第29話 赤く染まる
「信吉さ〜ん」
トイレから教室へ戻って少し経った頃だった。
席に座って聞き慣れた声に顔を上げる。
教室の扉からピンク色の髪がひょこっと見える。
和美ちゃんだ。
俺と目が合うと、ぱっと表情を明るくする。
和美ちゃんが嬉しそうに笑う。
そのままタタタッと小さな足音を立て、俺の席へ向かってくる。
さっきまでの面倒なやり取りが少し頭から薄れていく。
やっぱり和美ちゃんの顔を見ると安心する。
今朝だって一緒に登校してきたばかりなのにね。
ほんの少し離れていただけで、また会えたことが嬉しくなる。
……いや、なんだ、その感想。
自分で考えておいて、ちょっと恥ずかしくなった。
「な、なあ!」
俺の席から少し離れたところで、男子が立ち上がって、和美ちゃんの方へ向かう。
和哉の友人。
さっきまで、俺の前で土下座をしていた三人のうちの一人だ。
「今村の妹からも青木に言ってやってくれよ」
「…………」
和美ちゃんの笑顔が消えた。
友人の一人に一瞬だけ視線を向ける。
それだけで返事はしなかった。
そのまま進む方向を少し変え、友人の横を通り過ぎようとする。
「待って、待って!」
友人が慌てて横へ動いた。
和美ちゃんの前に立ち塞がる。
「そこをなんとかさ! 頼むよ〜!!」
「…………」
和美ちゃんが足を止めた。
俺も教科書から手を離す。
あいつ、なにをやっているんだ?
「……どいてくれません?」
和美ちゃんの声が低くなった。
友人をじっと睨んでいる。
さっき俺へ向けていた表情とは明らかに違った。
「私、信吉さんに用があるんですけど」
「だから、その青木のことで頼みがあるんだよ」
「聞いていません」
「まだなにも言ってないだろ?」
「聞く必要がないです」
きっぱり。
和哉の友人が言葉に詰まる。
普通なら、そこで引き下がる。
「ちょっとだけでいいからさ!」
でも引かなかった。
「嫌です」
「三分もかからないって!」
「時間の問題ではありません」
和美ちゃんがもう一度、横を通ろうとした。
友人も動いて立ち塞がる。
和美ちゃんの眉がぴくっと動いた。
「どいてください」
「お願い! こっちも困ってるんだよ!」
「私には関係ありません」
「そんな冷たいこと言わないでさ〜」
和哉の友人は止まらない。
「青木に言ってくれるだけでいいんだよ。もう俺にはなにもしなくていいってさ。ただそれだけだから!」
「……なんですか、それ」
「君から言えば青木は聞くだろ? ほら仲いいんだし!」
「……」
教室のあちこちから視線が集まっていた。
残りの和哉の友人の二人は自分の席に座ったまま、こちらを見ている。
誰も、あいつを止めようとしない。
「頼むよ。ちょっと話をしてくれるだけでいいからさ」
友人の右手が伸びる。
和美ちゃんの腕へ触れた。
和美ちゃんが反射的に腕を引く。
それなのに友人の指が袖の上から腕を掴む。
「は、離してください!」
和美ちゃんから大きな声が漏れる。
「っ!?」
椅子が大きな音を立てた。
気づいた時には俺は立ち上がっていた。
机の横を抜ける。
ほんの数歩の距離が、妙に遠く感じた。
「そんなに嫌がらなくても――」
俺は友人の言葉が言い終わる前に、その手首を掴み、和美ちゃんから引き離す。
「……え?」
友人が俺を見た。
「離せよ」
「あ、青木?」
「和美ちゃんが嫌がってるだろ」
「いや、俺は話を……」
手首を握る指に力が入った。
和哉の友人の顔が歪む。
「なにやってるの?」
「だから、ちょっと頼み事をしてただけで――」
「断られてたよね?」
「それは、ちゃんと聞いてくれないから」
「聞きたくないって言われたら、やめればいいだろ」
「…………」
友人の目が泳ぐ。
俺の手を見て、それから顔を見る。
さっきまであんなに大きな声を出していたのに、急に静かになった。
俺は口元を持ち上げた。
笑うように。
自分でも全然楽しくない笑い方だと思う。
額の辺りがぴくぴくする。
眉間を緩めようとしても、うまくいかなかった。
「俺の大切な和美ちゃんの嫌がること、しないでくれるかな?」
「…………っ」
友人の顔が引きつった。
手首を掴んだまま目を逸らさない。
ここで曖昧にしたら、また同じことをする気がした。
俺が断れば和美ちゃんへ。
和美ちゃんが断れば腕を掴んで引き止める。
なにを反省したんだよ。
さっきの土下座はなんだったんだ。
「返事は?」
「い、いててっ」
男子が肩をすくめる。
「わ、分かったから。ご、ごめん!」
「もうしない?」
「しない! もうしないから!」
「……分かった」
手を離す。
友人はすぐに右手首を押さえた。
俺を見て、俺の後ろを見て、また俺を見る。
「その……悪かったって。ご、ごめん!」
友人は足早に自分の席へ戻っていった。
途中で机の角に腰をぶつけ、少しよろける。
それでも立ち止まらずに椅子へ座った。
もう、こっちを見ようとしなかった。
「…………」
俺は握っていた右手を開く。
少し汗をかいていた。
心臓の鼓動も早くなっている。
でも自分のことは後でいい。
「和美ちゃん! 大丈夫?」
慌てて振り返った。
和美ちゃんはすぐ後ろに立っていた。
掴まれた腕を押さえているわけでもない。
泣いているようにも見えない。
「……信吉さん」
頬が赤かった。
かなり赤かった。
紫色の瞳が、じっと俺を見つめている。
「腕、痛くない?」
「…………」
「和美ちゃん?」
「……はい」
少し遅れて返事が来た。
はい?
