12話:逆さまの空の下で
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創造主の身勝手な夏 — 第十二話
逆さまの空の下で
封鎖された事務所の空気は、レイが降り立った瞬間から完全に塗り替えられていた。
宙に浮かぶ水滴は、至高の命令を待つ兵士のように静寂の中で整列し、長く伸びた蛍光灯の光の下で、影さえ息を潜めるように床へ沈んでいた。標本のように止まった人々。砕けた空。亀裂の入った現実。その崩れゆく世界の中心に、レイは立っていた。
そして紫苑は、血に濡れた壁にもたれたまま、どうにか息をしていた。
口元には鉄錆びた血が滲み、片腕は神経が切れたみたいに不自然に垂れている。脇腹、背中、脚。痛まない場所などなかった。今、自分の体がどれほど惨たらしく壊れているのかを推し量る余裕さえ、紫苑にはなかった。
「……レイ」
紫苑は血の匂いが混じった息を、ひとつひとつ吐き出した。
「龍王って、なんだよ」
レイはその問いに、一瞬だけ瞬きをした。
先ほどまで深海のように冷たく沈んでいた赤い瞳に、ごくわずかな戸惑いの波紋が走る。
「……わからない」
短く、はっきりした答えだった。
嘘とは思えない声だった。レイ自身、本当に知らなかった。どうしてあの男が自分の前に膝をつくのか。どうしてあれほど奇怪な眼差しで自分を仰ぎ見るのか。どうして自分の深い奥底で、こんなにも見知らぬ重い力が蠢いているのか。
けれど、ただひとつだけ明確なことがあった。
紫苑が傷ついている。
そして目の前の侵入者が、紫苑をここまで惨たらしく壊したということ。
レイは沈黙の中で歩を進めた。紫苑の状態をほんの一瞬だけ確認すると、そのまま身を翻し、彼の前に堅く立ちはだかる。計算しての動きではなかった。紫苑を守ろうとする本能が先に動いたのだ。長くしなやかな尾が紫苑の前を半ば覆い、防壁のように垂れた。
鎌を持つ者は、その献身的な動きさえ興味深そうに眺め、やがて静かに笑った。
「ああ」
その声は、ぞっとするほど優しかった。
「その人間を庇うのですね」
レイは答えなかった。
代わりに、相手が鎌を握り直した瞬間、宙に整列していた水滴が先んじて襲いかかった。透明な光の線となって飛び出した水流は、あるものは槍となり、あるものは鋭い糸となって、相手の急所を同時に狙った。
だが相手は正面から受けなかった。
鎌で破壊するのではなく、きわめて精密な角度で体を捻る。すると、定規で引いたように伸びていた水の軌道が、わずかに屈折した。矢は空を切り、水槍は背後の机を貫き、残りは宙で砕け散った。
レイの目が、一瞬だけ揺れた。
彼はすぐさま、床に薄く溜まっていた水膜を引き上げた。透明な壁がせり上がり、やがて巨大な捕食者の顎のように曲がって、その男を丸ごと呑み込もうとする。
相手は一歩も退かなかった。
鎌が静かに空をなぞる。壁全体を壊すような乱暴なやり方ではなかった。ただ力の凝集点だけを正確に削り取るような動きだった。
その瞬間、巨大な水の壁の中心に深い亀裂が入り、その線に沿って構造そのものが呆気なく崩壊した。弾けた水が四方へ散り、ひび割れたタイルの床へ力なく流れ落ちる。
紫苑は歯を食いしばった。
「レイ、下がれ――」
言い終わる前に、レイはすでに宙へ身を躍らせていた。高い軌道から降り注ぐ水は、先ほどよりずっと鋭い。数十本もの水流が矢の雨となって相手へ射出される。
だが今回も、鎌を持つ者は落ち着いていた。
鎌の曲線を使って水流の流れをしなやかに受け流し、腕を畳み、狭まった隙間を煙のようにすり抜ける。
そして次の瞬間。
目に見えない巨大な斥力が、空中を打ち抜いた。
レイの体が横へ折れた。翼膜の先が大きく揺れ、長い尾がむなしく空を切る。体勢を立て直そうとしたが、続けざまに放たれた二度目の衝撃で、レイはそのまま壁へ向かって弾き飛ばされた。
どんっ!
