第26話 嘘告
(宮下茜視点)
放課後。
「…………終わった」
担任が教室から出ていった瞬間、あたしは机へ突っ伏しそうになった。
今日もなんとか学校を終えた。
ただ授業を受けていただけ。
先生に当てられたわけでもないし、誰かと揉めたわけでもない。
なのに、ひどく疲れていた。
「…………」
最近のあたしは、ずっと和哉の妹に怯えている。
今村和美。
休み時間になるたび別の学年からこの教室へやってくる女の子。
今日も来ていた。
『信吉さ〜ん!』
教室へ入ってきた時は、ものすごく嬉しそうだった。
そのまま青木君の席まで小走りで向かって隣へ椅子を寄せて楽しそうに話していた。
『今日はお弁当を持ってきました』
『どういうこと?』
『信吉さんのためにお弁当を作ってきました!』
『まじで!』
『まじです!』
そんな会話が聞こえてきた。
青木君も、あの子と話している時は穏やかな表情をしている。
時々、困ったように笑って。
それでもどこか嬉しそうだった。
「…………」
本当に鬱陶しい。
あの笑い声を聞くだけで落ち着かなくなる。
あたしの方を見ていないと分かっていても体が強張ってしまう。
いつこっちを向くんだろう。
いつ席を立って、あたしのところへ来るんだろう。
そんなことばかり考えていた。
実際、少し前には耳元で囁かれた。
『兄のあれは学校からいなくなりますから』
『…………』
『どうしていなくなるのか気になりますか?』
『信吉さんを傷つけたからですよ』
あの時の笑顔と口調が今でも頭から離れない。
他の人には聞こえないくらい小さくて軽い感じだった。
だからこそ怖かった。
それだけ言って、あの子は青木君のところへ戻っていった。
「…………っ」
思い出しただけで背中が冷たくなる。
和哉は突然、学校を退学した。
あたしには詳しい事情なんて分からない。
ただ、あの妹がなにかをした。
それだけは間違いないと思う。
兄を学校から消すような女。
そんな女からのメッセージ。
「……どうすればいいのよ」
以前に青木君へ謝ろうとした。
でも、あの子に阻止された。
もう近づくことすらできない。
それなら放っておけばいい。
なにもせず、目立たないように過ごせば、そのうち忘れてくれる。
そう思っているのに。
休み時間になるたびに教室へ来る。
青木君へ笑顔を向けながら、時々あたしを見ている。
目が合うと笑う。
あの笑顔が恐怖でしかない。
次は和哉と同じように潰されるかもしれない。
家族に知られたら?
友達に全部話されたら?
嘘告のことが学校中に広まったら?
「…………」
ダメ。
考えたくない。
あたしは急いで教科書をカバンへ入れた。
早く帰ろう。
「茜」
「ひっ!?」
突然名前を呼ばれて肩が跳ねた。
「うわっ。どうしたんだよ?」
「りょ、亮太君……」
あたしの席の側に亮太君が立っていた。
金髪の爽やかイケメン。
小学生の頃からずっと一緒の幼馴染。
高校ではクラスが分かれたけど今でもたまに話す。
「そんなに驚く?」
「ご、ごめん。ちょっと考え事してて」
「最近、ずっとそんな感じだよな」
「そうかな?」
「そうだよ。顔色も悪いし」
亮太君が心配そうにあたしの顔を覗き込む。
少しだけ胸が高鳴った。
「なにかあったなら俺に言えよ」
「……ありがとう」
「幼馴染なんだから、遠慮すんなって」
「うん」
その言葉を聞くだけで安心する。
今、あたしの周りには味方がほとんどいない。
嘘告に協力した男子たちも和哉が退学してから急にあたしから距離を取るようになった。
あの時は一緒に笑っていたくせに。
自分たちまで巻き込まれるのが怖いんだと思う。
そんな中で亮太君だけはいつも通りだった。
「それで、どうしたの?」
「ああ。その……茜に話があるんだ」
「話?」
「ここじゃ、ちょっと言いにくい」
亮太君が教室の中を見回す。
まだ何人か残っている。
「場所を変えてもいい?」
「う、うん」
「じゃあ、来て」
亮太君が先に廊下へ出る。
あたしはカバンを持ち、その後を追いかけた。
「…………」
話ってなんだろう。
ここでは言えないこと。
二人きりになって話したいこと。
まさか。
「…………っ」
鼓動が少し速くなる。
いや、そんなわけない。
期待しちゃ駄目。
それでも。
もしかしたら。
「亮太君、どこへ行くの?」
「もう少し」
「結構歩くんだね」
「誰にも聞かれたくないから」
「そ、そうなんだ」
階段を上がる。
三階を通り過ぎる。
亮太君が屋上へ続く扉の前で足を止めた。
「ここなら誰もいないと思う」
扉を開ける。
夕方の風が廊下へ吹き込んできた。
あたしの髪が揺れる。
「行こう」
「うん」
亮太君に続いて屋上へ出る。
空は少しオレンジ色に染まっていた。
フェンスの向こうでは夕日が校舎や住宅街を赤く照らしている。
「…………」
屋上。
二人きり。
放課後。
心臓がうるさい。
亮太君はフェンスの近くまで歩くと、あたしへ向き直った。
「茜」
「な、なにかな?」
「俺さ、ずっと言おうと思ってたことがあるんだ」
「ずっと?」
「ああ」
亮太君も緊張しているように見えた。
視線を逸らし、片手で自分の髪を触っている。
そんな姿を見て期待がどんどん大きくなっていく。
もしかして本当に?
