第4話 冷たい眼差しの裏側
王都に向かう馬車の中で、わたしは計画を練っていた。
ただ戻るだけでは意味がない。追放された人間が王宮に入るには、正当な理由が必要だ。感情で動けば、つけ入る隙を与える。
「辺境の薬師として、宮廷薬局に薬草を納入する」
「それで入れるのか?」
「辺境からの薬草納入は、慣習として認められている制度よ。宮廷薬局が民間からの仕入れを受け付けている以上、申請すれば門前払いにはできない。少なくとも、建前上は」
ハインツは感心したように眉を上げた。
「制度を使って正面から入る、か」
「裏口から入れば、追い出す理由を与えてしまう。正面から、堂々と。制度は盾にもなるのよ。それに、正面から来られることほど、相手にとって厄介なものはない。追い返す名分がないから」
馬車の窓から見える風景が変わっていく。田園地帯の柔らかな緑から、次第に建物が増え、街道が整備されていく。すれ違う馬車も増えた。商人の荷馬車、貴族の紋章入りの馬車。王都が近づいている。空気が変わるのを感じた。甘い腐敗のような匂い──ではないのだけれど、そう感じてしまう。
五日間の旅路のあいだ、ハインツはほとんど喋らなかった。けれど、馬車が揺れるたびに窓の外を注意深く見ていた。追手を警戒しているのだ。ナターシャが殺されたことを考えれば、わたしたちも狙われている可能性がある。
ハインツの横顔を見た。傷跡のある目元。真剣な眼差し。この人はわたしのために命を懸けようとしている。その理由が、まだわからない。
◇
王都の宮廷薬局は、わたしが知っている場所とは別物になっていた。
薬草の保管棚は乱雑で、ラベルが剥がれた瓶が並んでいる。調合室には埃が積もり、乾燥棚の温度管理は完全に崩壊していた。乾燥中のカモミールに黒カビが生えている。この状態の薬草を使えば、薬効が失われるどころか、かえって体を害する。
「ひどい……」
思わず声が漏れた。十年かけて整えた環境が、数ヶ月で廃墟のようになっている。
応対に出た薬局の事務官は、わたしの顔を見て一瞬固まった。わたしが誰か、気づいたのだろう。唇が震え、視線が泳いだ。けれど、辺境の薬師としての書類は正式なものだ。拒否する法的根拠がない。
「……薬草の品質検査をさせていただきます。納入の前に、現在の在庫状況を確認したいので」
「そ、それは管理者の許可が──」
「納入業者が納入先の品質を確認するのは、当然の権利です。宮廷薬局規定の第十二条に明記されています。納入品の品質を保証するため、納入先の保管環境を事前に確認できる、と」
事務官は何も言い返せなかった。わたしは十年間、この薬局で働いていた。規定は隅から隅まで頭に入っている。文言の一字一句まで。
棚の薬草を一つずつ確認していった。変色しているもの、虫食いのあるもの、明らかに有効期限を過ぎたもの。ペパーミントの葉は茶色くなり、精油が完全に揮発している。薬効の要であるメントールが失われた葉は、ただの枯れ葉と変わらない。ラベンダーの花穂は粉々に砕け、異物が混入している。わたしはそれらをすべて記録した。品名、状態、保管場所、推定劣化期間。一つひとつ、丁寧に。
「何をしている」
声がした。振り返ると、灰色の長衣を着た痩身の男が立っていた。鋭い目。薄い唇。表情のない顔。廊下に立つその姿は影のように静かだった。
宰相補佐官、ダーレン・グリム。
わたしは知っている。この男は宮廷で「氷の補佐官」と呼ばれていた。感情を見せず、誰にも味方しない。宮廷のどの派閥にも属さず、ただ書類を処理し、規定を守り、沈黙している。わたしが追放されたとき、この男は広間の隅で無表情に立っていた。助けも、止めもしなかった。
「辺境からの薬草納入の手続きです。グリム補佐官」
「ヴェーゲ嬢か。追放された身で、よく戻ってきたものだ」
「追放はされましたが、商取引を禁じられたわけではありません」
ダーレンの目が細くなった。値踏みするような視線。わたしの言葉を、表情を、立ち姿を、すべて計っている。
「……宰相府は、あなたの出入りを歓迎しない」
「宰相府の歓迎は求めていません。わたしが求めているのは、規定に基づいた正当な手続きだけです」
一瞬、ダーレンの唇の端が動いた。笑ったのか、それとも何か別の表情だったのか。あまりにも微かで、見間違いかもしれない。
「好きにしたまえ」
それだけ言って、ダーレンは去っていった。その背中を見ながら、わたしは考えていた。
(この人は──何を考えている?)
敵か、味方か。わからない。ただ、「好きにしたまえ」という言葉は、妨害ではなかった。黙認だ。敵であれば、妨害する。無関心であれば、そもそも声をかけない。わざわざ来て、黙認を告げた。
黙認には理由がある。
その夜、宿に戻ると、ハインツが街で聞き込みをした結果を教えてくれた。ハインツは旅の剣士として、酒場で自然に情報を集めることができた。怪しまれない立場だ。
「ヴァンゲルト。宰相府の財務官だ。宰相の右腕と呼ばれている。若くして財務官に登りつめた切れ者で、宮廷の薬草調達の予算を管理しているらしい」
「薬草調達の予算?」
「ああ。で、面白い話がある。去年から、薬草の仕入れ先が急に変わったそうだ。以前は複数の農家から直接仕入れていたのが、今は一つの商会に一本化されている」
「一つの商会に?」
「クラインベルク商会。ヴァンゲルトの義兄が経営している。血縁者だ」
わたしの中で、パズルのピースが嵌まりはじめた。
薬草の仕入れ先を一本化する。品質管理のできる人間を追い出す。知識のない管理者を据える。そうすれば、品質の低い──あるいは危険な薬草を納入しても、誰も気づかない。そして、仕入れ価格を水増しすれば、差額が懐に入る。
「利権か」
「たぶんな。だが、ただの利権だけじゃない気がする」
「どういう意味?」
「毒草を植えるのは、金儲けの範囲を超えている。横領なら品質の低い薬草で十分だ。わざわざ毒草を植える必要はない。つまり──誰かを殺そうとしている」
ハインツの言葉に、わたしは頷いた。
ナターシャが最後に残した名前。ヴァンゲルト。この男が黒幕なのか、それとも、その先にまだ誰かがいるのか。
「明日、もう一度薬局に入る。今度は調合室の記録を調べたい」
「一人で?」
「一人のほうが目立たない。あなたは外で見張っていて」
ハインツは不服そうだったが、頷いた。
「何かあったら、すぐに呼べ」
「呼ぶわ」
わたしは薬草図鑑を開いた。ヘレボルス・ニゲルの頁に、ナターシャが持ってきた花の押し花を挟んである。花弁はすでに色褪せている。けれど、証拠としての力はまだ生きている。
(ナターシャ。あなたの名前は、わたしが晴らす)
指先で花弁に触れた。
植物は嘘をつかない。どこで育ち、何を吸い上げ、いつ枯れたか──すべてが花弁と根に記録されている。人間は嘘をつく。でも、植物が語る言葉は、書き換えられない。
窓の外では、王都の夜景が灯っていた。あの光の中に、嘘をついている人間がいる。
わたしは図鑑を閉じた。
明日から、静かな戦いが始まる。




