第8話 ビンタ
「か、和美! どうしてこんなところにいるんだ!」
教室の後ろのドアから入ってきた和哉が素っ頓狂な声を上げた。
肩にかけていたカバンがずり落ちそうになっているのに直そうともしない。
自分の席に向かうこともなく俺の机の横に立っている和美ちゃんへ慌てて駆け寄ってくる。
「和美!」
「…………」
和美ちゃんの表情が一瞬で冷たくなった。
さっきまで俺を安心させるように笑ってくれていたのに。
和哉を見た途端に、その笑顔がきれいに消えてしまった。
「ちょっと待てよ。なんでお前が俺たちの教室に――」
和哉が手を伸ばす。
その瞬間。
ガタンッ。
俺は反射的に席から立ち上がっていた。
自分でも、どうして身体が動いたのか分からない。
ただ屋上で笑っていた和哉の顔が頭をよぎった。
昔から何度も見てきたはずの顔なのに今は和美ちゃんへ近づいてほしくなかった。
でも俺が間に入るよりも先に和美ちゃんが素早く後ろへ下がった。
「キモい! 近寄らないで!!」
「えっ……」
和哉の足が止まる。
教室にいたクラスメイトたちも固まった。
登校してきたばかりで騒がしかった教室が一瞬にして静まり返る。
椅子を引く音もカバンを机に置く音も聞こえない。
全員の視線が和哉と和美ちゃんに集まっていた。
「か、和美……?」
和哉が情けない声を漏らす。
あんなにはっきり拒絶されたのが信じられないらしい。
伸ばしかけていた手を宙に浮かせたまま何度も目をぱちぱちさせている。
「ど、どうしたんだよ〜。昨日から、なんで俺を無視したり距離を取ったりするんだよ〜」
声の最後が、みっともないほど伸びていた。
いつもの和哉なら周りに女子がいる時はもっと格好をつける。
明るくて誰とでも話せて、いつもみんなの中心にいる。
そんな自分を見せたがる。
だけど今はクラスメイトたちの視線なんて気にしている余裕もないらしい。
「家を出る時だってさ、お兄ちゃんが声をかけても無視しただろ? メッセージも返してくれないし。俺さ〜、何かした〜〜?」
「それはそっちのせい」
和美ちゃんの声が教室中に響き渡った。
窓ガラスまで震えたような気がした。
和哉だけじゃない。
俺も肩をびくっと震わせてしまう。
和美ちゃんは胸の前で両手を強く握り締め、和哉を真っ直ぐ睨みつけていた。
「私が急におかしくなったみたいな言い方をしないで! 理由なら、そっちが一番よく分かってるはずでしょ!」
「な、何のことだよ……」
「とぼけるつもり?」
「とぼけるって、俺は本当に――」
「そっちが信吉さんに嘘告するような計画を立てて実行したんでしょ!」
「…………っ!?」
和哉の顔から血の気が引いた。
教室のあちこちから小さな声が上がる。
「嘘告……?」
「今村が?」
「どういうこと?」
それまで遠巻きに見ていたクラスメイトたちが、ざわざわし始めた。
俺の名前まで出たことで今度は視線が俺にも集まる。
「…………」
息が詰まりそうになった。
できることなら、あんなことは誰にも知られたくなかった。
クラス1の美少女から告白されて本気にして。
返事をしようとしたところで全部嘘だとばらされて。
和哉たちに笑われた。
思い出しただけでも胃の辺りが重くなる。
でも。
「…………」
逃げるように俯きかけた俺は、なんとか顔を上げた。
隣には和美ちゃんがいる。
俺の代わりに怒ってくれている和美ちゃんが堂々と前を向いている。
そんな和美ちゃんを置いて、俺だけが逃げるわけにはいかなかった。
「な、なんで……」
和哉が周囲を見回した。
さっきまでの情けない顔とは違う。
今度は明らかに焦っていた。
教室の中には屋上にいた男子たちもいる。
そいつらは俺と目が合いそうになると一斉に顔を逸らした。
慌てて席につくやつ。
スマートフォンを触っているふりをするやつ。
窓の外を眺めるやつ。
誰も和哉を助けようとはしなかった。
「な、なんで和美が知ってたんだよ……」
和哉の声が震えていた。
「まさか私が知らないと思ってたの?」
和美ちゃんが呆れた顔を見せる。
ため息までついていた。
「信吉さんなら、恥ずかしくて誰にも話せないと思ってたの?」
「そ、そういうわけじゃ――」
「じゃあ、どうして私が知っていることに驚くの?」
「いや、それは……」
「信吉さんが黙っていれば、自分たちが何をしたのか誰にも知られない。そう思ってたんでしょ?」
「違う!」
和哉が慌てて否定する。
だけど、その声にはいつもの自信がなかった。
「ち、違うんだよ。あれは遊びというか……そう、ちょっとしたドッキリみたいなものでさ」
「ドッキリ?」
「ほら、信吉って最近、あんまり元気なかっただろ? だから俺なりに楽しませようと思ったんだよ」
何を言っているんだ。
俺を楽しませるため?
絶対に嘘だ。
あの時、楽しそうにしていたのは和哉たちだけだった。
俺が宮下さんから告白されて戸惑って。
それでも勇気を出して返事をしようとしたら、物陰からぞろぞろ出てきた。
和哉は笑っていた。
あの顔が今でも目にこびりついている。
俺を楽しませるためだなんて。
よくそんなことが言えるな。
怒りが沸々と止まらずに湧き上がる。
ぱぁんっ!
乾いた音が、教室中に響いた。
「……え」
和哉が何度も瞬きする。
何が起きたのか分からないらしい。
ゆっくりと顔を横に向けたまま、動かなくなった。
彼の頬は、みるみる赤く腫れていく。
目の前には和美ちゃんが立っていた。
振り抜いた右手を、まだ上げたまま。
その手のひらも真っ赤になっている。
「か、和美……?」
和哉が信じられないものを見るように和美ちゃんを見つめる。
教室の中から物音が消えた。
誰も話さない。
誰も動かない。
息をすることさえ忘れたように全員が2人を見ていた。
和美ちゃんの肩が小さく震えている。
頬を叩いたことを怖がっているんじゃない。
怒っている。
唇を噛み、明らかに不機嫌な表情。
それでも和哉から目を逸らさず、声の限り叫んだ。
「ふざけないで!!!」




