第6話 元親友の妹と一緒に登校
「大丈夫でしたか? 昨日はしっかり寝れましたか?」
隣を歩く和美ちゃんに聞かれる。
「う、うん。なんとか寝れたよ」
いつもより寝つきは悪かったけど。
というか、ほとんど寝た気がしない。
布団に入って目を閉じるたび、昨日の光景が何度も頭の中で繰り返された。
宮下さんの顔。
和哉の笑い声。
忘れようとすればするほど、はっきり思い出してしまった。
「なんとか、ですか」
「うん」
「それ、しっかり寝れていませんよね?」
「少しは寝たから」
「何時間ですか?」
「…………」
「信吉さん?」
「時計を最後に見たのは三時くらいだったかな」
「全然寝れていないじゃないですか」
和美ちゃんの眉がきゅっと寄る。
「ごめん」
「どうして信吉さんが謝るんですか」
「いや、心配させてるから」
「心配くらいさせてください」
「え?」
「昨日の信吉さんを見たあとで、何も気にせず眠れるわけないじゃないですか」
和美ちゃんは少しだけ頬を膨らませた。
その顔を見て胸の奥が温かくなる。
昨日あんなことがあったばかりなのに。
今日、学校へ行くことを考えるだけで逃げ出したくなるのに。
和美ちゃんは家にわざわざ来てくれた。
それだけで心が楽になる。
「和美ちゃんは寝れた?」
「……私は大丈夫です」
「俺の目を見て言って」
「…………」
和美ちゃんが黙る。
昨日、俺が言われた言葉だ。
『私の目を見て言ってください』
俺が大丈夫だと強がったとき和美ちゃんはそう言った。
「寝てないんだ?」
「……寝ました」
「何時間?」
「それは……」
「和美ちゃん?」
「2時間くらいです」
「俺より寝てないじゃん」
「仕方ないじゃないですか。思い出すたびに腹が立ってきたんですから」
和美ちゃんの目つきが一瞬だけ変わった。
「人の気持ちをおもちゃにしておいて、本人は何も知らずに普通に寝ているんですよ。信じられますか?」
「和哉のこと?」
「あれ以外に誰がいるんですか」
お兄ちゃんとすら呼ばなくなっている。
「朝は大丈夫だった?」
「何がですか?」
「和哉と顔を合わせたんじゃないの?」
「合わせましたが。相手にしてません」
「そ、そうなんだ……」
「昨日からずっと話しかけてきていますけど、全部無視しています」
「やっぱり俺のせいで兄妹喧嘩に……」
「信吉さん」
「はい」
「すり替えないでください」
和美ちゃんが足を止める。
「私が怒っているのは、信吉さんのせいじゃありません。あれが最低なことをしたからです」
「でも……」
「信吉さんは何も悪くありません」
真っ直ぐ言い切られて何も返せなくなる。
昨日もそうだった。
和美ちゃんだけは俺に何も悪くないと言ってくれた。
「そういうことですから」
「う、うん」
朝の住宅街は、いつもと何も変わらない。
自転車で駅へ向かう人。
犬の散歩をしているおばあさん。
少し先を歩く制服姿の生徒。
何も変わっていない。
変わったのは俺だけだ。
「…………」
前を歩いていた男子生徒たちが笑った。
たったそれだけで肩がびくっと動いてしまう。
俺のことを笑ったわけじゃない。
分かっている。
分かっているのに昨日の笑い声が重なった。
「信吉さん」
「大丈夫」
「まだ何も聞いていません」
「あ……」
「無理に大丈夫って言わなくていいですよ」
和美ちゃんが俺との距離を少し詰める。
肩が触れそうなくらい近い。
「前の人たちが笑ったから昨日のことを思い出したんですか?」
「……うん」
「信吉さんのことを笑ったわけではありませんよ」
「分かってる」
「はい」
「分かってるんだけど身体が勝手に反応するんだ」
「それなら落ち着くまでゆっくり歩きましょう」
「遅刻するかもしれないよ」
「信吉さんを一人にするよりマシです」
和美ちゃんは歩く速さを落とした。
俺に合わせてくれている。
「和美ちゃん」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「それと……ごめん」
「だから、どうして謝るんですか」
「迷惑をかけてるから」
「信吉さん」
「はい」
「次に謝ったら怒りますよ」
「もう怒ってるように見えるけど」
「これは注意です」
「じゃあ、怒ったらどうなるの?」
「あれへの対応を見ていれば、そのうち分かります」
「怖いな」
「信吉さんにはしませんよ」
「ならよかった」
少しだけ笑えた。
ほんの少しだけ。
だけど、昨日からずっと固まっていた頬がようやく動いた。
「あっ」
「どうしたの?」
「今、笑ってくれましたね」
「え?」
「よかったです」
和美ちゃんが嬉しそうに笑う。
「私、今日は信吉さんに一回でも笑ってもらおうと思っていたんです」
「もう目標達成?」
「はい。なので今日はこのまま帰っても構いません」
「いや学校には行こうよ」
