第1359話 なめくじ男
月明かりの影がべったり塗りこめられた道路が、泥を引き延ばすみたいにして、高架下に呑みこまれている。
終電はもうずいぶんと前に通り過ぎてしまった。
遠い繁華街のざわめきが淡く響き、道端の草が奏でる静寂が耳の奥をくすぐる。
ひどく厭な予感がした。
雨が降ったわけでもないのに、うっすらと膜が張ったような、ぬらぬらした虹色の光沢がトンネルの壁から天井にかけて続いている。
見上げてもそこにはなにもないが、まるでなめくじが這った跡のようだ。
どこで聞いたのだったか。
なめくじ男の噂話を。
そいつは蛙みたいな恰好で地面に伏せて、平泳ぎでもしているふうに、ぬらぬらと歩くのだという。
肌はぶよぶよしていて、なめくじを彷彿とさせる質感。
出会ったら最後、憑りつかれて、死ぬまでつきまとわれるのだとか。
あらわれる前兆はシャボン玉にも似た虹色の光沢。
ちょうど、いま目の前にあるものだ。
本当にいるのだろうか?
妙な臭いが空風に乗って漂ってくる。
塩があれば撃退できるらしいのだが、そんなもの持ち歩いているわけがない。
高架下のトンネルを潜れば、家はすぐそこ。
疲れた。このところ残業続き。
回り道してもいいが、その場合はかなり帰りが遅くなってしまう。
妻が晩飯を作って待ってくれているはず。
飯を食い、風呂に入って、早く布団で横になりたい。
なめくじ男なんて、存在するわけがないのに、何故こんなにも不安なのだろう。
頭を伏せて、なにも見ないように意識しながら、暗闇のなかを走り抜ける。
せいぜい、十数歩の距離が、いやに長く感じられた。
ひんやりとしたコンクリートの冷気。
一歩進むごとに、反吐でも踏んでしまったかのような、べちゃべちゃした不快な音と感覚がある。
蜘蛛の巣の上を渡っているみたいだ。
急ごうとすればするほど足がもつれる。
ついには転んで、勢いよく道路に手をついてしまった。
痛い。小石でも落ちていたのか。
街灯の輝きが、かつてないほど眩しい。
つんのめりながら、トンネルを抜ける。
息をつく暇もなく、走った。走り続けた。
家の扉の前に辿り着いたときには汗だく。スーツの袖までびっしょり。
「ただいま」
「おかえりなさい」
居間から顔を出した妻の笑顔を見ると、心の底からの安堵が湧き上がる。
しかし、次の瞬間、香ばしい匂いに眉をしかめた。
「今日の晩飯は?」尋ねる。
「鮭が安かったから、塩焼きにしたの」
頭がくらくらしてきた。
汗が止まらない。
体がべたべたする。
「どうしたの? 大丈夫?」
と、妻がこちらに駈け寄ってきて、不意に怪訝な表情をした。
「雨でも降ってた?」
そう勘違いされてもおかしくないぐらいにずぶ濡れだ。
「あなた、縮んだ?」
そんなバカな、と思ったが、声にならない。
視界がいつもより低い。さらに低くなっていく。足に力が入らない。
滝の如き汗が滴り続けている。
玄関に広がった水たまりのなかに、ぶよぶよの四肢が浮かんでいた。




