第3話 毒花の証言
ナターシャの目は赤かった。泣いた後のような腫れぼったさ。けれど、その奥にある感情は涙だけではなかった。恐怖と、それから──覚悟。
「中に入って」
わたしは宿の部屋にナターシャを通した。ハインツは自室に戻っている。二人きりだった。部屋の窓から、午後の光が差し込んでいた。
「あの手紙を書いたのは、あなたね」
ナターシャが息を呑んだ。
「……なぜ、おわかりに」
「封蝋の火傷跡。最近できたものでしょう。あなたは普段、封蝋を使う立場にはない。侍女の書簡は通常、折り畳んで紐で結ぶだけ。封蝋を使うのは、正式な文書か、あるいは差出人を隠したい内密の手紙を送るときだけ」
ナターシャは唇を噛んだ。それから、ゆっくりと頷いた。
「はい。わたしが書きました」
「なぜ?」
「……イルザ様の追放の後、薬草園の管理が新しい担当者に代わりました。ですが、その方は薬草の知識がほとんどない。植え替えの時期を間違え、配合を誤り、保管庫の温度管理すらできていません。乾燥棚の薬草に虫がわいていても、気づかないのです」
やはり、とわたしは思った。薬草園の管理は専門知識なしにはできない。植物は声を上げない。変化は静かに、しかし確実に進行する。
「それだけ?」
ナターシャは黙った。長い沈黙。窓の外で荷馬車が通る音がした。日常の音だった。けれど、この部屋の空気は凍りついている。
ナターシャが絞り出すように言った。
「……イルザ様。わたしは──あなたを裏切りました」
部屋の空気が変わった。
「追放の前に、宰相府の役人に呼ばれました。あなたが令嬢たちに意地悪をしていたと、書面で陳述させられました。証言台には立っていません。ただ、表に出た五人の証言を裏付けるための、内々の補強証拠として提出されたのです。嘘です。全部嘘でした。あなたが令嬢たちに丁寧に接していたことは、わたしが一番よく知っていた」
わたしの息が止まった。
知っていた。薄々、気づいていた。あの追放の夜、五人の証言者の名前を聞いたとき、ナターシャの名前がなかったことに安堵した。けれど同時に、なぜ彼女だけ名前がないのかが不自然だった。表に出ない証言者。裏で口裏を合わせる役。
でも、本人の口から聞くのは──やはり、痛かった。
「なぜ」
「脅されたのです。わたしの弟が、宰相府に借金をしていて。弟は宮廷の下働きで、給金は安い。生活のために借りた金が膨れ上がって。証言しなければ弟を牢に入れると。わたしには、他に選択肢が──」
「選択肢はあったわ」
声が冷たくなったのは、自分でもわかった。
「わたしに、相談するという選択肢が」
ナターシャの目から、涙がこぼれた。
わたしは窓の方を向いた。涙を見ていられなかったのではない。自分の顔を見られたくなかった。怒りと悲しみと、それでもどこかで理解してしまう自分への苛立ちが、きっと顔に出ている。
許すかどうかは、今は決められない。
「……それで。わざわざここまで来たのは、懺悔だけが目的ではないでしょう」
ナターシャは涙を拭いた。震える手で、外套の内側から包みを取り出した。
「これを──お渡ししなければと思い」
包みの中身は、乾燥した花だった。紫がかった黒い花弁。独特の甘い匂い。わたしはすぐにそれが何かわかった。
「……トリカブト?」
「いいえ。似ていますが、違います。わたしは薬草園で、これが新しく植えられているのを見つけました。担当者が植えたのではありません。夜中にこっそり、誰かが。第七区画の奥──以前セージが植わっていた場所です」
わたしは花を手に取り、光に翳した。花弁の形状、葉の付き方、茎の毛の生え方──。花弁は五枚で、萼片が花弁状に変化している。根生葉は掌状に深く裂けている。
「これはヘレボルス・ニゲル。クリスマスローズとも呼ばれるけれど、全草に毒がある。特に根に含まれるヘレボリンとプロトアネモニンは、心臓に作用する強心配糖体に近い毒性を持つ。中世ヨーロッパでは、水源や食事に混ぜて暗殺に使われた記録がある。十六世紀の毒薬事件の多くに、この植物が関わっていたと言われているわ」