硬いコンクリートが割れる音が響く。
レイは床に落ちる寸前でどうにか姿勢を戻したが、着地は不安定だった。片膝が床につき、呼吸が目に見えて重くなる。
それでもレイは止まらず、また立ち上がった。
両手を振ると、大気中の湿気と床の水が一瞬で巨大な渦を形作る。今度は防御ではなく、完全な包囲だった。薄い水の帯が四方から縄のように侵入者を締め上げていく。ひと目には、完璧な捕縛に見えた。
その男は水の輪の中でも、悠然と微笑んでいた。
「綺麗な力ですね」
鎌が下から上へと振り上げられた。
水面が裏返るように、強固だった水の帯全体が一瞬で切り裂かれる。
レイの呼吸が、明らかに崩れた。
力の規模は圧倒的で、勢いも凶暴だった。だが、それだけだった。
いつ押し込み、いつ流すべきなのか。
相手が餌として差し出した隙が罠なのか、そうでないのか。
レイにはわからなかった。
彼は今、燃え上がる感情と原初的な本能だけで戦っていた。
相手は最初から、その未熟さを見抜いていた。
最初の数回は遊ぶように受け止め、次には軽くいなし、ついには根元から断ち切った。
レイが水気を集めようとするたび、流れが乱れた。皮膜が広がるタイミングを狙って鎌の先がその筋を抉り、尾で重心を取ろうとすれば、その地点の空間だけを捻じ曲げて均衡を壊す。レイが空へ跳び上がれば、わざと道を開いて誘い込み、距離が詰まる瞬間に膜の縁だけを掻き裂いた。
ざしゅっ!
レイの肩近くの外皮が長く裂けた。
普段は滑らかでしなやかで、濡れた硝子のように柔らかな肌だった。けれど鎌が触れた瞬間、表面の下で眠っていた細かな文様が閃きながら浮かび上がった。波紋のような外皮が一瞬で硬質化し、鉄鎧のように変わって衝撃を受け止めようとする。
だが、完全な防御はできなかった。
硬くなった外皮の上にも惨たらしい傷痕が残り、その隙間から赤い血が滲み出す。レイは奥歯を噛みしめ、再び水を引き上げた。今度は腹部を狙った、必死の反撃だった。
鎌を持つ者は、紙一枚の差でそれをかわした。
鎌の柄の端が、レイの脇腹を短く、重く打つ。
とん。
軽い接触音だった。
それなのに、レイの体は独楽のように捻じれた。打点が問題ではなかった。そこを軸に、全身の制御権が失われたのだ。宙に浮いていた体が無様に折れ、床へ転がり落ちる。
皮膜はあちこち裂けてぼろぼろになり、尾の先は日照りで乾いた地面のように割れていた。濡れた髪は顔に醜く張りつき、外皮は必死に硬質化と軟化を繰り返して生き延びようとしていたが、その上に広がる赤い傷を止めることはできなかった。
呼吸は最初よりずっと荒くなり、水を集める速度は明らかに鈍っていた。宙に浮いていた水滴は、何度も形を失って弾けた。
紫苑はその惨状を見て、歯を食いしばった。
レイはまだ満身創痍の体で前を守っていた。けれど勝負の天秤は、もう取り返しようのないほど傾いていた。
侵入者はそこでようやく、満足げに口元を吊り上げた。
「……なるほど」
鎌がゆっくりと下がる。
「ようやくわかりました」
レイは答える力さえ惜しむように、また飛びかかった。
だが今度は最初から読まれていた。相手はレイが動く直前にすでに避けており、鎌の平面で膜の筋を打って姿勢を完全に崩した。レイは床を滑り、埃の中へ押し流される。
片膝が、再び力なく折れた。
それで終わりではなかった。見えない凄まじい圧力が、レイの肩を押さえつけた。体を起こそうともがけばもがくほど、その圧はさらに深く食い込んでいく。床をついた指先が白くなるほど耐える姿は、目を開けて見ているのも辛いほど惨たらしかった。
鎌を持つ者は、そんなレイを見下ろし、痛いほど落ち着いた声で評した。
「思ったより、ずいぶん未完成ですね」
冷たい沈黙が落ちた。
そしてついに、ひどく柔らかな声で死刑宣告を下す。
「期待外れです」
紫苑の瞳が激しく揺れた。
レイはもう一度立ち上がろうとした。
けれど肉体は、もはや命令に従わなかった。皮膜は裂け、尾は鉛のように重く、水流はもう彼の指先に留まらない。外皮は苦しげに硬質化しては、力を失ったようにまた滑らかな肌へ戻っていく。その隙を縫うように、血が絶え間なく滲み出た。
侵入者は、すでに興味を失った顔をしていた。
「この程度なら、もう見る必要もありませんね」
鎌が再び振り上げられる。
「そろそろお連れしましょうか」
紫苑の心臓が崖の縁から落ちた。
回収する。連れていく。
その言葉の本当の意味はわからない。それでも、あの鎌が振り下ろされた瞬間、すべてが永遠に終わるという直感だけは鮮明だった。
レイは床に押さえつけられたままだった。
今の彼には、かすかな抵抗すらできない。
その刹那だった。
紫苑は、理性的な判断を挟む暇もなく身を投げ出した。
本当に、頭よりも体のほうが先に反応していた。駄目だと思った瞬間には、もうすべてが遅かった。自分が動いたという自覚すらないまま、紫苑はレイの前へ自分の体を割り込ませていた。
鎌が下りた。
肉体が直接斬られたわけではなかった。
しかし、現実の膜を裂くその凄まじい力の軌道に、紫苑という異物が入り込んだ。空間が深く裂け、弾けた余波が紫苑の体を容赦なく打ち据える。
どんっ!
