第1361話 ちいさな判子
周防の国から長門の国へと向かう途中。
雨を嫌って街道を逸れたせいで、まんまと迷子になってしまった。
山の麓の林のなか。
鬱蒼と生い茂る木々のおかげで濡れずには済んだが、あまりに濃い緑に、もはや右も左もわからない。
とにかく闇雲に足を動かしていると、ちょこなんとした祠があった。
そして、その横のお地蔵さんのそばで、商人風の男が休憩をしていた。
「もし」
声をかけると、男はひょいと顔を上げて、気さくな笑みを浮かべる。
「どうも。こんなところで人に会うなんて、奇遇ですねえ」
「いやあ」と、おれは頭をかいて「お恥ずかしながら、道に迷ってしまいまして、よろしければ長門の国がどっちの方角か、教えてもらえませんか」
「ああ。そうですか。それなら、この祠の裏のほうをずうっと、ずっと、まっすぐいって、山を越えたところですよ」
「どのくらいの距離でしょう? まだ陽は高いが、暮れるまでに間に合いますか」
「そりゃあ、無茶ってもんです。だいたい、三里か、四里ってところか。でも山道ですからね。もっとかかりますよ。山の上にお堂がありますから、そこで今夜一晩お過ごしになられるとよろしいでしょう」
「なるほど。ありがとうございます」
礼を言って、先を急ごうとするおれを、男が呼び止めた。
「まあ、お待ちなさい。そのままでは命が危ない」
「え? 獣でも出るのですか?」
「それよりも、もっと恐ろしいものです」
「というと?」
「怨霊ですよ」
あまりにも突拍子もない話に、おれが唖然としていると、男は大まじめな顔で、草の上に風呂敷を広げた。
包まれていたのは、大量の判子。
太さは様々。二の腕ほどのものもあれば、小指にも満たないものもある。
「邪を祓う文字が刻まれておりますれば、どうぞ、お買い求めくださいませ」
ははあ、と、おれはピンとくる。
道を教えてやったのだから、商品を買うのが礼儀だろうと言いたいわけだ。
たしかにそうかもしれない。
男がすすめてきたのは、一番ちいさな判子。
「おいくらですか」
訊いて返ってきた答えは、
「一両です」
「なんと、高すぎる」
思わず口をついて出る。手持ちの路銀がすっからかんになる価格。見たところ、そんなに高級な品とは思えない。簡素な木彫りで、小指の骨ほどの太さ。
「さすがに買えない」
つっぱねると、急に脅すみたいな調子で、
「命の値段としてはお安いでしょう。後悔なさることになりますよ」
冷たい風が吹き抜けた。影が長く伸びはじめている。親切な男だと思ったのに、なんて金にがめついやつなのか。
木々の隙間を狐がサッと横切ったのに目を取られていると、男は打って変わった朗らかさで、
「では、こちらはいかがですか」
こぶしぐらいの大判を差し出して、たったの一文でいいと言うではないか。
それぐらいなら払える額だし、むしろ非常に安く感じる。
おれは大きな判子を買うことにして、男に一文の銭貨を渡した。
「まいどあり」
男はずっしりと重たい判子に、おまけの墨をつけてくれた。
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道らしい道がなく、刻一刻と暮れる夕陽に慌てて山を登ったが、教えてもらったお堂とやらは、意外とすぐに見つかった。
苔むしていて外観はまるであばら家だが、なかに上がりこんでみると、柱や壁はがっしりしていて、埃っぽさはまるでない。
ひとりで泊まるには、広すぎる板の間。
本来、仏像があるべき場所はからっぽ。
ろうそく一本すら残ってないので、これからやってくる夜は相当に暗そうだ。
こんなときは、さっさと寝てしまうに限る。
ごろりと横になって、目をつぶると、商人の男が別れ際に言った言葉が耳の奥によみがえってきた。
『怨霊に触れられた場所というのは、じんじんと痺れてまいります。それを放っておかれますと、取られてしまいますから、判子で印を押すとよろしいでしょう』
商品を売りつけるための冗談とばかり思っていたから、しっかりと脅かすようなことを言われて、どうにも困惑させられた。
心底、疲れているのだが、妙に頭が冴えていて、なかなか寝付けない。
何度か寝返りをうっていると、ふと、右足の小指がじんじんと痺れてきた。
今日はよく歩いたから、そのせいだろうと思ったが、徐々にひどくなってきて、ついには棘が刺さったみたいな痛みが走る。
変なものを踏んずけたのかもしれない。
起き上がって、格子窓から射し込む月明かりを頼りに、目を凝らした。
すでに痺れは遠のいて、強い痛みだけがある。
床の木板にちいさな血だまりが輝いていた。
それが自分の血なのだと気づくのにしばらく時間がかかった。
おれの右足には小指がなかった。そして、血だまりには、拇印を押したみたいな不気味な指の跡がはっきりと残っている。
今度は左手の甲がじんじんと痺れはじめた。
荷物のなかから、男から買った大判の判子を取り出すと、血だまりで墨をすり、痺れている部分に判を押す。
記されているのは、円形に配置された”般若波羅蜜多”の文字。
途端、即効薬を塗ったかのように、痺れがかき消えたではないか。
おれの足の小指は怨霊に取られたのか?
信じがたいが、本当に存在するらしい。
そして、どうやらこの判子のご利益もまた本物だ。
背中が痺れてきた。
体を捻って、判を押す。
ふともも。足の裏。尻。二の腕。脇腹。心臓のあたり。
痺れるたびに、おれは判を押していき、どこもかしこも文字だらけ。
聖なる文字のある場所に、怨霊は触れることができないらしい。
要するに、全身くまなく判子を押してさえしまえば、もう安心というわけだ。
おれは一心不乱に、判子を自分に押し続けた。
まぶたにも押して、目を閉じる。
だが、一ヶ所だけ、どうにもならない場所があった。
耳だ。耳の内側のひだの部分。
商人の男が最初にすすめてきた、ちいさな判子であれば、難なく押せたろうに。
そんな後悔をする間もなく、耳が引きちぎられていた。




