第9話 嘘が崩れる日
宰相ベッカートが評議会に出頭したのは、三日後だった。ヴァンゲルトへの追及だけでは動かなかった男を、この場まで引き出したのは、わたしが最後まで伏せていた一通の文書──父の遺体の再検査報告書と、宰相府の帳簿の控えだった。
白髪の老人。背筋は曲がらず、目は鋭い。権力を長く握ってきた人間特有の、揺るぎない佇まいだった。議場に入る足取りに、迷いはなかった。三十年間この宮廷を支配してきた男は、呼び出されてなお、この場を支配しようとしていた。
「わたしに何の用かね。財務官の妄言に振り回されるとは、評議会も落ちたものだ」
宰相は余裕を崩さなかった。声は低く、よく通り、議場のすべての席に届いた。
わたしは議場の端に座っていた。専門家の立場で同席を許されていた。宰相の目がわたしを捉えた。
「ヴェーゲ嬢。追放された令嬢が、ずいぶん出世したものだな」
「出世ではありません。事実を報告しているだけです」
「事実か。面白い。では聞こう。あなたの言う『事実』とは、追放への逆恨みではないのかね。父を亡くした娘が、復讐心に駆られて宮廷を混乱させている──そう見る者もいる」
宰相の言葉は巧みだった。わたしの動機を疑わせることで、証拠の信憑性を下げようとしている。感情的な人間の告発は、信用されない。それを知っている。
わたしは立ち上がった。背筋を伸ばした。追放の日、広間を出たときと同じように。
「わたしの動機は問題ではありません。物証が語る事実を、ご確認ください。物証には動機がありません。物証は、ただ事実を示すだけです」
そして、最後の証拠を提示した。
父の覚書。ヴァンゲルトの私信。それだけではない。
「これは、クラインベルク商会の帳簿の写しです。商会側の記録と、宮廷の支出記録を照合すると、差額が発生しています。仕入れ価格として宮廷が支払った額と、商会が実際に仕入れた額のあいだに、三割以上の乖離がある。この差額は、宰相府の裏金として処理されている可能性があります」
この帳簿の写しは、ハインツが商会の元従業員から入手したものだった。クラインベルク商会を辞めた倉庫番の老人が、不正に気づいて控えを持ち出していた。良心が、沈黙に耐えられなかったのだ。ハインツは酒場でその老人と出会い、信頼を得て、記録を預かった。
「さらに──」
わたしは深呼吸した。ここからが、最も重要な部分だった。議場の全員の目がわたしに向いている。ハインツが廊下で待っている。ダーレンが議場の隅にいる。
「先月に亡くなった父、ヴェーゲ公爵の遺体を、宮廷医師団に再検査していただきました。ダーレン・グリム補佐官の協力で、正式な手続きを経ています」
議場が凍りついた。
「再検査の結果、父の体内からヘレボリンの残留成分が検出されました。これは、ヘレボルス・ニゲルに含まれる心臓毒です。通常の病死では検出されない成分です。つまり──病死ではなく、毒殺の可能性が極めて高い」
宰相の表情が、初めて変わった。
しかし、それは恐怖ではなかった。怒りだった。激しい、むき出しの怒り。三十年間、冷静に権力を行使してきた男の仮面が、初めて割れた。
「下らん。わたしが公爵を殺したと言いたいのか。証拠はどこにある。毒を飲ませたという直接の証拠が──」
「直接の証拠は、ヴァンゲルト財務官の証言です」
議場の扉が開いた。護衛に連れられたヴァンゲルトが入ってきた。顔は憔悴しきっていた。三日間の監視下で、ずっと黙秘を通してきた男だ。柔和な笑顔は完全に消え、目の下に深い隈があった。
「ヴァンゲルト。何を喋った」
宰相の声が、初めて揺れた。怒りではなく、恐怖で。
「……三日間、あなたを守るために黙っていた。だが、公爵の遺体からヘレボリンが出たと聞かされた。あの毒を扱えるのは、薬草園の中でもごく一部の人間だけだ。もう、わたし一人の罪では通らない。……あなたの指示で、わたしが公爵の食事にヘレボルスの根の粉末を混ぜた。宮廷薬草園の目立たぬ区画で、前々から育てていたあの株を」