紫苑の体は紙人形みたいに宙へ跳ね上がり、惨たらしい音を立てて床へ叩きつけられた。今度は悲鳴さえ出なかった。口からはどす黒い血がごぼりと溢れ、指先が一度痙攣するように震えたあと、力なく落ちた。
時間が止まったような静寂が流れた。
レイの瞳が、ゆっくりと、あまりにもゆっくりと見開かれていく。
「……紫苑?」
紫苑は答えなかった。
微動だにしなかった。鎌を持つ者でさえ、一瞬だけ言葉を失ったように見えたが、すぐにその口元へ薄い笑みを浮かべた。
「あ」
感嘆なのか、理解なのかわからない短い声だった。
「私は、竜の逆鱗に触れてしまったようですね」
彼はようやく、レイという巨大な存在を動かす核がどこにあるのか、どこを刺せばもっとも致命的な反応が返ってくるのかを確かめた。そして、その事実にぞっとするような悦びを覚えた。
紫苑が。
レイはふらつきながら体を起こした。
いや、起こそうとした。けれど意思よりも先に、手が紫苑へ伸びていた。血に濡れた紫苑の体を抱き寄せたとき、その体温は異常なほど熱かった。レイの指先がひどく震える。
「紫苑」
反応はなかった。
「紫苑」
今度は声が、さらに痛々しく裂けた。
紫苑の頭が力なく横へ傾く。目は閉じられたままで、呼吸はあまりにも浅く、生死の境目さえ曖昧なほどだった。
その瞬間、レイの内側で何かが、ぷつりと切れた。
焦りでも、不安でもなかった。
怒りさえ遥かに超えた、もっと古く、もっと始原的な何かが、水面の下から浮かび上がってくる。太古から封じられていた巨大な存在感が、もう抑え込まれることを拒んで爆発するようだった。
鎌を持つ者はその変化を目の当たりにし、歓喜に濡れて笑った。
「そう。その顔です」
レイは紫苑を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がった。
そして、世界が転倒した。
裂けた事務所も、伸びきった光の線も、亀裂の入った空も、一瞬で蒸発した。硝子板の向こうに描かれた絵のように揺らいだかと思うと、次の瞬間、粉々に砕け散って消えた。
次にそこにあったのは、まったく別の次元だった。
上も空だった。
下も空のように見えた。
果てしなく透明な水が床のように広がっていたが、その深さは想像もつかない。確かに水面の上にいるのに、体は沈まなかった。水面には雲と空が完璧なデカルコマニーのように映り込み、世界全体が逆さまにひっくり返されたかのような幻想的な風景だった。
砂漠の真ん中に隠された湖のように静かで眩しく、同時にぞっとするほど美しく、息苦しい世界。
その男は、生まれて初めて余裕の表情を失った。
「……これは」
ほんの刹那だったが、確かな動揺だった。
レイは紫苑を抱いたまま、ゆっくりと浮かび上がった。
つま先が水面から離れる。彼は空中に静止し、下を見下ろした。裂けた皮膜は長く垂れ、傷ついた外皮は神聖な光を帯び、赤い瞳は感情さえ凍りついた深海のように冷たく燃えていた。
紫苑はその腕の中で、亡骸のようにぐったりしていた。
レイは下を見下ろし、口を開いた。
「死ね」
たった一言だった。
冷たく、低く、一切の揺らぎのない宣告。
その言葉が落ちた瞬間、水面が開いた。
巨大な津波のように咆哮して立ち上がったのではなかった。
むしろあまりにも静かで、だからこそ恐ろしい威圧感があった。澄んだ水が下からゆっくりと割れ、原初の深淵を露わにする。果ての知れない無限の深さ。光さえ届かないほど遠く、静かで、空っぽな海の底。
侵入者の足元が崩れ落ちた。
「……あ」