それは痛いってこと?
「だ、大丈夫なの?」
「はい。大丈夫です」
今度は答えてくれた。
でも、なんだろう。
いつもの返事と違う。
声がふわっとしているというか。
言葉だけが口から出てきて本人は別のことを考えているような感じだった。
本当に大丈夫か?
「あいつ、結構強く掴んでた?」
「……掴んで?」
「うん。腕」
「あ……いえ。大丈夫です」
和美ちゃんが自分の腕へ視線を落とす。
それから、また俺を見た。
頬は赤いまま唇が少しだけ動く。
「……大切な」
「え?」
「いえ。なんでもありません」
和美ちゃんが首を横に振った。
でも口元が緩んでいる。
両手を胸の前で重ねて俺の顔を見ている。
怒っていた時とは違う。
いつも楽しそうに話してくれる時とも少し違う。
「びっくりしたよね」
「はい……すごく」
「ごめん。もっと早く止めればよかった」
「違います」
そこだけは、はっきり返ってきた。
俺が瞬きをすると和美ちゃんは自分でも驚いたみたいに口を閉じた。
「違う?」
「あ、その……信吉さんは、謝らなくていいです」
「でも――」
「助けてくれましたから」
和美ちゃんが俺の袖をそっと摘まむ。
「ありがとうございます」
「うん。怪我してないならよかった」
「……はい」
また、ぼんやりした返事。
和美ちゃんの視線が俺の右手へ落ちる。
さっき友人の手首を掴んでいた手だ。
「信吉さん、手は痛くないですか?」
「俺? 平気だよ」
「そうですか」
和美ちゃんがそっと息を吐く。
それから、何かを確かめるようにもう一度俺の顔を見た。
「……私」
「うん?」
「…………」
続きを待つ。
和美ちゃんの唇が動きかけて止まった。
頬がさらに赤くなる。
「やっぱり、なんでもありません」
「気になるんだけど」
「今は、ちょっと……」
「ちょっと?」
「うまく話せません」
和美ちゃんが俯いた。
ピンク色の髪から赤くなった耳が見える。
もしかして、まだ怖さが残っているんだろうか。
無理に話させない方がいいかもしれない。
「とりあえず俺の席の方に行こうか」
「はい」
和美ちゃんは頷いた。
でも動かない。
俺の袖を摘まんだまま、じっと立っている。
「……和美ちゃん?」
「あ、はい」
ようやく足が動いた。
俺が歩くと半歩遅れてついてくる。
いつもだったら、もう次の話を始めている頃だ。
今日は静かだった。
静かだけど。
「……えへへ」
すぐ隣から小さな笑い声が聞こえる。
俺が見ると和美ちゃんは慌てて口元を引き締めた。
「どうしたの?」
「なんでもありません」
「本当に?」
「はい。大丈夫です」
やっぱり、どこか上の空だ。
大丈夫だと言いながら、顔は赤いし。
時々、俺を見ては目を逸らすし。
袖を摘まむ指だけは、ずっと離れないし。
「……俺、なにか変なこと言った?」
和美ちゃんの肩がぴくっと跳ねた。
「変ではありません!」
「そ、そっか」
「全然、変ではありませんから」
そこまで強く否定されると、それはそれで気になる。
和美ちゃんはまた俯いた。
そして、俺に聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟く。
「……もう一度、聞きたいくらいです」
「え? なにを?」
「なんでもありません」
返事だけは早かった。
俺は隣を見ながら首を傾げる。
和美ちゃんは嬉しそうに目を細めていた。




