第1366話 穢れ町の狼
ここは掃き溜め。
穢れた町だ。
ドブより汚い心を持った、畜生以下の奴らが最後に行き着く場所。
異臭を放つ反吐川を挟み、東には闇医者の診療所や魔法使いの爺婆がたむろする毒茸公園、それから、我らが胃袋を支える腐った果樹の林が広がる。西のほうには住処が並び、糞を塗り固めたみたいな家々はいつ崩れるともわからぬ有様。断頭台めいたおれたちの墓標を兼ねている。
この町において、命の価値などちっぽけで、けれども、殺しは御法度だった。
奇妙なことだが、無法者でも集まれば、秩序らしき何かができてしまうらしい。
ただし、バレなきゃ問題ない。
人知れず消えたやつのことなんか、誰も捜しはしないのだから。
肉片ひとつ残さずに、骨の一本まで砕き、血の一滴すら啜ればいいのだ。
そうするための方法は簡単。
狼になること。
そして、すべてを喰らい尽くす。
おれは毒茸公園の魔法婆と取引をして、蒼林檎と交換に小瓶を手に入れた。
中身は黒い油みたいな液体。変身薬だ。
飲めばたちまち、おれの体は狼そのものに変身して、研ぎ澄まされた刃のような爪と牙を、血に染めることしか考えられなくなるだろう。
人が人を罰することがあったとしても、狼を罰することなどできやしない。
それが、存在しない狼ともなれば、なおさらだ。
変身薬の効果はほんのすこしの時間で切れる。
あとは素知らぬ顔をして、現場から離れるだけでいい。
満月の夜。おれは反吐川に架かる歪み橋の上に、憎きあいつを呼び出した。
のこのこやってきたあいつは、油断ならない眼差しでこちらを睨みつけている。
どうやらおれの思惑にうすうす気づいているらしい。
なにかあれば、返り討ちにしてやろうと、機会を窺っているふうでもある。
懐から小瓶を取り出し、あいつからよく見えるように曇り星の輝きに掲げた。
間合いを測る。数歩の距離。
人がナイフを届かせるには足りないが、獣が牙を届かせるのには十分だ。
あいつはすぐになんの薬が気付いたようで、眉をしかめて身構えた。
そうこなくてはこちらが困る。
わざわざ見せつけてやったのは、怯えさせるためなのだから。
魂の芯から震えて、絶望のうちに死んでもらわなければ。
だが、おれの想像を飛び越え、あいつは意外な素早さでもって突っ込んできた。
掴みかかられて、歪み橋の軋んだ欄干から、便所より酷い汚水が流れる反吐川に落っこちそうになってしまう。
なんとか体勢を立て直したはいいが、その隙に、魔法の小瓶を奪われた。
目の前には勝ち誇った顔。
あいつはおれをせせら笑って、蓋を開けると、中身を一気に飲み干しやがった。
変貌は悍ましく、蛹が破けるみたいにして、人の皮膚が裂け、狼が生まれた。
その瞳は敵意に溢れて、その遠吠えは夜に轟く。
こうなれば、もはや、おれの命はない。
穢れ町で暮らす以上、諦めの肝心さはよくわかっている。
覚悟を決めるのは刹那。
おとなしく両目をつぶって、己の喉笛が掻っ切られる様を幻視したが、いつまで経っても、痛みや死の闇がやってくることはなかった。
おそるおそるまぶたを開く。
橋の袂に倒れた獣は、ひっくり返って、狂ったように、前脚で鼻をかきむしっていたが、しばらくすると動かなくなり、変身薬の効果が切れたらしく、人の姿へと戻っていった。
確認すると絶命している。
どうやら、狼の敏感な鼻には、反吐川の悪臭は、心臓が止まるほど刺激的すぎたらしい。
なんにせよ、あいつが死んで、おれが勝った。
この町で生きるために、重要なのはただひとつ。
悪運だ。それがおれのほうが強かったというだけのこと。