彼はすぐさま抜け出そうともがいたが、もう遅かった。
水は彼に襲いかからなかった。ただ静かな水面が、生き物のように彼の足首を絡め取り、膝を越え、腰まで音もなく満ちていく。
水に触れた部分が濡れるのではなかった。
存在そのものが、消えていた。
輪郭が曖昧になる。紙の上にこぼれた水でインクが滲むように、その存在自体が洗い流され、消滅していく。
それでも彼は笑っていた。
恐怖ではなく、むしろさらに眩しく燃え上がるような表情で。畏敬と悦楽、我を忘れた感嘆が入り混じった、奇怪な微笑みだった。
「ああ……」
声が水底へ沈んでいく。
「やはり……貴方は、本当に……」
最後に残った唇が、ごくわずかに動いた。
そして彼は、完全に姿を消した。
水は再び、鏡のように静まり返った。
逆さまの空も、果てしない水面も、遥かな深淵も、すべて何事もなかったかのように澄んで輝いている。つい先ほどまで誰かがそこに実在していたことさえ信じがたいほどの静けさだった。
次の瞬間。
もう一度、世界が反転した。
レイと紫苑は、元の事務所に戻っていた。
裂けた空、標本のように止まった人々、伸びきった光。封鎖された現実はまだ亀裂を抱えたまま維持されていたが、先ほどの神秘的な深淵は跡形もなく消えていた。
レイはそのまま膝をつき、崩れ落ちた。
「紫苑」
今度の声は、惨たらしいほどに壊れていた。
少し前まで空中で裁きを下していた超越的な存在と同一人物だとは信じられないほど、レイはまた切羽詰まった幼い顔に戻っていた。紫苑を抱く手が、震える枝のように揺れる。
「紫苑……目を開けて……目を開けてよ……」
返事はなかった。
紫苑の呼吸は糸のように細く、今にも切れてしまいそうに危うい。口元には血が散り、体はひとつの人形のようにぐったりして、何の反応もなかった。
レイの目から、涙がぽたりと落ちた。
一滴。
そして、もう一滴。
彼はどうしていいかわからず、紫苑をさらに強く抱きしめては、また顔を近づけ、震える手で冷えはじめた頬を包みながら、ただ泣いた。
「紫苑……しっかりして……何か言って……お願い……」
周囲の水が、再び不安定に揺れはじめた。
レイの激しい感情に反応するように、封鎖された現実の境界面にまで波紋が広がっていく。先ほどとは違う性質の、危険で破壊的な揺らぎだった。
そのときだった。
光で縫い合わされていた現実の亀裂の一部が、静かに口を開いた。
派手に砕ける音ではなかった。
誰かが頑丈な縫い目を一本ずつ精密にほどいていくような、滑らかで優雅な開き方だった。
その隙間から、ひとりの男が歩いてきた。
長く垂れた衣の裾。
一寸の乱れもない落ち着いた歩み。
そして崩壊寸前のこの空間さえ、すでに予想の範囲内だったとでも言うような、静かな顔。
彼はまず、壊れた縫合線と残留する水気の痕跡を見た。
次に、レイを。
そして最後に、レイの腕の中で死の縁を彷徨う紫苑を見下ろした。
その表情が、ごくわずかに強張った。
だがすぐに、本来の静けさへ戻る。
慌てて駆けつけた者の顔ではなかった。
遅すぎもせず、早すぎもしない、正確な時機を待っていた観察者の目だった。彼はまるで、すべての展開がこう流れることを知っていたかのようだった。
レイは涙に濡れた顔で、ぼんやりと彼を見上げた。
男はしばらく沈黙し、その痛ましい光景を見つめていた。
そして、ひどく低く、独り言のように呟いた。
「……結局、こうなりましたか」
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