第5話 裏切りの手紙
宮廷薬局の調合記録は、想像以上にずさんだった。
記録簿を一頁ずつ確認していく。わたしがいた頃は、すべての調合に日時、担当者名、使用した薬草の種類と量、そして完成した薬の品質検査結果を記載していた。検査は五段階。色、匂い、粘度、沈殿物の有無、そして実際に少量を舌に乗せて味を確認する。地味だが、これを怠れば命に関わる。
今の記録には、品質検査の欄がほとんど空白だった。
「検査を省いている……」
つまり、何が混ざっていても気づかない体制になっている。いや、気づかない体制に「されている」のだ。
わたしは記録簿の数頁を丁寧に書き写した。証拠になる。日付と空白の検査欄、そして担当者の署名。書き写す手は冷静だったけれど、胸の奥では怒りが静かに燃えていた。
午後になって、薬局を出ようとしたとき、廊下で人影とぶつかりそうになった。
「おっと──失礼」
若い男だった。宰相府の紋章が入った制服。柔和な笑顔。人当たりのよさそうな顔立ち。整った身なりで、靴の先まで磨かれている。宮廷で好かれる人間の典型的な風貌だ。
「あなたが辺境からいらした薬師の方ですか。お噂は聞いています。ペーター・ヴァンゲルトです」
ヴァンゲルト。
心臓が跳ねた。けれど、顔には出さなかった。十年の宮廷生活は、感情を顔に出さない訓練でもあった。
「イルザです。お初にお目にかかります」
「いやあ、辺境から薬草を持ってきてくださるとは。助かりますよ。最近、薬局の運営がなかなかうまくいかなくて。専門の方が減ってしまって」
にこやかだった。あまりにもにこやかだった。
(この人が、ナターシャを脅し、わたしを追放させ、毒草を植えた人間?)
信じがたい。けれど、ハインツが言っていた。複数人で口裏を合わせた嘘は、妙に整合性が取れている──そして、それを取りまとめる人間は、たいてい感じがいい。信頼を集められなければ、共犯者は動かない。
「ヴァンゲルト様は、薬草の調達も管理されているとか」
「ええ、まあ。専門外なんですけどね。前任の方が──ああ、これは失礼。前任の方がいなくなってしまったので、引き継いだんです。大変ですよ、本当に。予算の管理だけでも手一杯で」
前任。つまり、わたしのことだ。「いなくなった」という言い方が引っかかった。追放された、ではなく、いなくなった。まるで自然にいなくなったかのような口ぶり。
「大変ですね」
「ええ、本当に。薬草の知識がある方が宮廷に戻ってくださるなら、これほどありがたいことはない」
笑顔のまま、ヴァンゲルトはわたしの肩に軽く手を置いた。親しみを込めた動作に見えるが、わたしにはそれが──領域の確認に感じた。どこまで近づけるか。どこまでわたしが油断するか。
「何かお困りのことがあれば、いつでも相談してください。わたしは味方ですから」
その言葉を聞いたとき、背筋に冷たいものが走った。
味方だと名乗る人間を、わたしはもう簡単には信じない。ナターシャは裏切った。王太子は嘘をついた。この男の「味方」という言葉には、どれほどの嘘が含まれているのだろう。
◇
宿に戻り、ハインツに報告した。
「ヴァンゲルトは若い。三十前後だと思う。愛想がよくて、腰が低い。宮廷での評判は悪くないんでしょうね。立ち居振る舞いに隙がない。計算された親しみやすさだった」
「裏があるほど、表は綺麗にする。基本だな。戦場でも同じだ。最も危険な陣地ほど、旗は美しく飾られる」
「ええ。でも、まだ確証がない。感触だけでは証拠にならない」
わたしは書き写した調合記録をテーブルに広げた。
「これを見て。品質検査が省かれている記録と、薬草の仕入れ先が変わった時期が一致している。クラインベルク商会からの仕入れが始まった月から、検査欄が空白になっている」
「偶然か?」
「偶然にしては出来すぎている。でも、これだけでは不正の証拠にはならない。怠慢で検査を省いた、という言い訳が通ってしまう。意図的な隠蔽だと示すには、もう一段の証拠が要る」
ハインツは腕を組んだ。
「何が必要だ?」
「直接の繋がり。ヴァンゲルトとクラインベルク商会の利害関係を示す文書。あるいは、毒草を植えるよう指示した証拠。金の流れを示すもの」
「文書か。宰相府に忍び込むのは得策じゃないな」
「忍び込む必要はないかもしれない」
わたしは、ある人物のことを考えていた。ダーレン・グリム。宰相補佐官。あの男は「好きにしたまえ」と言った。
