも儚くて、少しでも触れたらすぐに砕けてしまいそうで。


紫苑はわざと何でもないふりをして、ぷいと顔を背けた。


「いいから」


「荷物持て」


レイは今度は、少しだけはっきりと答えた。


「うん」


その短いやり取りだけで、昨夜から二人のあいだに重く落ちていたぎこちない壁が、ほんの少し崩れたような気がした。


喧嘩をしたわけでもないのに、どこかで仲直りしたような気分。


紫苑はそのくすぐったい感覚をどうしても認めたくなくて、そのまま口を閉ざした。レイもまた、それをわざわざ表に引き上げようとはしなかった。


その代わり、二人は同じ場所を見つめながら、並んで歩き出した。



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読んでくださってありがとうございます。

次回は毎週水曜日、18時頃に更新予定です。

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