第7話 王宮に届いた標本
わたしは一つの決断をした。
集めた証拠を、匿名ではなく、自分の名前で提出する。宮廷評議会に。
「匿名では弱い。誰が書いたかわからない告発文は、握り潰されやすい。わたしの名前と、薬草の専門家としての見解を添えれば、無視できなくなる」
「だが、名前を出せばヴァンゲルトに狙われる」
「もう狙われているわ。ナターシャのことで。なら、先に動いたほうがいい。沈黙は安全ではなく、ゆっくりとした敗北だから」
わたしは報告書を作成した。三日間、宿に籠もって。ハインツが食事を運んでくれた。わたしは書いた。書き続けた。
薬草園の植え替え記録の改竄──インクの酸化度の違いによる証明。調合記録の品質検査欠如──日付と空白欄の一覧。クラインベルク商会の杜撰な品質管理──品種の誤認事例と保管不備の具体的記述。そしてヘレボルス・ニゲルの標本──毒性成分と使用歴の学術的な解説。
報告書は、感情を排した文体で書いた。怒りも悲しみも、一文字も入れなかった。事実だけを、順序立てて。それが最も強い武器になると知っていたから。
すべてを一つの書類にまとめ、ダーレンを通じて宮廷評議会の議長に提出した。
「議長のモーリッツ卿は公正な人物だ。少なくとも、ヴァンゲルト派ではない。宰相とは距離を置いている」
ダーレンの言葉を信じた。信じるしかなかった。
報告書の提出から二日後、宮廷が動いた。
評議会は薬草園の緊急調査を命じた。わたしは専門家として立ち会いを求められた──正式に、宮廷の名のもとに。追放された悪役令嬢が、専門家として招聘される。
「追放された悪役令嬢が、専門家として宮廷に呼ばれる。皮肉な話だな」
ハインツが言った。わたしは苦く笑った。
「皮肉でも何でも、使えるものは使うわ。わたしには肩書きも後ろ盾もないけれど、知識がある。知識だけは、誰にも追放できない」
◇
薬草園の調査は、予想通りの結果だった。
わたしが指摘した区画──第七区画の奥、以前セージが植わっていた場所──から、ヘレボルス・ニゲルが発見された。根まで掘り起こすと、他の薬草とは明らかに異なる根系が現れた。ヘレボルスの根は黒く、太く、独特の匂いがある。
植え替え記録の改竄も、インクの分析によって確認された。評議会が招いた書物鑑定人が、わたしの指摘を裏付けた。古いインクと新しいインクの酸化度の差は明白だった。
評議会の場で、わたしは淡々と報告した。
「第七区画で発見された現在の株は、わたしが追放された後に植え直されたものです。ただし、ヘレボルス自体は以前から王宮のどこかで密かに栽培されていた可能性が高い。根の太さと株の成熟度から、数年単位で育てられた母株が別の場所に存在していたと推定できます。記録の改竄は、インクの酸化度から判定すると、数ヶ月前に行われています。わたしが在籍していた時期ではありません」
議場が騒めいた。議員たちの視線がわたしに集まった。好奇、疑念、そして──僅かな敬意。
「また、薬草の仕入れ先がクラインベルク商会に一本化された時期と、品質検査が省略され始めた時期が一致しています。この商会の薬草には、品種の誤認──カモミールとマトリカリアの取り違え──や保管不備が確認されました。これらは偶然の重なりとは考えにくい」
ヴァンゲルトの顔を見た。笑顔は消えていた。代わりに、額に薄い汗が浮いている。けれど、姿勢は崩さない。この男は簡単には崩れない。
「それは──言いがかりだ。クラインベルク商会は正規の取引先で──」
「ヴァンゲルト様。わたしの報告は、事実と物証に基づいています。言いがかりではありません。言いがかりには証拠がない。わたしには、ある」
