第10話 誰にも奪わせない
宰相ベッカートの罷免と、ヴァンゲルトの裁判は、わたしが王都を発つ前に正式に決定した。
ベッカートは宰相の職を解かれ、爵位を剥奪され、宮廷から永久に追放された。ヴァンゲルトは横領と殺人幇助の罪で投獄された。あの柔和な笑顔の男は、最後まで笑顔を崩さなかった。けれど、その笑顔にはもう何の力もなかった。
クラインベルク商会は解散。横領された金の一部は回収され、辺境の薬草供給体制の再建に充てられることになった。リンツァーの薬屋の主人の顔が、少しだけ明るくなるだろう。
宮廷薬局は再編され、薬草園の管理は新たに専門家チームに委ねられることになった。わたしが十年かけて築いた品質管理の仕組みが、ようやく正しく評価された。仕入れ先はクラインベルク商会の一本化を解除し、複数の農家からの直接仕入れに戻される。
わたしに求められた役割は、その移行期間の監修だった。
ダーレンは窃盗の罪について自ら出頭した。評議会は情状を考慮し、職務停止三ヶ月の処分にとどめた。妹の安全も確保された。宰相府の侍女から、宮廷図書館の司書に異動した。安全な場所だ。
「軽い処分だな」
ハインツが言った。不満ではなく、事実を確認する口調だった。
「証拠がなければ動けなかった。ダーレンがいなければ、今頃わたしは──まだ辺境で石を拾っているか、あるいは、ナターシャと同じ運命を辿っていたかもしれない」
「わかってる。あの男のおかげだ。ただ──それとこれとは別だろう。あの男はあんたの追放を止めなかった」
「許すかどうかは、もう少し時間をかけて考えるわ。許しは、決断ではなく過程だと思うから」
ハインツは鼻を鳴らした。不満というよりは、呆れたような音だった。
「あんたは本当に、律儀だな」
「律儀ではないわ。ただ、感情で決めたくないだけ。感情は正直だけれど、正確ではないから」
◇
薬草園の再建には、一ヶ月ほどかかった。
汚染された区画の土を入れ替え、毒草をすべて除去し、新しい薬草を植え直す。わたしは毎日薬草園に通い、土に触れ、水をやり、若い薬師たちに管理方法を教えた。
植物の世話をしながら、知識を伝える。それが、わたしにできる最も大切なことだった。
「コンフリーは傷薬に使えるけれど、根の過剰摂取は肝臓を壊す。薬草は常に、薬と毒の両面を持っている。それを忘れないでください。使い方を間違えれば命を奪い、正しく使えば命を救う。それは薬草だけでなく、知識そのものについても言えることよ」
若い薬師たちは真剣に聞いていた。ノートを取り、質問をし、実際に手を動かして確かめる。その姿を見ると、胸が温かくなった。知識は伝えるためにある。閉じ込めておけば腐る。流れれば、根を張る。
「それから、紫キャベツの煮汁で土壌検査ができることも覚えておいて。専用の試薬がなくても、アントシアニンの色の変化で酸性かアルカリ性かがわかる。辺境でも、どこでも、材料さえあれば」
若い薬師の一人が目を輝かせた。
「それは便利ですね。辺境の村にも教えたい」
「ぜひ教えてあげて。知識は、届けなければ意味がないから」
ある午後、薬草園の隅で、月見草の芽が出ているのを見つけた。
わたしが王宮から消えた日に枯れた、あの月見草。
新しい芽は小さくて、柔らかくて、風が吹けば折れてしまいそうだった。けれど、確かに土から顔を出していた。淡い緑。命の色。
「……お帰り」
誰にともなく呟いた。膝をついて、芽に顔を近づけた。土の匂いがした。王宮の土の匂い。わたしが十年、毎日触れてきた土。
ハインツが隣に立っていた。いつの間にか来ていた。
「それは何だ」
「月見草。わたしが追放されたときに枯れた花よ。芽が出てる」
「ふうん」
ハインツは月見草の芽を見つめた。剣士の目で、小さな芽を見つめていた。そして、ぽつりと言った。
