月夜の獅子
宿の部屋。薄曇りの日が差し込む。
沈む空気は風を中に入れようとしない。
マリエル達は旅の支度を整え、深夜を待っている。
宿の主人の手引でナスリード国の街の検問所を出ることになっている。
「衛兵には伝えてある」と言う言葉。彼らは二人の通過を妨げない。あとは、日中の台帳に出国記録を記帳する。
「手間がかかる」
シアンの不満げな呟きに、宿の主人は、ナスリード国の全員が同じ考えを持っているわけではないと言った。実際、街をうろつく衛兵は、彼女らが街に来た時よりも多い。主人が言うには、王と側近たちはナギルナ国の皇子の通過は方便で、国へ攻め入る可能性を捨てきれないでいる。そこまで言うと、主人は険しい顔をして二人を彼女らの部屋に押し込んだ。
皇子め。余計な動きをして。
シアンがそう思いながらマリエルに目を向ける。彼女は相変わらず窓辺に佇んでいる。眼下の街を見ず、空を見つめている。シアンはその姿を見て「”雨”は降らせない」という言葉を思い出していた。彼女も精霊を感じることの出来る身だが、彼らが騒めいている気配はない。
”雨”か。不吉な響きを感じる。言葉に不吉を感じるのは初めてだ。
「お腹、空きませんか?何かないかな?」
マリエルが突然振り返りシアンに言う。彼女の口調はいつも通りのものだ。
「そうですね。主人に聞いてみましょう。何か買ってきてくれるかもしれません」
シアンはそう言うと、さっさと部屋を出て行った。マリエルが引き止める間を与えずに。部屋に立ち尽くすマリエル。動物の乳と酸っぱい木の実は、もう見たくない。そう言いたかった。仕方なくベッドの端に座り込むと、シアンと食べ物について話しておこうと思った。そんな彼女の頭にヴェルシダの顔が浮かぶ。
『甘くないスープなどスープではない』『野菜?草の間違いだろう』『エールだと?ワインはないのか』
旅の途中、そんな魔族が買ってきてくれたお弁当は、大好きな魚だった。
マリエルは目を閉じる。ヴェルシダが見せた別れの時の顔。マリエルの瞳から涙が流れようとするが、彼女はそれが頬を伝う前に拭う。そして、また空を見つめる。
いけない人達が近付いている。あれ?人かな?違うような気がする。
雲はない。しかし、陽の光は薄い。
マリエルは胸に芽生えた不安を感じながら、隣に居座ろうとする孤独を押しのけようとした。
***
夜が始まる。
マリエルは動物の乳と酸っぱい果実を、空っぽの腹に半分だけ放り込んで宿を出た。
シアンは何となく感じるマリエルの不機嫌さを、彼女の感じる”雨”のせいだと決めつけて、彼女を追うように後を行く。
検問所は問題なく通ることが出来た。
二人はシアンの故郷に向けて街道を進む。明かりはつけない。夜の闇は、夜目の利く二人の行く手を阻まない。
もうすぐ夜明けだというとき、マリエルが止まる。彼女は反対の方向に進み始めた。「避けるべき」とシアンが提案した厄介者達がいる方向であり、宿でマリエルが見ていた方向だ。シアンが小声で「危ない」と言うが、彼女の主は答えない。仕方なく彼女も主の後に続いた。
森に入り、けもの道を行くと段々と草木は痩せたものに変わり、土は乾き、砂になってくる。
日が昇る。
夜の暗さを追いやるには弱々しい。
乾いた砂の世界は、その入り口でマリエル達を砂塵と共に出迎える。マリエルは目を細めるだけだ。
「砂漠です。用意した装備では危険です。街道に戻れば行商人もおりましょう」
砂漠と朝日を見つめるマリエルに、シアンがそう進言すると、彼女は遠くを指さす。
「あの辺。人がいるから、その人達にお願いしてみましょう」
シアンはマリエルの言葉を聞いて、目を閉じて指さす方向の気配を探る。
いるな。集落と言ったところか。しかし……。
「騒がしく感じます。賑やかさとは違う。避けられた方が良いと思いますが」
「私もそんな感じがする。でも、街道に戻るよりいいかなって思うの。それに、おなか減った」
シアンはため息をつきながらも、マリエルの言うことに従った。言葉の端に棘があったのを気にしながら。