ヴァンゲルトの目が、一瞬、鋭くなった。柔和な仮面の下にあった本当の顔が、ちらりと見えた。冷たい目だった。計算する目だった。
しかし、すぐに表情を戻した。
「これは何かの誤解です。わたしも薬草園の管理には心を砕いてきました。毒草の件は、不審者の仕業かもしれません。調査はもちろん歓迎しますよ」
巧みだった。否定ではなく、共感を装い、責任を外部に転嫁する。敵は簡単には崩れない。
けれど、わたしには次の手があった。
「もう一点、報告があります」
議場が静まった。
「先月に亡くなった公爵──わたしの父、ヴェーゲ公爵の書斎から、覚書が見つかりました。クラインベルク商会の予算水増しについて調査していた形跡があります。父は生前、この不正に気づいていた」
ヴァンゲルトの喉が、一瞬、上下した。笑顔の仮面が、僅かにずれる。けれど、この男はまだ崩れない。
「公爵の死因は病死と発表されていますが、父は薬草と毒物に関する知識がありました。わたしに薬草を教えてくれた人です。自身の体調の急変に気づかないはずがない。再調査を求めます」
議員たちが、互いに顔を見合わせた。先刻とは質の違う沈黙。「病死」という公式の発表に、初めて疑問符が打たれた瞬間だった。
ヴァンゲルトが立ち上がった。椅子が鳴った。
「荒唐無稽だ。追放された悪役令嬢が、宮廷の重臣を誹謗している。これは名誉毀損だ──」
「ヴァンゲルト財務官」
声をかけたのは、ダーレンだった。いつもの無表情。いつもの冷たい声。けれど、その声には、初めて力があった。
「報告は事実確認に基づいている。感情的な反論は、この場にふさわしくない。反証があるのなら、物証で示されたい」
ヴァンゲルトはダーレンを睨んだ。裏切り者を見る目だった。ダーレンは視線を受け流した。氷のように。
議長が手を上げた。
「本件は、評議会として正式に調査を開始する。ヴァンゲルト財務官には、クラインベルク商会との関係について書面での説明を求める。ヴェーゲ嬢には、引き続き専門家としての協力を依頼する」
会議は終わった。
廊下に出ると、ハインツが壁に背を預けて待っていた。腕を組み、窓からの光を浴びて。
「どうだった」
「第一歩は踏めた。でも、まだ終わりじゃない。ヴァンゲルトは否認した。書面で巧妙な弁明を出してくるだろう」
「ああ。追い詰められた獣は危ない」
その言葉が予言だったかのように、その夜、事件が起きた。
宮廷の薬草園の管理人──ヴァンゲルトが据えた管理人が、薬草園の小屋の中で倒れているのが発見された。
死因は──ヘレボルスの中毒。
わたしたちが調査で掘り起こしたヘレボルスの根が、管理人の手に握られていた。知識がないから、素手で扱ったのだ。ヘレボルスの毒は皮膚からも吸収される。大量に触れれば、それだけで致死量に達し得る。
偶然の事故ではありえない。管理人が自ら毒草の根を掘り返す理由はない。調査後に証拠を隠滅しようとして──あるいは、誰かに命じられて根を処分しようとして、毒に倒れたのか。それとも──口封じか。
「二人目だ」
ハインツの声は低かった。
「ナターシャ。そして今度は管理人。ヴァンゲルトは、証人を消し始めている」
わたしは拳を握った。
「……急がなければ。次に消されるのは、わたしかもしれない」
ハインツがわたしの手に、自分の手を重ねた。
「消させない。俺がいる」
その手は、剣で硬くなった手だった。温かくて、確かで、離すつもりのない手だった。
わたしは頷いた。泣かなかった。泣く暇はない。
窓の外で、王都の灯りが瞬いていた。その灯りの中に、追い詰められた男がいる。
あの男は、次にどんな手を打ってくるかわからない。
でも、わたしもまた、止まるつもりはなかった。




