銀は白に馴染めども——白に非ず
ヒューバートの背後で、二重扉の閉じる音がずっしりとした重みをもって空気を震わす。
それに振り向くことなく、来た道への帰路を辿るべく歩を進みだせば、長靴の靴底が石造りの床で爆ぜ、脚の運びから一歩遅れるかたちでカツカツという規則正しくも硬質な音が広い廊下にこだました。
がらん、と広い廊下には重厚さを添える物々しい彫像も、壁を飾る煌びやかな絵画の一点すらもない——。
だが、よくよく注意して見れば、磨き抜かれた鏡のように滑らかな光沢を放つ床石が壮麗な彫刻を施された天井を映し込み、さながら床自体が彫刻を施されているかのようだ。それだけに、真白の壁面に囲まれた廊下を静かに引き立て、無言の中にある静寂をよりいっそう確かなものとしている。
けして豪奢ではなく、威厳あるものとして。来る者・去る者の心の内を映しだし——或いは暴き立てるかのように。
もちろん、これにはそれ以外の意味があってのことで。
壮麗な天井に比し、白く美しいながらも装飾のない壁は潜む場を、隙を作らぬため。鏡のような床は天地を映しだし、陰すらも作らせぬため。そして、ヒューバートのシルバーブロンドはその白と銀の廊下によく馴染む。その冷たくも整った美貌はむしろそこに似つかわしくも映り、はたまた歩く美術品かのようだ。
だが、その身に纏った漆黒の軍服がその白さに対比をなす。握りしめた魔刀を納める漆黒の鞘と、それに結ばれた朱色の組紐が異質なる色を示す。何よりも、その表情には出ぬ胸中は嵐のように乱れ、荒んでいた。つい先刻までの会話を胸の中で苛立ちと共に反芻する。
「いっぺんくたばれ」
一言、それだけを毒づくようにつぶやくと、軍部への帰還を急ぐべくヒューバートはさらに歩みを速めるのであった。
軍部に戻り、ミナトの執務室へ寄って簡単な意見交換を交わした後、自身の執務室へとヒューバートは向かった。珍しく、少しぼんやりとしている自分自身を自覚する。これもすべて朝の不本意な謁見のせいであろう。自分自身でそう片付ける。
そのせいか、ミナトの執務室を出る際も、前に立ったミナトに何か言われた気がするが——耳にすら入らなかった。ただ、あの意味深げな、いかにも含みありげなあの笑顔が気にかかるし、気に障る。ただそれだけだ。
だが、今はそれどころではないし、気に病むようなことでもない。
体内時計の感覚からして、時刻は既に昼食の時間帯にさしかかろうとするあたりだろうが、朝から食事をとっていない。だが、上級職用の食堂に行くにはいささか疲れていた。タヌキどもに囲まれ、話しかけられ、探りを入れられながら食事をするくらいならば、いっそ昼なぞ抜いたほうがまだマシだというもの。
それよりも執務室で今日から復帰しているはずの彼女に美味い茶の一杯でも淹れて貰ったほうがはるかに心安らぐだろう。そう思いついたところでヒューバートはようやく、僅かに口元を緩ませた。
執務室の扉を開くと、がらんとした人気のない空気がヒューバートを出迎えた。ちょうど皆、食堂へと出払っているようだ。期待していた姿がないことにいささか身勝手ながらも、少しばかりがっかりする。だが、待っていてくれていると期待するほうがどうかしている。彼女の仕事はヒューバートの専属メイドでもお守りでもないし、食事休憩も必要だ。
だが、軍服の上に羽織っていたオーバーコートの袖から左腕を抜いたところで誰かが外廊下を歩く気配を感じた。たとえ軍部内とはいえど、無意識のうちに自ずと誰の気配か探ろうとしてしまうあたり、まさしく職業病と言えるだろう。そしてよく知ったる気配にその人物が誰かすぐさま思い当たる。
これは——
「中佐、お戻りになっておられたんですね。お帰りなさいませ」
「……あぁ。今戻った」
扉を開いたのはヒューバートの副官であるシズリ・シノノメ少尉であった。
食堂から昼食を取ってきたのか、白いナプキンを被せたトレイを手にしている。そして3日ぶりに見る顔に思わず頬を緩みそうになるのを堪えた。元気そうだ。白手と軍服の上着に隠れて、肩から手にかけて負ったはずの傷は見えないが——痕になっていないか後で確認しよう、と内心で自身の良案に頷きつつ、秘かに心決める。これは上司としての義務だから、そうだろう? 部下の体調管理も管理職たる者の義務であり、致し方あるまい、と。
不穏なことを考えていたせいか、いきなり目の前に突き出されたトレイに面食らう。……何だ?