「信吉さんが帰りたいなら付き合いますよ?」
「和美ちゃんまで休む必要はないから」
「真面目ですね」
「普通だよ」
「そうですか?」
そんな話をしているうちに学校が見えてきた。
見慣れた校舎。
毎日通っている校門。
昨日までなら何も考えずに入れた場所。
だけど今日は校門の前で足が止まった。
「…………」
次々と生徒たちが校内へ入っていく。
楽しそうに話している生徒。
眠そうにあくびをしている生徒。
スマートフォンを見ながら歩いている生徒。
この中に昨日のことを知っている人間がどれくらいいるんだろう。
和哉たちは誰かに話したのか。
宮下さんは教室にいるのか。
俺が入った瞬間みんながこっちを見るんじゃないか。
「信吉さん?」
「……うん」
「入りたくないんですか?」
「少しだけ」
「少しだけ……ですか?」
「ごめん。かなり」
「それなら、ここで休憩しますか?」
「でも……」
「急がなくていいですよ」
和美ちゃんは先へ行こうとしなかった。
俺が歩き出すまで隣で待ってくれている。
「和美ちゃん」
「はい」
「一緒に入ってくれる?」
「もちろんです! そのために来たんですから」
和美ちゃんと並んで校門を通る。
一人だったら入れなかったかもしれない。
昇降口へ近づくほど生徒の数が増えていく。
誰かの視線を感じるたびに胸がざわついた。
だけど隣を見ると和美ちゃんがいる。
何度確認しても、ちゃんといる。
それだけを頼りに、なんとか昇降口までたどり着いた。
「それじゃあ、上履きに履き替えてきますね」
「うん」
俺と和美ちゃんの靴箱は離れた場所にある。
和美ちゃんは一度俺から離れ、自分の靴箱へ向かった。
たった数メートル。
姿だって見えている。
なのに、一人になった途端、急に心細くなった。
俺は靴箱を開け、スニーカーを脱ぐ。
上履きを取り出そうとした指が震えた。
「昨日さ――」
近くから男子生徒の声が聞こえた。
心臓が跳ねる。
「マジで笑ったよな」
「本人、全然気づいてなかったし」
俺のことか?
昨日の嘘告の話か?
怖くて、そっちを見ることができない。
ただの別の話かもしれない。
でも、もし俺のことだったら。
もし、もう学校中に広まっていたら。
「信吉さん」
「……っ」
背後から声をかけられ、思わず肩が跳ねた。
「ご、ごめんなさい。驚かせましたか?」
振り返ると、上履きに履き替えた和美ちゃんが立っていた。
「ううん。大丈夫」
「……また大丈夫って言いましたね」
「今のは本当に大丈夫」
「顔色悪そうですけど」
「…………」
「教室、一人で行けそうですか?」
平気だよ。
大丈夫。
それくらい一人で行ける。
そう思いたい。
でも。
今日は無理だった。
昨日、和美ちゃんに言われた。
強がらなくていい。
嘘をつかなくていい。
だから俺は、上履きを履いたまま俯いた。
「正直、不安だよ」
「はい」
「怖いよ」
口にした瞬間、押さえ込んでいたものが一気に溢れそうになった。
「教室に入ったら、みんなに見られる気がする。昨日のことを知っていて、俺が来るのを待っているような気がするんだ」
「…………」
「和哉と、どういう顔をして会えばいいのかも分からない。宮下さんにも会いたくない。誰かに笑われたら今度こそ耐えられないかもしれない」
「はい」
「学校に来るだけで、こんなに怖くなるなんて思わなかった」
「信吉さん」
「ごめ――」
「謝ったら怒ると言いましたよね?」
「……うん」
和美ちゃんは俺を責めなかった。
情けないとも言わなかった。
ただ、俺の言葉を最後まで聞いてくれた。
それから大きく頷く。
「じゃあ、私と行きましょう!」
「え!?」
和美ちゃんが俺の手を取った。
小さな手。
柔らかくて温かい。
だけど俺の手を握る力は驚くほど強かった。
「か、和美ちゃん?」
「教室まで送ります」
「でも和美ちゃんの教室は別だろ?」
「少しくらい遠回りしても問題ありません」
「人に見られるよ」
「見られて困るようなことはしていません」
「変な噂になるかもしれない」
「好きに言わせておけばいいんです」
和美ちゃんは俺の手を離さない。
むしろ、さっきより強く握った。
「それに、私に取っては都合がいいです」
「都合がいい?」
「こっちの話です!」
和美ちゃんが一歩前へ出る。
つながれた手に引かれ、俺の身体も前へ動いた。
「大丈夫です」
和美ちゃんが振り返る。
「私が隣にいますから」
その言葉を聞いた瞬間、怖くて仕方なかった廊下が、少しだけ違って見えた。
昨日は屋上に一人で置き去りにされた。
だけど今日は違う。
俺の手を握ってくれる人がいる。
立ち止まった俺を前へ引いてくれる人がいる。
「行きますよ! 信吉さん」
「……ああ」
和美ちゃんに手を引かれながら俺は教室へ向かって一歩を踏み出した。




