16話:今夜
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創造主の身勝手な夏 — 第十六話
今夜
部屋の中は、奇妙なほど静かだった。
峰が本格的に動きはじめたのは、その静寂が湿り気を帯びて重く沈み込んだあとだった。
彼は特に何も言わず、部屋の中央にあったテーブルを壁際へ押しやると、床に残っていた印の線を改めて整えた。指先が触れるたび、淡い光が広がり、すぐに沈んでいく。カーテンはさらに隙間なく閉じられ、照明は低く落とされた。狭いワンルームは次第に、日常的な住まいではなく、ある特定の儀式を執り行うために一時的に借り受けた異質な空間へと変わっていった。
水気を含んだ空気が、ごく薄く四方へ広がっていく。乾いた部屋にばかり慣れていた紫苑は、その変化を黙って見つめながら、ようやくこのすべてが現実なのだと実感した。
今夜。
ここで。
レイと。
「……くそ」
低く呟いた、短い悪態だった。峰は聞こえなかったかのように動いていた。いや、たとえ聞こえていたとしても、わざわざ返す価値を感じていない顔だった。
「着替えてください」
紫苑はテーブルの上に置かれた薄い礼装を手に取った。白というより、青い水のような色を帯びた布だった。指先にかけるだけで、そのまま滑り落ちていきそうなほど軽く、柔らかい。これを身にまとって、また外へ出なければならないという事実だけで、こめかみがずきずきと痛んだ。
押し潰すようにため息を飲み込み、彼は結局カーテンの内側へ身を隠した。
カーテンの向こうは、さらに狭く息苦しかった。
紫苑はしばらく呆然と立ち尽くしていた。シャツのボタンを外す手つきは、思ったよりも鈍かった。腕を動かすたび、胸の奥で冷たい波が立つ。もう、はっきりと自覚できた。これは単なる気のせいではない。自分の体の内側に、本来存在しなかった何かが、実際に入り込んでいる。
レイの根源的な力。
そしてこれから行うのは、その力と自分の肉体のあいだに無理やり生じた結びつきを安定させること。その冷酷な事実が改めて脳裏を撫でていき、紫苑は一瞬、目をきつく閉じた。
「は……」
服を脱ぎ捨て、礼装を身にまとった瞬間、また悪態が漏れた。布はあまりにも薄かった。肌に触れた途端、冷たい感触でぴたりと張りつく。体を覆うというより、冷たい水気が皮膚を包みながら降りてくるような感覚に近かった。肩から腰、太腿まで流れるような曲線に沿って落ちる布は、体を隠すどころか、その形を露骨に際立たせた。動くたび、腰の線や脚の輪郭が容赦なく浮かび上がる。
「……ふざけんな」
本心からの呟きだった。すべて透けていると断言するには微妙だったが、隠れていると言うにはあまりにも足りない。息を吸うたび、薄い布が腹部と胸元に沿ってわずかに密着し、また離れる。そのたびに体の起伏がさらに鮮明になった。
紫苑は反射的に襟元を合わせようとしたが、大した違いはなかった。これは隠すための衣服ではない。儀式に必要な最低限の箇所だけを覆い、その下の輪郭はむしろ晒すための服だった。その事実が、紫苑をさらに苛立たせた。
「……はあ」
だからといって、永遠にカーテンの裏へ隠れているわけにもいかない。結局、紫苑はカーテンの端を掴んでしばらく迷ったあと、ひどくゆっくりと外へ歩み出た。
峰はすでに部屋の中央で、印をほとんど完成させていた。
印に沿って流れる光の線は、照明を落とした部屋の中でもはっきりと存在感を放っていた。円の中心と重なり合う文様、その周囲に薄く漂う湿気、呼吸するたびにゆっくりと揺れる大気。狭いワンルームにはもう、平凡な生活感ではなく、異界の気配が濃く染み込んでいた。
そしてレイは、顔を上げた瞬間、そのまま凍りついた。