「帰る場所が増えたな」
「帰る場所?」
「リンツァーの畑と、ここと。あんたには帰る場所が二つある」
その言葉の意味を、わたしは少し考えた。
「……あなたには、あるの? 帰る場所」
「なかった。旅の剣士に帰る場所はない。戦場を渡り歩いて、一つの場所に留まったことがない」
「なかった、って、過去形?」
ハインツは黙った。わたしも黙った。月見草の芽に、風が吹いた。小さな芽が揺れた。でも、折れなかった。
「……石拾いが、まだ終わってないだろう」
ハインツの声は小さかった。いつもの低い声よりも、さらに小さい。
「あの畑、まだ半分しか耕してない。途中で王都に来てしまったから」
「ええ。そうね。あの荒れ地は、まだまだ石だらけよ」
「だから──戻ったら、続きをやる。それでいいか」
わたしは微笑んだ。
「それでいいわ」
ハインツの手が、わたしの手に触れた。指先だけ。ほんの少しだけ。土のついた指と、剣だこのある指が。
わたしはその手を、握り返した。
それが、わたしたちの答えだった。大仰な言葉はいらない。「好き」も「愛してる」も必要ない。石を拾い、土を耕し、薬草を育てる。その隣に、この人がいる。それだけで十分だ。
◇
王宮を発つ日、ダーレンが見送りに来た。灰色の長衣はいつもと同じだったが、表情が違っていた。硬さが、少しだけ解けている。
「ヴェーゲ嬢──いや、イルザ」
「何ですか」
「公爵の墓に、花を供えておいた。月見草だ。あなたが育てた苗から、分けてもらった」
わたしの胸が熱くなった。父の墓に、月見草。父が生前、わたしの薬草園を見に来たとき、月見草を綺麗だと言ってくれたことがある。あの人が唯一、わたしの仕事を認めてくれた瞬間だった。
「……ありがとう。ダーレン」
「礼には及ばない。これはわたしの──贖罪だ。赦されるためではなく、正しいことをするために」
「ダーレン」
「何だ」
「……月見草は、父がいちばん気に入っていた花よ。あなたが選んでくれて、よかった」
ダーレンの目が、僅かに見開かれた。そして、初めて──本当に初めて、微かに笑った。
「それで十分だ」
ダーレンは一礼して、宮廷の中に戻っていった。灰色の長衣の背中が、廊下の奥に消えていく。
馬車に乗り込むと、ハインツがすでに座っていた。荷物を膝に抱えて、窓の外を見ている。
「早いわね」
「先に乗っておかないと、あんたが一人で行きそうだからな」
「一人では行かないわ。もう」
ハインツが、ほんの少しだけ笑った。目元の傷跡が歪んだ。
馬車が動き出した。王都の門をくぐり、街道に出る。街並みが遠ざかり、田園が広がる。空は高く、雲は白い。
わたしは窓の外を見ながら考えた。
悪役令嬢イルザ・ヴェーゲは、もういない。
追放された公爵令嬢も、もういない。
いるのは、ただの薬師。土に触れ、薬草を育て、人の役に立つ知識を持つ女。名誉は回復されたけれど、わたしが本当に取り戻したかったのは名誉ではない。自分の手で自分の場所を作る権利。それだけだ。
それが、わたし。
馬車の中で、植物図鑑を開いた。革の表紙。黄ばんだ頁。ナターシャの花。父の手紙。すべてが挟まっている。この図鑑は、わたしの旅の記録になった。
すべてが、わたしの物語だ。
ハインツの肩が、わたしの肩に触れていた。馬車が揺れるたびに。温かい体温。確かな重み。
わたしはそのぬくもりを、黙って受け取った。
リンツァーまで、馬車で五日。
あの荒れ地で、月見草の種を蒔こう。リンツァーの土でも、きっと咲く。
わたしの名前は、イルザ・ヴェーゲ。
もう、誰にも奪わせない──わたしの、名前だ。
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