「暗殺──」
「薬草園に植えれば、他の薬草に紛れてわからない。特にセージの区画は、葉の形状が遠目に似ている。知識のない管理者なら、気づかずに収穫して薬の材料に混ぜてしまう可能性がある」
ナターシャの顔が蒼白になった。
「つまり──」
「誰かが、宮廷薬に毒を混入させようとしている」
部屋が静まり返った。外から子供たちの遊ぶ声が聞こえてきた。あまりにも日常的な音。この部屋の中の異常さと、あまりにも対照的だった。
◇
翌日、わたしはハインツにすべてを話した。宿の食堂で、他に客のいない時間を選んで。
「毒を混ぜた薬が宮廷に出回れば、大勢が病む。最悪の場合、死人が出る」
「その毒草を植えた人物の心当たりは?」
「今の段階では、推測しかできない。でも──薬草園に夜中に入れる人間は限られている。管理者か、宰相府の人間か、あるいは……」
わたしは言葉を切った。
「あるいは?」
「わたしの追放を仕組んだ人間。知識のない管理者をわざと据えたのだとしたら、毒の混入は最初から計画されていた可能性がある」
ハインツの表情が変わった。傭兵の顔だ。戦場で敵の配置を読むときの、冷静で鋭い目。
「つまり、あんたの追放は、薬草園を乗っ取るための前段階だった」
「そう考えると、辻褄が合う。でも、証拠はまだ足りない。推測だけでは動けないわ」
わたしは乾燥した花を丁寧に紙に包んだ。これは証拠だ。大切に保管しなければ。湿気で変質すれば、成分分析ができなくなる。
その午後、ナターシャが倒れた。
宿の階段の下で、意識を失っているのを宿の女主人が見つけた。唇が紫色に変わり、脈が弱く、速くなっていた。瞳孔が散大し、呼吸が浅い。
「ナターシャ!」
わたしは駆け寄り、脈を確かめた。口元に微かな甘い匂い──ヘレボルスに似た匂いだった。
「……毒を盛られた」
ハインツが階段を降りてきた。
「何があった」
「誰かがナターシャに毒を飲ませた。おそらく食事か飲み物に。彼女がわたしに接触したことが、すでに知られていたのだと思う。王都から辺境まで、誰かが追ってきた」
わたしは必死に解毒を試みた。持っていた薬草で催吐剤を作り、飲ませようとした。けれど、ナターシャの喉はもう動かなかった。毒が回りすぎている。手が間に合わない。
「イルザ……様……」
ナターシャの唇が微かに動いた。声はほとんど聞こえなかった。耳を近づけた。
「……ヴァン、ゲルト……宰相府……の……」
それが、ナターシャの最後の言葉だった。
わたしは動けなかった。膝の上で冷たくなっていくナターシャの手を、握ったまま。手のひらに、封蝋の火傷跡が触れていた。
裏切った人間だった。でも、最後にここまで来てくれた人間でもあった。命を懸けて、証拠を持ってきてくれた人間でもあった。
涙は出なかった。代わりに、腹の底に冷たい炎が灯るのを感じた。
(ヴァンゲルト。宰相府)
ナターシャが命と引き換えに残した名前。わたしはそれを、決して忘れない。
ハインツが、わたしの肩にそっと手を置いた。何も言わなかった。ただ、その手の重みだけが、わたしを現実に繋ぎ止めていた。
窓の外で、風が吹いていた。リンツァーの空は曇っていた。
わたしは静かに立ち上がった。膝が震えていた。でも、倒れはしなかった。
「ハインツ」
「ああ」
「わたし、王宮に戻るわ」
ハインツは驚かなかった。ただ、静かに頷いた。
「一人では行かせない」
その言葉を、わたしは黙って受け取った。
ナターシャの遺体を、わたしたちは街の教会に預けた。小さな花を添えて。名前も知らない辺境の教会で、裏切りと償いを背負った侍女は眠りについた。
──そして、わたしの手の中には、ナターシャが持ってきた毒花の標本と、ひとつの名前が残った。




