第1351話 深夜の壁ドン
深夜、テレビのホラー映画をマンションの部屋でひとりで見ていた。
画面のなかでは、陰湿な誘拐犯が、女を追い詰め、刃物を向ける。
恐怖に駆られた女の絹を裂くような悲鳴に驚いていると、
ドンッ!
部屋の壁が叩かれた。
ボールがぶつかったみたいな、辞書を落っことしたみたいな、そんな音。
ソファーから腰を浮かせて振り返る。
キッチンの方向だ。すこしうるさくしてしまったから、マンションの隣の住人の気に障ったのだろう。
テレビの音量を下げて、しばらく様子を窺う。
上の階や下の階にも耳を澄ませた。
窓の外では街路樹の梢が風に激しく揺れている。マンションの前を通りがかった酔っぱらいの鼻歌が遠ざかっていった。車のエンジン音が通り過ぎると、それきりなにも聞こえなくなる。
どうやらほとぼりが冷めたようなので、ホッとひと安心。もしかしたら、叩いたのではなく、転んでぶつかっただけかもしれない。
映画に意識を戻すと、とうとう女が連れ去られてしまっている。
これからどんな過酷な運命が彼女を待っているのだろうか。
パニックホラーという謳い文句からして、これから先、手に汗握る脱出劇が展開されるに違いない。
その舞台となる場所が、うちのマンションに似ていたものだから、おれはハッと息を呑んだ。
偶然の一致。物語の臨場感が一気に増す。
ふと噂を思い出す。そういえば、このマンションで最近、住人が消えたらしい。生活に困窮していたから蒸発したんじゃないかと言われていたが、案外、この映画みたいに誘拐されたのかも……
ドンッ!
ドンッ!
油断していた。
テレビの音量は下げているが、なかなか神経質な隣人らしい。
ドンッ!
同じような生活をしていて、いままで隣人トラブルはまったくなかったのだが、今日は特別気が立っているのか、おれが知らないうちに新しい人が引っ越してきたのだろうか。
ドンッ!
壁が叩かれているキッチンの前までいくと、急に静けさがやってきた。
そんなに薄くはないはずだがと思いながら、壁に耳を当ててみる。
聞こえるのは、ごうごうと波がうねるような音だけ。
居間に戻るとせっかくの映画はもうクライマックス。
いつの間にか一転攻勢で、女が誘拐犯をマンションの屋上に追い詰めていた。
激しい格闘の末、もつれあうふたり、
女は手にしたロープで誘拐犯の首を絞めたが、自分の足首にも絡まってしまい、ふたり揃って屋上から落下。
闇のなかに消えていく。
拍子抜けするぐらいのバッドエンド。
ドンッ!
テレビを消した瞬間にまた叩かれた。どんどん勢いが増している気がする。
ドンッ!
ドンッ!
恨みを買ってしまったのかもしれない。
決して騒音なんかじゃなかったはずだ。やや理不尽な怒りな気がするが、詫びを入れたほうがいいだろうかと、おれはうんざりしながら玄関に向かった。
外には乾いた空気が渦巻いて、夜空は星ひとつない真っ暗。
いくつかの部屋からこぼれる淡い光があるぐらいで、こんな深夜まで起きている住人はほとんどいない。
叩かれたのはキッチン側の壁。
おれはそちらに向かおうとして、足を止める。
手すりがあった。
闇だ。
よくよく考えれば、おれが住んでいるのは、廊下の端の角部屋。
叩かれた壁のほうに、そもそも部屋なんてない。
一体なにが音を出しているのか、手すりから身を乗り出し、闇に目を凝らす。
巨大な樹木の影があった。
幹ごと揺れて、枝が激しく躍り回っている。
あれが音の正体かと、自分のバカな勘違いに溜息をこぼしたそのときであった。
強い風が吹き抜けた。
体がふわりと宙に浮かぶ。
闇に投げ出される瞬間、おれは見た。
梢に隠れるみたいにして、枝に吊り下げられた人間。
深くうなだれた頭が、振り子みたいに暴れながら、何度も壁を叩いていた。