***
アミラはヤギの乳しぼりがひと段落すると、水汲みの桶を手にした。
彼女の日課。村の日常。変わりはなかった。
しかし、井戸に向かう途中、滅多に人が来ることのない方向から、何かが近づいてくるのを見た。彼女はそれに目を細める。やがて、桶をそのままに父親のザイフの下へ走り出した。
村を束ねる彼女の父親は、娘から報を受けると、集落の者達に天幕に入って静かにするように指示した。
彼がいつも腰に帯びている短剣。代々、彼の血脈と共に受け継がれた短剣。それは彼が主となってから抜かれたことはない。ザイフはその短剣の柄を握り締め、彼は集落の入口に立つ。そこには既に男が立っていた。
男の細身の体は”精強”と共に、革の鎧で包まれている。砂除けの襟巻で顔は見えない。だが、彼が何者かは、辺境のこの集落の者でも一目でわかる。
ナギルナ国の戦士。王に直接仕える兵か。一人で何をしに来た。
戸惑うザイフの目の前の戦士は膝をつき、首を垂れて言った。
「驚かせてすまない。ナギルナ国の皇子の使いだ。皇子の願いを伝えに来た」
休息の場所を与えてほしい。水を分けてほしい。礼は金か絹糸、塩と香辛料。望むものを。戦士は頭をあげずにそういった。ザイフは砂漠では旅する者を拒まないと言い、専用の天幕を用意するとも言った。
戦士は「有り難い」というと、馬と共に去った。
ザイフは集落の人々に、ナギルナ国の皇子を迎える準備を命じた。
せわしく指示するザイフ。アミラは父親の短剣の柄が、汗に濡れているのをじっと見ていた。
***
嗚呼。こうなると思っていた。
シアンの目の前には『教導兵団』の戦士がいる。遠くには集落が見える。掲げられているのはナギルナ国の皇子の旗印。獅子が牙をむいている意匠。隣には軍旗が掲げられている。戦士は無言で二人の前に立ちはだかる。目だけが「帰れ」と言っている。
シアンが迂回することをマリエルに視線で伝えようとすると、それを無視して彼女は戦士の前に出た。マリエルは平然としている。戦士は威圧を散らされ、ただの人となった。
「こんにちは。マリエルと言います」
戦士は一歩引き、シアンは目を見開く。
「我が名はアジル。ナギルナ国教導団の一人だ。いや、戦士だ」
マリエルはくすりと笑う。シアンは息を呑む。
「砂漠を越えたいのですが、あそこに暮らす方々から装備を買おうと思っています。行ってもいいですか?」
戦士はマリエルの願いを聞いてすぐには声が出なかった。戦士は壮絶な訓練と実践の中で、目で人を食らうことすら出来るようになったと思っていた。だが、マリエルの瞳は透き通り、その奥には、だだの人でしかない自分が映っていたからだ。戦士は、絞り出すように「待て」とだけ言って集落へ戻った。
シアンは安堵のため息をつくと、マリエルに交渉事は自分に任せてほしいと言った。しかし、彼女に「喧嘩になる」といい、むしろ、シアンに大人しくしてほしいと言った。
「それに、シアンにお願いするとおなかが減ります」
そう、付け加えた。その言葉の意味を理解できずにいるシアンを、残念な目で見るマリエル。
シアンが「まさか」と気づく頃に、戦士が帰ってきた。そして一言、「ついてこい」とだけ言った。シアンは無礼な物言いに口を開こうとしたが、マリエルから”何か”を感じ取り、「大人しく」を実践することにした。
戦士が二人を連れてきたのは、集落の入口だった。皇太子旗が掲げられている場所から遠い。シアンが馬上から目を凝らすが、移動用の天幕と、数名が集落を行き来しているのが見えるだけだ。
「我々に関わろうとするな。他言も無用。ここの住民と交渉して装備でもなんでも得よ」
シアンにそう言って、踵を返そうとする戦士にマリエルは礼を言った。戦士は暫しの間、マリエルを見つめると「名残惜しい」と呟き去っていった。マリエルは男の呟きに首を傾げただけだった。
集落の住民は、ナギルナ国の戦士とのやり取りを遠巻きに見ていた。彼らは近づこうとしない。シアンがそれに気づき、見渡すと一歩さがり、ざわめき始める。彼らにとって『山の民』は”畏敬”そのものだ。