紫苑はカーテンの前に立ったまま、一歩も動けなかった。礼装は想像していたよりもずっと露骨だった。薄い布はかすかな光を透かして白く浮かび、体の熱を帯びた部分ごとに、腰や腹部、太腿の線を正直になぞった。動くたび、脚のあいだで揺れる布の裾は、かえって脚の輪郭をより明瞭に際立たせていた。
紫苑はまず、レイの顔色をうかがった。赤い瞳が、呆然としたまま自分を貫いていた。
反応はすぐだった。
レイの呼吸が大きく乱れた。普段なら何の変化もなかったはずの滑らかな体の上に、先ほど一度現れては引いていた痕跡が、再び浮かび上がりはじめた。今度は比べものにならないほど鮮明だった。
下腹部の変異も同じだった。すでに予兆のあった女性的な変化が、再びはっきりと形を取りはじめた。呼吸が荒くなるたび、隠しようのない反応もまた、明確に存在を主張した。体が意志とは関係なく、儀式の方向へ合わせて変わっていく事実が、あまりにも露骨に現れていた。
レイの顔が、一瞬で紅潮した。本人も遅れて自覚したのか、大きく目を見開く。
「あ――」
ほとんど反射的に体を隠そうとしたが、縛られた手首が先にぴんと張った。腰と腕を締めつけていた縄が動きを阻み、呪術の文様が淡く光る。
「はあ……お前、本気かよ」
紫苑の声が低く沈んだ。レイがびくりと体を震わせる。
「お前今……俺のこの格好見て反応したのか?」
紫苑の視線は、隠しようのない体の変化を一度なぞり、それからレイの顔へ固定された。その短い一瞬だけで、レイは耳まで真っ赤に染まった。
「僕もわからない……」
レイはほとんど泣きそうな声で呟いた。
「本当に……僕もわからない。でも、勝手に……」
吐息が不安定に震える。
「胸がどきどきして……体が変なんだ……」
紫苑は、自分の顔まで熱くなっていくのを感じた。
「馬鹿。変態」
レイはその言葉にびくりとし、視線を落としたあと、またほんの少しだけ顔を上げた。
「変態じゃない……紫苑の馬鹿……」
紫苑はその返答に呆れて、口を閉ざしてしまった。
そのとき、峰が低く静かな声で割って入った。
「反応は良好ですね」
紫苑が勢いよく顔を向け、睨みつける。
「あんた、言うことがそれだけかよ」
「精気儀式を執り行うために必要な前提条件を確認しただけです」
「はあ……人の心ってもんがないのか……」
その皮肉にも、峰は動じなかった。
「現在あなたの肉体に転移したあの子の力を安定させる唯一の方法が、この儀式です。その身体的反応は、相互の接続が正常に成立している証拠でもあります」
紫苑はそれを聞いて、さらに顔をしかめた。
「説明聞きたくない」
「聞いていただきます」
「聞かないと駄目なのか?」
「駄目です」
またその断固とした拒否だった。紫苑は今すぐベッドに顔を埋めて現実を否定したい気分だった。
そのとき、レイがか細く紫苑を呼んだ。
「紫苑」
紫苑は視線を逸らしたまま答えた。
「何だよ」
レイは少し躊躇した。
「……怖がらせて、ごめん」
紫苑の視線が、ゆっくりとそちらへ戻った。レイはまだ拘束されたままだった。近づきたくても近づけず、隠したくても隠せない状態。顔は赤く上気し、体は本能に従って反応している。それなのに、その中でなお紫苑のことを先に気遣う目をしていた。
ひどいことに、あんな顔を向けられると、最後まで怒りを押し通すのが難しかった。
「……知らねえ」
ようやく吐き出した言葉は、それだけだった。レイの瞳が、ごくわずかに揺れる。紫苑はすぐにぶっきらぼうに付け加えた。
「今は黙ってるのが、俺を助けることだから」
レイは素直に口を閉ざした。
けれど、その表情にほんの少し安堵の色が浮かんでいるように見えて、紫苑はますます妙な気分になった。