こういうときばかりは己の鉄面皮とも揶揄される無表情がありがたい。内心どきつきつつも見下ろせば、頬を真っ赤に染めながらこちらを潤んだ眼差しで見上げる表情に心の臓を打ち抜かれてしまう。
「…………?」
「あの、その……先般のローザンヌでは色々とありがとうございました。私の不甲斐なさゆえ、中佐殿にはご迷惑を多々おかけいたしましたこと、心より反省しております。しかも、あまつさえ中佐自ら手当までして頂いてしまいまして……。本当にありがとうございました! これはもし中佐殿さえよろしければ、ですが……」
ナプキンの下から現れたのは、白い米を握って固めた"オニギリ"という異国の軽食だった。彼女の出身国、ヒイヅルクニでは持ち運びしやすく、冷めても美味いため、昼食としてはもちろんのこと「ここぞという勝負時」前の腹もちのよい軽食としても作るそうだ。たしか、伝統的”愛妻ベントー”というらしい。それとも”オフクロの味”だっただろうか?……まぁいい。どちらにせよ、同じことだ。自分のために、彼女自らが用意してくれた、ただそれだけの事実に驚くほど胸が躍り、気分が上向く。
「中佐殿は朝食も食べずにお出かけになられた、と聞きまして……。あ! もしかしてお昼……既に召し上がられました……?」
おずおずと遠慮がちに、瞼を伏せながらトレイごと皿を引っ込めようとするその手をヒューバートは咄嗟に掴んだ。一歩前に踏み出る。手と手が出会い、目と目が合う。急に近づいた距離に、重ねた視線に胸の鼓動が大きくはねる。その気遣いに、差し向けられたやわらかな心配りに気持ちが揺れる。彼女は……分かっているのだろうか、いや、気づいてさえいないだろう。ただ、それだけのことがどれほど氷の男の心をとろかし、内にて脈打つ熱い塊へと変えてゆくのかを。
だが、ヒューバート自身を裏切るのもまた、欲求に忠実な己自身であった。
ぐぐうぅ〜〜〜
「…………」
「…………」
室内に気まずい沈黙が落ちる。
状況的には今度はヒューバートが頬を赤らめるべきであったが……鉄面皮と無表情がすっかり内にも外にも馴染んだ彼自身には、生憎そのような術も、このような気まずい場をほろりと笑顔に和ませるような適当な言葉の持ち合わせすらもなかった。
ヒューバートは常に引き結んだ状態の唇をいったん開き、何かを言いかけるような様子を見せたが――その後で思い直したように再びその口を閉じた。即ち、シズリの手からオニギリの皿の載ったトレイを引き取ることで……つまり、何もなかったことにした。無言のうちに、行動にてその意思を示すことで。
「……いや、昼はまだだ。ありがたく頂こう」
「あ、はい! 是非! まだできたてなのであたたかいうちにどうぞ」
「君が作ったのか?」
「はい。お昼前に調理場の方に急遽お願いしてお米と、中に入れる具材になりそうなものを分けて頂きまして。こういう食べ方は珍しいみたいで、ぜひ今後の参考にしたいとまで言って頂いてしまいました。丁度今、日帰りの遠征をされる方や昼食の時間をとれない方のための軽食代わりのメニューの販売も検討しているで……。あ、ちゃんと手は綺麗に洗いましたし、アルコール除菌もしましたので大丈夫、かとは思うのですが……」
シズリは両の手をひらひらと胸の前で振りながら頬を染めてみせた。しかし、その細い指先を見つめるヒューバートの胸の奥に沸き起こる感情は、想いは……言わぬが花と申すべきか。知らぬが仏で見ぬが秘事にてむしろ幸せと言うべきか。
さすがに書類が山と積まれた執務机の上で食べるわけにはいかないので、応接セットのテーブルに皿の載ったトレイを置く。さて、と座ったところで早速皿へと手を伸ばした。まだほんのりとぬくもりを残したオニギリはわずかな塩気がある。噛みしめれば、ほろほろと口の中で崩れるような食感とあわさって堪らなく美味だ。ひとつめは野菜の塩漬け、ふたつめは魚の身をほぐしたもの、と中の具がそれぞれ種類が違うことにも驚かされる。
