表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢が消えた  作者: 渚月(なづき)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

第10話 誰にも奪わせない

宰相ベッカートの罷免と、ヴァンゲルトの裁判は、わたしが王都を発つ前に正式に決定した。


 ベッカートは宰相の職を解かれ、爵位を剥奪され、宮廷から永久に追放された。ヴァンゲルトは横領と殺人幇助の罪で投獄された。あの柔和な笑顔の男は、最後まで笑顔を崩さなかった。けれど、その笑顔にはもう何の力もなかった。


 クラインベルク商会は解散。横領された金の一部は回収され、辺境の薬草供給体制の再建に充てられることになった。リンツァーの薬屋の主人の顔が、少しだけ明るくなるだろう。


 宮廷薬局は再編され、薬草園の管理は新たに専門家チームに委ねられることになった。わたしが十年かけて築いた品質管理の仕組みが、ようやく正しく評価された。仕入れ先はクラインベルク商会の一本化を解除し、複数の農家からの直接仕入れに戻される。


 わたしに求められた役割は、その移行期間の監修だった。


 ダーレンは窃盗の罪について自ら出頭した。評議会は情状を考慮し、職務停止三ヶ月の処分にとどめた。妹の安全も確保された。宰相府の侍女から、宮廷図書館の司書に異動した。安全な場所だ。


「軽い処分だな」


 ハインツが言った。不満ではなく、事実を確認する口調だった。


「証拠がなければ動けなかった。ダーレンがいなければ、今頃わたしは──まだ辺境で石を拾っているか、あるいは、ナターシャと同じ運命を辿っていたかもしれない」


「わかってる。あの男のおかげだ。ただ──それとこれとは別だろう。あの男はあんたの追放を止めなかった」


「許すかどうかは、もう少し時間をかけて考えるわ。許しは、決断ではなく過程だと思うから」


 ハインツは鼻を鳴らした。不満というよりは、呆れたような音だった。


「あんたは本当に、律儀だな」


「律儀ではないわ。ただ、感情で決めたくないだけ。感情は正直だけれど、正確ではないから」



 薬草園の再建には、一ヶ月ほどかかった。


 汚染された区画の土を入れ替え、毒草をすべて除去し、新しい薬草を植え直す。わたしは毎日薬草園に通い、土に触れ、水をやり、若い薬師たちに管理方法を教えた。


 植物の世話をしながら、知識を伝える。それが、わたしにできる最も大切なことだった。


「コンフリーは傷薬に使えるけれど、根の過剰摂取は肝臓を壊す。薬草は常に、薬と毒の両面を持っている。それを忘れないでください。使い方を間違えれば命を奪い、正しく使えば命を救う。それは薬草だけでなく、知識そのものについても言えることよ」


 若い薬師たちは真剣に聞いていた。ノートを取り、質問をし、実際に手を動かして確かめる。その姿を見ると、胸が温かくなった。知識は伝えるためにある。閉じ込めておけば腐る。流れれば、根を張る。


「それから、紫キャベツの煮汁で土壌検査ができることも覚えておいて。専用の試薬がなくても、アントシアニンの色の変化で酸性かアルカリ性かがわかる。辺境でも、どこでも、材料さえあれば」


