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悪役令嬢が消えた  作者: 渚月(なづき)


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第1話 月見草が枯れる

わたしが王宮から消えた日、薬草園の月見草が枯れた。


 それを知ったのは、追放されてから七日後のことだった。


 馬車に揺られ、荷物ひとつで辺境の街リンツァーに着いたとき、わたしの手にはまだ土の匂いが残っていた。爪の間に入り込んだ黒土。それだけが、王宮にいた証拠だった。


 イルザ・ヴェーゲ。それがわたしの名前。


 公爵家の令嬢で、王太子アルベルトの婚約者で、王宮薬草園の管理責任者──だった。そのすべてが、ひと晩で消えた。


「悪役令嬢イルザ・ヴェーゲを、本日をもって王宮から追放する」


 王太子の声は、広間に響いた。冷たくて、平坦で、まるで天気の報告でもするような調子だった。


 わたしは何も言わなかった。言えなかったのではない。言う意味がなかった。


 広間に並んだ貴族たちの顔を見た。目を逸らす者。薄く笑う者。涙ぐむふりをする者。誰一人、わたしの目を見なかった。


(……ああ、これは決まっていたことなのだ)


 準備された追放。演出された断罪。わたしはそう理解した。


 だから、背筋を伸ばしたまま広間を出た。一度も振り返らなかった。足音だけが、長い廊下に響いた。靴の底が石の床を叩く音。それだけがわたしの味方だった。


 広間の扉が閉まる音が、背後で響いた。重い木の扉。あの音は、わたしの十年間が閉じる音でもあった。


 侍女のナターシャが、廊下の端で待っていた。目が赤い。泣いていたのだろうか。けれど、わたしに渡されたのは涙ではなく、小さな革の鞄だった。


「最低限のものだけ、入れておきました」


「ありがとう」


 それだけだった。わたしたちの最後の会話は、それだけだった。ナターシャの手が震えていたことに、わたしはあのとき気づかなかった。あるいは──気づかないふりをしていた。



 リンツァーは、王都から馬車で五日ほどの小さな街だ。


 石畳の道は苔むして、建物は低い。市場には干し肉と岩塩と、申し訳程度の野菜が並んでいる。王宮とは何もかもが違った。壁は漆喰が剥がれ、屋根の瓦は欠けている。けれど、窓辺には花が飾ってあった。質素だが、暮らしの匂いがする街だった。


 けれど、空気が澄んでいた。胸の奥まで届くような、冷たくて清い空気。王宮の空気は常にどこか重かった。香水と陰口と、目に見えない思惑が混じった空気。ここには、それがない。


 わたしは宿の一室で荷を解きながら、持ってきた植物図鑑を開いた。革の表紙は擦り切れて、頁の端は黄ばんでいる。王宮の書庫で見つけた、百年前の薬草図鑑だ。著者は宮廷薬師だった人物で、この地方に自生するすべての薬草を、自らの手で描き、分類し、薬効と毒性を記録している。


 これだけは、持ち出すことを許された。いや、正確には──誰もこの本の価値を知らなかったから、止める者がいなかった。


(月見草が枯れた、か)


 窓の外を見た。曇り空に、鳥が一羽、飛んでいく。


 月見草は繊細な植物だ。土壌の酸度、水やりの間隔、周囲に植える相性のよい草花──すべてを管理しなければ、あっという間に萎れてしまう。特に根の周囲にはカモミールを植えて害虫を遠ざけ、朝と夕の二度だけ水をやる。多すぎても少なすぎても駄目だ。


 わたしがいなくなった薬草園で、それを知っている人間が何人いるだろう。


「……知ったことではないわ」


 声に出してみた。自分を納得させるように。


 でも、指先が震えていた。


 植物図鑑の頁を繰る手が止まったのは、「コンフリー」の項だった。別名ヒレハリソウ。骨折や打撲に用いる薬草で、古くは十字軍の時代から戦場で重宝された。ただし、根や若葉に含まれるピロリジジンアルカロイドという成分は、過剰に摂取すると肝臓の静脈を塞ぎ、深刻な障害を引き起こす。薬にも毒にもなる──そういう植物がこの世にはたくさんある。


(人も、同じかもしれない)


 宿の階下から、食事の支度をする音が聞こえてきた。鍋の蓋が鳴る音。誰かの笑い声。生活の音だ。王宮にはなかった種類の音。あの場所にあったのは、衣擦れと、囁きと、靴音だけだった。


 翌日、わたしは街の外れにある空き地を借りた。雑草だらけの、石ころだらけの土地。地主の老人は怪訝な顔をしていた。


「こんな荒れ地を借りてどうするんだね、お嬢さん」


「薬草を育てます」


「薬草? ここの土じゃあ、まともに育たんよ。石ばかりで、水はけも悪い」


「土は作れます。時間はかかりますけれど」


 老人は首を傾げたまま、契約書に署名した。家賃は安かった。こんな土地に金を払う人間がいるとは思わなかったのだろう。わたしは翌日から、毎日その土地に通い、石を拾い、土を耕し、堆肥を混ぜた。


 手は荒れた。腰は痛んだ。爪は割れた。公爵令嬢の手ではなくなっていく。宮廷で白魚のようだと褒められた指は、今では泥で黒ずんでいる。


 けれど、土に触れているあいだだけ、頭の中が静かになった。追放の屈辱も、裏切りの痛みも、すべてが土の匂いの下に沈んでいく。


 三日目の夕方、宿に戻ると、見知らぬ手紙が届いていた。差出人の名はない。封蝋もない。ただ、折りたたまれた紙が一枚。


 開くと、短い一文だけが書かれていた。


『薬草園が荒れています。宮廷薬の品質が落ちています。あなたの知識が必要です』


 わたしは手紙を机に置いた。


 指先が、また震えていた。今度は、怒りで。


(追い出しておいて、何を今さら)


 けれど、手紙を捨てることはできなかった。紙を握る指の力が、わたし自身の答えを示していた。丸めかけた紙を、もう一度広げた。折り目を指先で伸ばした。


 窓の外では、夕陽がリンツァーの街を橙に染めていた。屋根の上で猫が一匹、あくびをしている。どこまでも平和な風景だった。この街には、陰謀も追放も存在しない。ただ、人々が暮らしている。


 わたしは深く息を吸って、手紙をもう一度読んだ。


 ──あなたの知識が必要です。


 必要。その言葉が、胸の奥に刺さったまま抜けなかった。王宮では誰もその言葉を口にしなかった。薬草園の仕事は「令嬢の道楽」と陰で笑われていた。十年間、わたしの仕事を「必要だ」と言った人間は、一人もいなかった。


 翌朝、空き地に向かう道で、見慣れない男が立っていた。長い外套に、使い込まれた剣。旅人だろうか。こちらを見ていた。


「……何か用ですか」


「いや。ただ、こんな辺境で薬草を植えている人間がいると聞いて」


 男は少しだけ笑った。目元に、古い傷跡があった。笑うと、その傷が歪む。日に焼けた肌。旅慣れた人間特有の、無駄のない立ち方だった。


「俺はハインツ。旅の剣士だ。腕を怪我してな、薬草を分けてもらえないかと思って来た」


 その右腕には、布が巻かれていた。滲んだ血の色が、乾いて黒くなっている。手当てをしていない。あるいは、できなかったのだろう。


 わたしは一瞬迷って、それから頷いた。


「……薬草はまだ育っていないけれど、応急処置ならできます」


 それが、ハインツとの最初の出会いだった。


 この男が、わたしの運命を変えることになるとは、そのときはまだ知らなかった。


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