ヒューバートの前に熱い茶の入った茶器がことりと置かれる。やわらかく微笑みながら茶の名前を教えてくれた。”ゲンマイチャ"という、どこか香ばしいような不思議な香りのするお茶だそうだ。勧められるがままに一口、その熱くも芳しい香りの茶を啜れば、冷えた胃に熱いぬくもりが満たされる。あぁ……これだ。このやすらぐような感覚。これが欲しかったのだと改めて気づいた。
もちろん欲しかったのは茶ではない。その心だ。
あの十数年前の——白の夜より、この身には得られるとも、自身が手を伸ばすことすらも考えたことがなかった安息感とやわらかく身を包まれる感覚。それを与えてくれるのは喉を焼く強い酒でも、戦場で皮膚の裏側をちりつかせる焦燥にも渇望にも似た熱でもなく——ただ、あたたかくそそがれる優しい思いやりの心だった。
そう、”氷のヒューバート”でも”ラーツィヒ中佐”でもなく——“ヒューバート”自身に対しての。
「中佐殿?」
無表情で無口なのは言わずもがなだが——いつになく、表情も感情も読めないヒューバートの姿にシズリが戸惑ったような声をかけた。玄米茶の入った茶器を左手に、右手には食べかけのオニギリを捧げ持つかのように持って黙したまま、ぴくりとも動かなくなった上司に不安げな眼差しを向ける。
まさか、実は嫌いな具材が入っていたとか? いやいや、シズリの知る限り、ヒューバートには好き嫌いはないはずだ。だとすればもしや——細心の注意を払ったつもりではいたが、まさかの髪の毛が入っていたとか?
「オイ、ねーちゃん、この店は客にこんなモン喰わせんのかよ!?」以前、たまたま入った汁麺の店で喚いていた客のことを思い出す。(もちろん明らかな営業妨害行為だったため、厳重注意をしたところ、向かってきたのできっちり床に沈めてやった。そしてその後、しかるべきところへと突き出した)
いやいや、待て待て。そういえば……と、今度は同僚男性が遭ったというサイコなストーカー事件の話までもを思い出す。
「恋という名の不治の病にかかっているの(はあと)」とのたまもうた”(自称)彼の眼差しの囚われ人”の女は「想いを篭めて編み込んだ情念の髪の毛入りセーター」や「私の愛の塊を混ぜた手料理」などなど、まさしく阿鼻叫喚! 破壊工作員も真っ青な妙技の数々を想い人である同僚へと繰り出していた……。それこそ、いくつもの戦場をくぐりぬけ、死線を乗り越えてきた同僚男性がガクガクと震えながら同僚たちに助けを求めるほどに。
他の男性軍人たちが皆青ざめる中……軍曹の一人がぽつり、と呟いた。「僕……女の人からの手作りだけはぜっっったい受け取りません……」
それはつい先日のことで。その場には当然、ヒューバートもいたはずだ……。
——冗談ではない!
シズリの碧い瞳に動揺と怯えがはしる。軽い気持ちでささやかな好意と謝意を示すつもりが、当の本人に不愉快な思いをさせては意味がない。妙な誤解をされてはたまらない!
「もしや中佐ど……えっ? きゃっ!」
確認すべく、慌てて前に一歩、歩み出たところで群青の双眸がゆるりとこちらへと向けられる。濃い深淵をたたえるその色は何も映していないかのようで——その実、深淵の底からこちらを見返されているかのようだ。そしてその瞳はひたり、と向けられたまま、無言の下に手を掴まれ、そのままよりいっそう側近くへと引き寄せられた。
いつの間に立ち上がったのか、目の前にヒューバートの軍服の胸元が映り込む。右手には食べかけのおにぎりを持ったまま、というのがいささか笑える状況とも言えるが——シズリとしてはとてもじゃないが笑えるどころではない。
そして——わけも分からぬまま目を反らそうとした次の瞬間。シズリは……我と我が目を疑った。