「グリム補佐官に会いたい」
「あの氷の補佐官に? あんたを追放する場にいた男だろう」
「あの人は、わたしの出入りを黙認した。妨害もしなかった。それには理由があるはず。黙認は、ときに最も勇気のいる行動よ。声を上げれば目立つ。黙認は、自分の立場を危険に晒さずに援護する方法」
翌日、わたしは宮廷の庭園でダーレンを見つけた。一人で歩いている。いつもの灰色の長衣。いつもの無表情。周囲に人はいなかった。
「グリム補佐官」
「ヴェーゲ嬢。まだ王都にいたのか」
「少しお時間をいただけませんか」
ダーレンは立ち止まった。庭園のベンチに、誰に勧められるでもなく座った。わたしもその隣に──少し距離を置いて──座った。
「薬局の調合記録を確認しました。品質検査がほぼ行われていません」
「知っている」
「知っているのに、放置しているのですか」
「わたしの管轄ではない」
冷たい言葉だった。けれど、わたしは諦めなかった。この人が本当に無関心なら、わざわざわたしに声をかけたりしない。
「では、なぜわたしの出入りを黙認したのですか。管轄外なら、追い出すこともできたはず。むしろ、追い出したほうが面倒が少ないでしょう」
ダーレンは前を向いたまま、長い沈黙の後、言った。
「……あなたの父君の公爵に頼まれた」
「父に?」
「追放が決まる前に、公爵がわたしのもとを訪ねてきた。『娘を頼む』と。わたしはそのとき、何も約束しなかった。約束する立場にもなかった。だが──」
ダーレンの指が、膝の上で僅かに動いた。唯一の感情の表出だった。
「公爵は先月亡くなった」
わたしの呼吸が止まった。
「……嘘」
「嘘は言わない。病死と発表されたが、わたしはそうは思っていない。公爵は六十を過ぎていたが、体は丈夫だった。持病もなかった。急な衰弱で倒れ、一週間で亡くなった」
視界が揺れた。父が。先月に。わたしが辺境にいるあいだに。知らせは届かなかった。弔いにも立ち会えなかった。
「なぜ──なぜ知らせてくれなかったの」
「……知らせる手段がなかった。追放された令嬢のもとに、宮廷が公式の使者を送ることはない。わたしが個人的に動こうとしたときには、すでに葬儀が終わっていた」
ナターシャは知っていたのだろうか。けれど、ナターシャはもういない。
わたしの手が震えた。握りしめた。爪が掌に食い込んだ。痛い。でも、その痛みが必要だった。
「父は──何に気づいていたの」
「薬草園の利権問題だろう。公爵は宮廷の経理にも目を通す人だった。クラインベルク商会への発注額が不自然に膨らんでいることに、気づいたのかもしれない」
父はわたしを守ろうとしていた。そして、そのために──。
「証拠はあるのですか。父の死が、自然なものではないという」
「ない。だからわたしは動けなかった。補佐官の立場では、証拠のない告発はできない。告発して退けられれば、二度と声を上げられなくなる」
ダーレンは立ち上がった。
「だが──あなたが戻ってきたことで、状況が変わった。証拠を集められる人間が、ようやく現れた」
その言葉の意味を、わたしは理解した。
この人は、敵ではなかった。動けなかっただけだ。証拠がなくて、味方がいなくて、立場に縛られて。孤立していたのだ。宮廷の中で、たった一人で。
「……ダーレン」
名前で呼んだのは初めてだった。ダーレンが僅かに目を見開いた。
「わたしが証拠を集めます。あなたは、表で時間を稼いでください」
ダーレンは何も言わずに頷いた。そして、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。
「これを。公爵の書斎から見つけたものだ。あなたに渡すべきだと思っていた」
紙を開いた。父の筆跡だった。見慣れた、少し右に傾いた文字。
『クラインベルク商会──ヴァンゲルト──予算の水増し──証拠は薬草園の植え替え記録にある』
父は知っていた。すべてを。
わたしは紙を胸に押し当てた。父の筆跡が、布越しに体温を伝えてくるような気がした。
ダーレンが去った後、ハインツがベンチの影から出てきた。
「聞いてたの?」
「見張っていただけだ。だが──あの男は信用できると思う」
「わたしも、そう思う」
父の手紙を図鑑に挟んだ。ナターシャの花の横に。
証拠が一つ、また一つ、積み上がっていく。
王宮の嘘の壁に、小さな亀裂が入り始めていた。