「黙れ!」
宰相が叫んだ。議場が静まった。その叫びが、何よりも雄弁な自白だった。
冷静な人間が叫ぶとき、そこには必ず隠したい真実がある。否定する余裕があれば、叫ぶ必要はない。叫びは、論理が破綻した証拠だ。
議長が宣言した。
「宰相ベッカートを、証拠の調査が完了するまで、職務停止とする。身柄は宮廷警護隊に委ねる」
宰相は護衛に囲まれながら、わたしを睨んだ。三十年の権力が崩れる瞬間の目。憎悪と、そして──理解できないという困惑。薬草園で泥にまみれていた令嬢が、なぜ自分を倒せるのか。理解できないのだ。
「後悔するぞ、小娘が」
「後悔するのは、あなたです。父を殺して、わたしを追い出して、薬草園を汚して──それで得たものは何でしたか。金は手に入ったでしょう。けれど、今あなたの周りに、味方は一人もいない」
宰相は答えなかった。連れ出されていく背中を、わたしは見送った。その背中は、初めて小さく見えた。
◇
議場を出ると、王太子アルベルトが廊下に立っていた。
わたしは足を止めた。二人きりだった。護衛は少し離れた場所にいる。
「……イルザ」
「アルベルト殿下」
「わたしは──お前を追放したことを──」
「謝罪は結構です」
声が鋭くなったのは、自分でもわかった。けれど、抑えられなかった。この人の前でだけは、感情の蓋が緩む。かつて婚約者だった人間への、最後の甘え。
「殿下。あなたはヴァンゲルトの言いなりになって、わたしを追放した。理由を確かめもせず、証拠を検証もせず。五人の証言が揃っているから、と。それがどういうことか、おわかりですか。あなたが確かめなかったから、わたしは追放され、父は死んだ」
アルベルトは俯いた。長い睫毛が影を落としていた。かつて、その横顔を美しいと思ったことがある。今は何も感じなかった。
「……すまなかった」
「すまなかった、で済む話ではありません。でも──今さら恨んでも仕方がない。恨みは、わたしの手を汚すだけだから」
わたしは深く息を吐いた。
「殿下に一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「薬草園を、元に戻してください。きちんと知識のある人間に管理させてください。辺境にも、きちんと薬が届くようにしてください。民の命に関わることです」
アルベルトは頷いた。
「必ず、そうする」
それだけ言って、王太子は去っていった。
わたしはその背中を見送りながら、もうこの人に対して何の感情も持っていないことに気づいた。
怒りも、悲しみも、恋心の残滓すら、もうない。ただ、遠い場所にいる人だ。同じ空間にいても、もう交わることのない線。
ハインツが角を曲がってきた。
「王太子と話していたのか」
「終わった話よ」
「そうか」
ハインツは何も聞かなかった。ただ、わたしの隣に立った。
その距離の近さが、何よりも安心だった。
窓の外では、王都の街並みが夕陽に染まっていた。長い一日だった。でも、終わりが見えてきた。
あと少し。もう少しだけ。
そう思ったとき、ダーレンが廊下の向こうから歩いてきた。いつもの無表情──のはずだった。けれど、目元が少し和らいでいた。初めて見る表情だった。
「ヴェーゲ嬢。評議会から正式な通達がある」
「何ですか」
「あなたの追放令は、本日付で撤回された。名誉は回復される。公爵家の爵位も、正式にあなたに継承される」
わたしの足が止まった。
名誉の回復。追放の撤回。爵位の継承。それは、つまり──。
「わたしは、もう悪役令嬢ではない……?」
「最初から悪役令嬢ではなかっただろう」
ダーレンの声が、ほんの少しだけ、温かかった。