シアンが砂漠用の装備を譲ってほしいというが、誰も答えない。彼女が「奪うのも有りか」と思い始めたとき、一人の少女が進み出た。少女はシアンを睨みつけて言った。
「出て行って」
少女はシアンを睨みつける。そして「怖くないもん」と言った。シアンの眉間に皺がよる。睨み返すシアンを押しのけ、マリエルが少女に話しかけた。
「こんにちは。マリエルと言います」
マリエルの緑の香り。心を撫でる優しい声。少女の緊張と恐怖が解け去る。
「こんにちは。アミラです」
アミラはマリエルを見つめるだけになった。
「初めまして。お願いがあってここへ来ました。砂漠を越えようと思っています。それで、足りない旅具があれば分けてほしいと思っています。お礼はします」
アミラはその小さな体を大きく張って、父親と同じことを言った。砂漠では旅する者を拒まないと。
周りの者は少女の姿をみて、一気に緊張が解けたのか笑い始めた。そして、マリエルを囲み集落へ招き入れた。マリエルの周りに人の輪と笑顔が現れる。シアンはその光景を見て、古書の一節にある『新しき精霊の誕生』の情景を思い浮かべていた。
***
ザイフの目の前に男がいる。静かな天幕の中、風の音だけが聞こえる。
男の内に宿る獣の王。音を立てないが透けて見える。
彼はしきたりに則り、出された器の水を飲み干す。差し出された干し肉と瑞々しい果実を布に包み、天に掲げた。彼は古い言葉の礼を言い、与えた者は同じく古い言葉で、旅が安全に終わるようにと祈った。
「礼を言う。水と風と砂の少ない土地を貸してもらった。長くは居ない」
皇子ハーリドが頭を下げる。ザイフは「心ゆくまで」と言うと、皇子は立ち去った。入れ替わりに皇子の従者が入ってきた。そして、「とりあえず」と、包みを懐から取り出すと、親指ほどの金の塊を差し出し、天幕から出て行った。
ザイフはその金の塊を睨みつけるだけだった。
ザイフが金の塊を棚の中にしまい込むと、ひょっこりと娘が現れた。そして、「旅の人が来た」と言って、マリエルを招き入れた。
「旅の人。ゆっくりと休まれよ」
ザイフは「またか」という言葉をこらえ、いつもの言葉を言うと、二人は顔を見合わせて笑った。その笑顔に緊張を解かされた彼だったが、中を覗き込んでいるヴェールの女を見て、膝から崩れ落ちそうになった。
天幕の中では旅人への儀式が行われている。大人ぶったアミラが、たどたどしく古い言葉を口にしている。そんなアミラをマリエルは笑顔で見つめている。久しぶりに見るマリエルの笑顔に、これからの旅の不安が和らいだシアンだったが、皇子が居座る場所から、ある”匂い”を感じていた。それは秘密の”匂い”。シアンは、静かに天幕を出ると”匂い”の方へと歩き始める。すると、細身の髭の男が背後から声をかけてきた。
「おお。山の民殿。ここにいらっしゃるとは聞いておりましたが。なんともお美しい方だ」
軽い口調で言う。
「こんにちは。お前に名乗る名はない。だが、お前の名は何だ。言ってもいいぞ。記憶に留めることはないがな」
シアンはマリエルの口真似をして、行く手を阻もうとする男に言った。男はシアンの挨拶に苦笑しながら、ムザックと名乗った。
「これはこれはご丁寧に。しかし、下賤な私の名など口にしては、あなた様の耳を汚すだけ。ささ。こんなむさ苦しい場所に来ることはございませんでしょう。お早く魔族との国境へ。山に登って見張るのに忙しいでしょう」
ムザックの目には”畏敬”はない。むしろ”侮蔑”が見える。シアンは彼を「無礼だ」と言って拳を握りしめる。衛兵を屠ったあの拳が現れようとした瞬間、背中に気配を感じた。
「山の民殿。ここは、我々に休息する場を貸してもらった人々の場所。争い事は好ましくない」
脅すような語気はない。しかし、出会った戦士をはるかに上回る威圧。そして、言葉に幾多の”戦場”が乗っている。シアンはムザックをひと睨みすると、マリエルの下へ向かった。言葉の主を無視して。
