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悪役令嬢が消えた  作者: 渚月(なづき)


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第2話 辺境の薬師と旅の剣士

ハインツの傷は、思ったよりも深かった。


 宿の一室で包帯を解くと、上腕に走る裂傷が露わになった。刃物によるものだ。しかも、数日は放置されている。傷口の周囲が赤く腫れ、熱を持っていた。このまま放っておけば、壊疽になる可能性がある。


「いつ怪我を?」


「三日前だ。山道で追剥に遭った」


「三日も放っておいたの?」


「薬師がいなかった。この辺りには」


 呆れた。けれど、追剥と聞いて少しだけ安心もした。自分から喧嘩を売る類の人間ではないらしい。傷の入り方を見ても、防御の姿勢で受けたものだ。攻撃的な人間の傷ではない。


 わたしは荷物から薬草の乾燥品を取り出した。王宮を出るとき、僅かに持ち出したものだ。セイヨウノコギリソウ──止血と抗炎症に使われる薬草。古代ギリシャの英雄アキレスがトロイア戦争で兵士の傷に用いたという伝説から、学名を「アキレア」と名づけられた。戦場の衛生兵が何百年も携帯してきた、もっとも信頼される薬草のひとつだ。


「少し沁みます。我慢して」


「……おう」


 煎じた液で傷口を洗い、粉末にした薬草を練って塗布する。ハインツは顔をしかめたが、声は上げなかった。痛みに慣れている体の反応だった。


「手慣れてるな」


「薬草園で十年、薬を作っていましたから」


「十年? 随分若く見えるが」


「十二の頃から、です。母が病弱で、少しでも楽にしたくて薬草を学び始めたの。そのうち、王宮の薬草園を任されるようになった」


 ハインツは黙った。それ以上は聞かなかった。


 その沈黙が、ありがたかった。王宮では誰もが詮索した。公爵令嬢がなぜ泥にまみれて薬草を育てるのか、と。なぜ舞踏会より薬草園を選ぶのか、と。ここでは誰もそれを問わない。


 包帯を巻き直しながら、わたしはハインツの手を観察していた。剣だこが厚い。けれど、指先は器用に動く。荒事だけの人間ではないな、と思った。



 数日が過ぎた。ハインツの傷は順調に塞がりつつあった。


 彼は宿を出ることなく、わたしの空き地の整備を手伝い始めた。礼だと言った。


「石を拾うくらいなら片手でもできる」


 実際、片手でも驚くほど手際がよかった。石を分類し、大きなものは土留めに使い、小さなものは排水溝の底に敷いた。石の大きさと形を見て、瞬時にどこに置くべきか判断している。農作業の経験があるのかと聞くと、首を横に振った。


「戦場で陣地を作るのに似てる。地形を読んで、水の流れを制御する。高い場所から低い場所へ水は流れる。石で誘導すれば、畑に必要な分だけ水を通せる」


 なるほど、と思った。この人は、ものの見方が少し変わっている。すべてを「地形」として読む目を持っている。


 わたしが土壌の酸度を確かめるために、紫キャベツの煮汁を使って即席の試験液を作ったとき、ハインツは興味深そうに覗き込んだ。


「何をしている?」


「土の性質を調べています。紫キャベツに含まれるアントシアニンという色素は、酸性なら赤く、アルカリ性なら青く変わるの。この原理は古くから知られていて、専用の試薬がなくても土壌の状態がわかる。薬草によって好む土壌が違うから、まず土を知ることが大事なのよ」


「……科学者みたいだな」


「薬草を育てるのは、科学ですから」


 試験液は薄い赤紫に変わった。やや酸性。石灰を混ぜて中和する必要がある。辺境の土壌は火山性の岩が多いから、酸性に傾きやすいのだろう。


 ハインツはしばらくそれを眺めていた。


「あんた、ただの薬師じゃないだろう」


「ただの薬師ですよ。今は」


 「今は」。その言葉に、ハインツは何かを感じ取ったようだった。けれど、やはり深くは聞かなかった。この人は、踏み込まない。それが礼儀なのか、それとも自分も踏み込まれたくないからなのか。


 その夜、宿の食堂で夕食を取っていると、街の薬屋の主人が訪ねてきた。五十がらみの、日に焼けた顔の男だった。


「あんたが最近越してきた薬師かい。ちょうどいい。うちの薬の在庫が底をついてるんだ。王都からの仕入れが止まってる」


「止まっている?」


「ああ。もう一月になる。宮廷薬局が品質管理で揉めてるとかで、民間への卸しが滞ってるらしい。以前はこんなことなかったんだが」


 わたしの胸が、どくんと鳴った。


 宮廷薬局の品質管理。それは、わたしが担っていた仕事の一部だった。薬草の品質検査、配合の確認、保管環境の整備──地味で、目立たなくて、誰からも感謝されない仕事。書類は山のように積み上がり、検査は一つひとつ手作業で、匂いと色と手触りですべてを判断する。機械のようだと笑われたこともある。