峰はその短いやり取りを黙って見守ってから、決められた順序を思い出させるように口を開いた。
「始めます」
その宣言に、紫苑は再び体を強張らせた。
部屋の中は低い明かりの下で淡く光っている。床の印は完成し、薄い水気のような空気がその上を漂っていた。呼吸するたび、肌の上に冷たい湿気が触れてはほどけていく。
紫苑は印の境界線の外で足を踏み出せずにいた。峰が彼を静かに見つめ、淡々と促した。
「どうぞ」
あまりにも日常的な口調で、かえって残酷に感じた。
紫苑は奥歯を噛みしめ、一歩を踏み出した。礼装の薄い裾が太腿をかすめる。一歩。そして、もう一歩。
印へ近づくほど、レイの顔色はさらに濃い紅潮に染まった。縛られた指先が細かく震え、尾もまた床をなぞるように不安げに揺れる。体の変化は少しも収まっていなかった。むしろ紫苑との距離が縮まるほど、さらに明確に存在を主張した。
紫苑はそれを必死に見ないようにしたが、どうしても視線が引き寄せられた。どうにかなりそうだった。印の前で立ち止まると、峰が簡潔に指示した。
「では、口づけから始めます」
紫苑はそのまま固まった。
「は、早すぎないか?」
「遅らせるほど、あなたとあの子の心理的動揺が増すだけです」
紫苑は途方に暮れた顔でレイを見た。レイは拘束されたまま、息だけを静かに整えている。紫苑と視線が絡むと、先ほどよりもさらに弱々しい声で囁いた。
「紫苑……嫌なら――」
文が終わる前に、紫苑が距離を詰めた。
自分でも理由ははっきりしなかった。これ以上聞いていたら本当に逃げ出したくなりそうだったからなのか、それともレイのあの表情をこれ以上見ていられなかったからなのか。
紫苑はレイの前に膝を折り、身を低くした。礼装の薄い布が太腿とふくらはぎを伝って滑らかに落ちる。レイは慌てて視線を落とし、また紫苑の顔へ焦点を戻した。唇が微かに震えている。
二人の距離は、吐息が触れるほど近かった。紫苑は、自分の呼吸がこれほど大きく聞こえるものなのだと初めて知った。
「……初めてなんだから、下手でもがっかりすんなよ……」
レイは顔を赤くしたまま、何も答えられなかった。ただ紫苑を不安そうに見上げるだけだった。
紫苑は一瞬のためらいのあと、結局目を閉じ、レイの唇に自分の唇を重ねた。
触れた瞬間、冷たさではなく、湿り気を含んだ熱のような感覚が伝わってきた。レイの呼吸が大きく揺れる。隠しきれない体の反応がさらに鮮明になり、拘束された体が本能的に紫苑へ傾こうとして、縄に阻まれて止まった。
紫苑は唇を重ねたまま、伝わってくる震えをそのまま感じ取った。その刹那、胸の奥の見知らぬ冷気が、大きな波のように広がっていく。レイと触れた場所から始まった冷たい電流が、全身へ波及した。たったそれだけの接触なのに、体の内側の部品が実際に噛み合って動き出すような感覚があった。
紫苑がごくわずかに身を離そうとした瞬間、彼はそのまま動きを止めた。
体が先に動いた。
これが本当に自分の意志なのか、それとも体の中に根を下ろした見知らぬ力に導かれた反応なのかさえ、判別できなかった。
そして次の瞬間、紫苑は自分の手でレイの片脚を掴み、ゆっくりと持ち上げていた。
レイの瞳が見開かれる。赤い眼差しには羞恥と切迫、そしてもう抑えきれない原初的な本能が同時に映っていた。
その瞬間、部屋の大気が大きく波打った。
精気儀式はそうして、もう引き返せない深淵の中へと滑り落ちていった。
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第十七話は、本日21時にムーンライトノベルズにて更新します。
第十八話は、来週水曜日18時に更新予定です。
よろしくお願いいたします。