「ムザックよ。お前の仕事に専念せよ。いつでもあれを出せるようにするのが、お前の仕事だろう」
彼は老兵と目を合わせることなく場を去った。
老兵アリムは去り行くシアンの姿が消えるまで、剣の柄から手を離さなかった。
***
ザイフの天幕。広げられた料理の数々。人々の笑い声。
マリエルは旅の人として歓待を受けていた。
集落の主要な人々と輪となり料理を囲んでいる。
アミラはマリエルの隣に陣取り、質問攻めにしている。滅多に訪れる者のいない辺境の集落。しかも、彼らがわずかに知るだけの森の部族がいるのだ。いつもは静かにするようにというザイフも、マリエルの答えを興味深げに聞いている。シアンは端に追いやられ、ちびちびと酒をすすっているだけだ。
「すごい!森の木と話が出来るなんて!」
アミラの尋問は遅くまで続いた。
歓待の宴も終わり、皆がそれぞれの天幕に帰ってゆく。
アミラがマリエルと一緒に寝たいとせがむが、ザイフは決まり事だと言って、二人を集会場に案内した。
***
マリエルとシアン。二人がいるには広すぎる天幕。
彼女らは向き合っている。
「マリエル様。お耳に入れたいことがあります」
シアンの硬い言葉を遮り、マリエルは「知っている」と答えた。彼女の瞳には憂いしかない。
「戦争の道具。お城の壁を壊す道具。戦争が早く終わる道具」
マリエルは呟くように言う。シアンは、はじめはそっとしておこうと思ったが、眉間に皺を寄せてマリエルにじり寄り言う。「早くここを発ち去るべき」だと
「セフィル殿の事が気になりますか?大丈夫です。兄がついているのです。傭兵の長もいます。ここは、ご自身の身の安全を最優先にすべきです」
マリエルは「ヤギのお乳は嫌い」「その塊も嫌い」。
そう言って床に潜り込んだ。シアンは毛布を頭から被るマリエルに、手を伸ばそうとしたが止めた。彼女もまた、毛布にくるまり横になった。
***
深夜。風の音すらない。
マリエルは起き上がる。シアンが静かな寝息を立てている。マリエルは音をたてないようにそっと天幕から出た。
月が空を覆い、深い夜の闇を遠ざけている。
土と砂はマリエルの足音を包み込み、彼女の歩みを止めようとしない。
緩やかに一つの風が、マリエルの頬を撫でる。そして、はためきの音を伝えた。見ると遠くに旗がある。彼女はそれを見ぬふりをして集落の外に出た。
石と砂が入り混じる場所。集落とも旗の主たちの寝床からも遠い。
マリエルは月を見上げ、その光で憂いを洗い流そうとした。しかし、彼女のそれは、体の芯にまで沁み込んでいる。マリエルは溜め息すらつかず、砂に座り込んだ。
吐く息は白い。
ぼんやりと月を見上げると、人影が彼女の視界に入り込む。見ると男が見下ろしている。眼光は肉を食う獣のように鋭く、獅子のような気高さをまとっている。
マリエルが挨拶をしようとすると、男はそれを制して言った。「辛かろう」と。
「知らぬ者、恐ろしい者、怯える者。自らの『恐れ』を抑え込み、そんな者達の前で心を開く」
辛かろう。
男の言葉にマリエルは顔を伏せ、口を噤んだ。男はその場に座り込み、月を眺める。そして、自分の着ていた外套を脱ぎ、マリエルに投げてよこした。それは煌びやかな金の刺繍が施され、前を閉じるボタンは金で獅子の刻印があしらわれている。マリエルは礼を言い、それに包まるが、それは冷気を阻まず、あまりに重く、砂に埋もれそうな感覚に襲われる。
「セフィルなら、投げて渡したか」
男は月を眺めている。
「軽くて丈夫で、暖かい外套で包むと思います」
マリエルは重く、冷たさを遮ろうとしない外套を身に寄せる。
吐く息は白い。少しだけ寒さに震える。
「お前は何のためにここにいる」
「あなたは、心を開かない」
男は立ち上がると、マリエルから外套をはぎ取った。「見回りが来る」。そう言って立ち去った。
マリエルは暫く男の背を見ていたが、立ち上がり、砂を掃うと集落へ歩き始めた。途中、マリエルは小枝を踏みつけた。折れた音は暗闇に響き渡る。折れた小枝を拾い上げると、急に暗くなる。見上げると雲が月を覆い始めていた。