 若い薬師の一人が目を輝かせた。


「それは便利ですね。辺境の村にも教えたい」


「ぜひ教えてあげて。知識は、届けなければ意味がないから」


 ある午後、薬草園の隅で、月見草の芽が出ているのを見つけた。


 わたしが王宮から消えた日に枯れた、あの月見草。


 新しい芽は小さくて、柔らかくて、風が吹けば折れてしまいそうだった。けれど、確かに土から顔を出していた。淡い緑。命の色。


「……お帰り」


 誰にともなく呟いた。膝をついて、芽に顔を近づけた。土の匂いがした。王宮の土の匂い。わたしが十年、毎日触れてきた土。


 ハインツが隣に立っていた。いつの間にか来ていた。


「それは何だ」


「月見草。わたしが追放されたときに枯れた花よ。芽が出てる」


「ふうん」


 ハインツは月見草の芽を見つめた。剣士の目で、小さな芽を見つめていた。そして、ぽつりと言った。


「帰る場所が増えたな」


「帰る場所?」


「リンツァーの畑と、ここと。あんたには帰る場所が二つある」


 その言葉の意味を、わたしは少し考えた。


「……あなたには、あるの? 帰る場所」


「なかった。旅の剣士に帰る場所はない。戦場を渡り歩いて、一つの場所に留まったことがない」


「なかった、って、過去形?」


 ハインツは黙った。わたしも黙った。月見草の芽に、風が吹いた。小さな芽が揺れた。でも、折れなかった。


「……石拾いが、まだ終わってないだろう」


 ハインツの声は小さかった。いつもの低い声よりも、さらに小さい。


「あの畑、まだ半分しか耕してない。途中で王都に来てしまったから」


「ええ。そうね。あの荒れ地は、まだまだ石だらけよ」


「だから──戻ったら、続きをやる。それでいいか」


 わたしは微笑んだ。


「それでいいわ」


 ハインツの手が、わたしの手に触れた。指先だけ。ほんの少しだけ。土のついた指と、剣だこのある指が。


 わたしはその手を、握り返した。


 それが、わたしたちの答えだった。大仰な言葉はいらない。「好き」も「愛してる」も必要ない。石を拾い、土を耕し、薬草を育てる。その隣に、この人がいる。それだけで十分だ。



 王宮を発つ日、ダーレンが見送りに来た。灰色の長衣はいつもと同じだったが、表情が違っていた。硬さが、少しだけ解けている。


「ヴェーゲ嬢──いや、イルザ」


「何ですか」


「公爵の墓に、花を供えておいた。月見草だ。あなたが育てた苗から、分けてもらった」


 わたしの胸が熱くなった。父の墓に、月見草。父が生前、わたしの薬草園を見に来たとき、月見草を綺麗だと言ってくれたことがある。あの人が唯一、わたしの仕事を認めてくれた瞬間だった。


「……ありがとう。ダーレン」


「礼には及ばない。これはわたしの──贖罪だ。赦されるためではなく、正しいことをするために」


「ダーレン」


「何だ」


「……月見草は、父がいちばん気に入っていた花よ。あなたが選んでくれて、よかった」


 ダーレンの目が、僅かに見開かれた。そして、初めて──本当に初めて、微かに笑った。


「それで十分だ」


 ダーレンは一礼して、宮廷の中に戻っていった。灰色の長衣の背中が、廊下の奥に消えていく。


 馬車に乗り込むと、ハインツがすでに座っていた。荷物を膝に抱えて、窓の外を見ている。


「早いわね」


「先に乗っておかないと、あんたが一人で行きそうだからな」


「一人では行かないわ。もう」


 ハインツが、ほんの少しだけ笑った。目元の傷跡が歪んだ。


 馬車が動き出した。王都の門をくぐり、街道に出る。街並みが遠ざかり、田園が広がる。空は高く、雲は白い。


 わたしは窓の外を見ながら考えた。


 悪役令嬢イルザ・ヴェーゲは、もういない。


 追放された公爵令嬢も、もういない。


 いるのは、ただの薬師。土に触れ、薬草を育て、人の役に立つ知識を持つ女。名誉は回復されたけれど、わたしが本当に取り戻したかったのは名誉ではない。自分の手で自分の場所を作る権利。それだけだ。


 それが、わたし。


 馬車の中で、植物図鑑を開いた。革の表紙。黄ばんだ頁。ナターシャの花。父の手紙。すべてが挟まっている。この図鑑は、わたしの旅の記録になった。


 すべてが、わたしの物語だ。


 ハインツの肩が、わたしの肩に触れていた。馬車が揺れるたびに。温かい体温。確かな重み。


 わたしはそのぬくもりを、黙って受け取った。


 リンツァーまで、馬車で五日。


 あの荒れ地で、月見草の種を蒔こう。リンツァーの土でも、きっと咲く。


 わたしの名前は、イルザ・ヴェーゲ。


 もう、誰にも奪わせない──わたしの、名前だ。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

もし、少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