 でも、それが止まれば、薬の質は確実に落ちる。


(やっぱり、そうなっている)


 あの匿名の手紙は、嘘ではなかった。


「困ってるんだよ、本当に。風邪薬すらまともに入ってこない。子供が熱を出しても、冷やすことしかできない。去年の冬には、薬がなくて老人が一人亡くなった。辺境だからって、見捨てられてる気がするよ」


 薬屋の主人の顔は疲れていた。ここは辺境だ。王都の混乱がそのまま、命に関わる。王宮の権力争いの余波が、こんな小さな街の子供や老人に届いている。


「……わたしに作れるものなら、お分けしますよ」


「本当かい! 助かる。どんな薬でもいい。熱冷ましと、傷薬と、腹痛の薬があれば」


「全部作れます。材料さえ揃えば」


 薬屋の主人が去った後、ハインツがぽつりと言った。


「王宮で何があった?」


「……聞いてたの」


「聞こえた。あんたが宮廷薬局の仕事をしていたのは、表情でわかった。薬の話になると、目の色が変わる」


 わたしは黙った。テーブルの上の水差しを見つめた。水面に、食堂の灯りが揺れていた。


「追放されたの。婚約者の王太子に。悪役令嬢だと言われて」


「悪役令嬢?」


「わたしが令嬢たちをいじめていた、と。事実無根よ。でも、証言者が何人もいた。五人。全員が同じ内容を証言した。仕組まれていたのだと思う」


 声は震えなかった。もう何度も反芻した言葉だから。


 ハインツは腕を組み、天井を見上げた。


「証言者が何人もいた、か。それは厄介だな」


「厄介?」


「嘘の証言を揃えるには、組織が要る。つまり、あんたを追い出したい人間が複数いて、しかも連携している。一人の嘘は粗い。細部に矛盾が出る。だが、複数人で口裏を合わせた嘘は、妙に整合性が取れている。日時も場所も一致する。逆にそれが不自然なんだ。本物の目撃証言は、必ずどこかが食い違う。人間の記憶はそういうものだから」


 ──複数人で口裏を合わせた嘘は、妙に整合性が取れている。


 その言葉が、頭の中で何かと繋がった。


 追放の前日、侍女のナターシャが妙に優しかった。いつもは素っ気ない彼女が、お茶を淹れてくれた。髪を梳いてくれた。窓辺の花を替えてくれた。


(あれは──別れの挨拶だったのか?)


 いや、まだわからない。証拠がない。感情で判断してはいけない。


 わたしは深く息を吐いた。


「……ハインツ」


「何だ」


「もう少し、ここにいてくれる?」


 ハインツは少し驚いた顔をした。それから、視線を逸らして、静かに頷いた。


「傷が治るまではいるつもりだった。だが──まあ、石拾いの続きもあるしな」


 不器用な答えだった。でも、それが嘘ではないことは、わかった。この人は嘘をつくのが下手だ。


 その夜、わたしはもう一度、匿名の手紙を読み返した。


『あなたの知識が必要です』


 必要とされること。それが嬉しいのか、悲しいのか、わたしにはまだわからなかった。


 ただ、ひとつだけ決めた。


 真実を知りたい。わたしが追放された本当の理由を。誰が仕組んだのか。何のために。


 窓の外で、風が唸っていた。リンツァーの夜は暗い。でも、星だけは驚くほど多い。王宮の夜空からは見えなかった細かな星が、ここでは降るように輝いている。


 遠くの山並みの向こうに、王都がある。あの広間で、今も誰かが嘘をついている。


 わたしは手紙を丁寧に折りたたみ、図鑑のあいだに挟んだ。


 翌日、街の外れの道で、一台の馬車が止まった。馬車から降りてきたのは、宮廷の紋章が入った外套を着た女だった。


 ──ナターシャ。わたしの元・侍女。


「イルザ様。お久しぶりです」


 その目には涙が浮かんでいた。


 けれど、わたしの視線はその手に向いていた。ナターシャの右手には、小さな傷跡がある。封蝋を溶かすときについた火傷。最近できたもの。赤みがまだ残っている。


 ──あの匿名の手紙を書いたのは、この人だ。


 わたしの心臓が、静かに、強く打った。



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