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井ぴエの毎日ショートショート  作者: 井ぴエetc


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1351/1382

第1351話 深夜の壁ドン


 深夜、テレビのホラー映画をマンションの部屋でひとりで見ていた。

 画面のなかでは、陰湿いんしつ誘拐犯ゆうかいはんが、女を追いめ、刃物を向ける。

 恐怖にられた女のきぬくような悲鳴ひめいおどろいていると、


 ドンッ!


 部屋の壁がたたかれた。

 ボールがぶつかったみたいな、辞書を落っことしたみたいな、そんな音。

 ソファーからこしを浮かせてり返る。

 キッチンの方向だ。すこしうるさくしてしまったから、マンションの隣の住人の気にさわったのだろう。

 テレビの音量を下げて、しばらく様子をうかがう。

 上の階や下の階にも耳をませた。

 窓の外では街路樹のこずえが風にはげしくれている。マンションの前を通りがかった酔っぱらいの鼻歌が遠ざかっていった。車のエンジン音が通り過ぎると、それきりなにも聞こえなくなる。

 どうやらほとぼりが冷めたようなので、ホッとひと安心。もしかしたら、叩いたのではなく、転んでぶつかっただけかもしれない。


 映画に意識を戻すと、とうとう女が連れ去られてしまっている。

 これからどんな過酷かこくな運命が彼女を待っているのだろうか。

 パニックホラーといううたい文句からして、これから先、手に汗にぎる脱出劇が展開されるに違いない。

 その舞台となる場所が、うちのマンションに似ていたものだから、おれはハッと息をんだ。

 偶然の一致いっち。物語の臨場感りんじょうかんが一気に増す。


 ふとうわさを思い出す。そういえば、このマンションで最近、住人が消えたらしい。生活に困窮こんきゅうしていたから蒸発したんじゃないかと言われていたが、案外、この映画みたいに誘拐されたのかも……


 ドンッ!


 ドンッ!


 油断していた。

 テレビの音量は下げているが、なかなか神経質な隣人らしい。


 ドンッ!


 同じような生活をしていて、いままで隣人トラブルはまったくなかったのだが、今日は特別気が立っているのか、おれが知らないうちに新しい人が引っしてきたのだろうか。


 ドンッ!


 壁が叩かれているキッチンの前までいくと、急に静けさがやってきた。

 そんなに薄くはないはずだがと思いながら、壁に耳を当ててみる。

 聞こえるのは、ごうごうと波がうねるような音だけ。


 居間に戻るとせっかくの映画はもうクライマックス。

 いつの間にか一転攻勢で、女が誘拐犯をマンションの屋上に追いめていた。

 激しい格闘の末、もつれあうふたり、

 女は手にしたロープで誘拐犯の首をめたが、自分の足首にもからまってしまい、ふたりそろって屋上から落下。

 闇のなかに消えていく。

 拍子ひょうし抜けするぐらいのバッドエンド。


 ドンッ!


 テレビを消した瞬間にまた叩かれた。どんどん勢いが増している気がする。


 ドンッ!


 ドンッ!


 うらみを買ってしまったのかもしれない。

 決して騒音なんかじゃなかったはずだ。やや理不尽な怒りな気がするが、びを入れたほうがいいだろうかと、おれはうんざりしながら玄関に向かった。


 外にはかわいた空気が渦巻いて、夜空は星ひとつない真っ暗。

 いくつかの部屋からこぼれるあわい光があるぐらいで、こんな深夜まで起きている住人はほとんどいない。

 叩かれたのはキッチン側の壁。

 おれはそちらに向かおうとして、足を止める。

 手すりがあった。

 闇だ。

 よくよく考えれば、おれが住んでいるのは、廊下のはしの角部屋。

 叩かれた壁のほうに、そもそも部屋なんてない。

 一体なにが音を出しているのか、手すりから身を乗り出し、闇に目をらす。

 巨大な樹木の影があった。

 みきごとれて、枝が激しくおどり回っている。

 あれが音の正体かと、自分のバカな勘違かんちがいに溜息ためいきをこぼしたそのときであった。

 強い風が吹き抜けた。

 体がふわりとちゅうに浮かぶ。

 闇に投げ出される瞬間、おれは見た。

 こずえに隠れるみたいにして、枝にり下げられた人間。

 深くうなだれた頭が、振り子みたいに暴れながら、何度も壁を叩いていた。


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