「小学生の頃から、ずっと一緒だっただろ?」
「うん」
「中学も一緒で、高校も一緒になった」
「そうだね」
「茜といると楽しいし、これからも一緒にいたいと思ってる」
「…………」
胸が苦しくなる。
嬉しい。
まだ最後まで聞いていないのに涙が出そうだった。
「だから」
亮太君がまっすぐあたしを見る。
「俺、茜のことが好きだ」
「っ……」
「俺と付き合ってほしい」
告白。
本当に告白された。
ずっと好きだった亮太君に。
「あ……」
声が出ない。
代わりに涙がこぼれた。
「茜?」
「ご、ごめん。違うの」
慌てて指で涙を拭う。
「嫌だったわけじゃないの」
「じゃあ、どうして泣いてるんだ?」
「嬉しくて……」
「…………」
「あたしも、亮太君のこと……」
笑みを隠せない。
最近は嫌なことばかりだった。
教室にいるだけで怖くて。
今村和美が来るたびに怯えて。
明日はなにをされるんだろうって、ずっと考えていた。
でも嫌なことばかりじゃないんだ。
あたしにだって嬉しいことはある。
あの子にどれだけ怖がらされても、あたしには亮太君がいる。
彼氏になってくれたら守ってもらえるかもしれない。
一人で怯えなくてもよくなる。
「亮太君……」
安心して涙を流しながら笑顔を向ける。
「あたしも、ずっと亮太君のことが――」
「うわマジで信じてるじゃん!」
「えっ?」
知らない声が聞こえた。
隠れていた男子たちが次々と姿を見せる。
「すげえ! 本当に泣いたぞ!」
「動画、ちゃんと撮れた?」
「ばっちり!」
「亮太、演技上手すぎ!」
「だろ?」
「…………」
なにが起きているのか分からない。
男子たちが笑っている。
亮太君のところへ集まり、楽しそうに肩を叩く。
「大成功じゃん!」
「マジで付き合ってもらえると思ってた顔してたな!」
「最後まで言わせればよかったのに」
「いや、もう十分だろ。笑いを我慢するの限界だったわ」
「分かる。俺も途中で吹きそうになった」
「…………亮太君?」
震える声で名前を呼ぶ。
亮太君はあたしを見ない。
男子の一人が差し出した手へ自分の手を打ちつけた。
パンッ!
乾いた音が響く。
続けて別の男子とも。
「お疲れ!」
「ナイス告白!」
「いやあ、緊張したわ」
パンッ。
パンッ。
楽しそうにハイタッチをする。
「なに……してるの?」
「あ?」
「どういうこと?」
亮太君がようやくあたしを見る。
さっきまでの緊張した顔は消えていた。
口元に浮かんでいるのは意地悪な笑み。
「見れば分かるだろ?」
「分からないよ……」
「ウソだよ」
「えっ?」
「嘘告」
その言葉が耳へ入った瞬間。
頭の中が真っ白になった。
「うそ……こく?」
「そ、お前が青木って奴にやったのと同じ」
「…………」
「どんな気分だった?」
「なに、言ってるの……?」
「だから俺はお前のことなんて全然好きじゃねえって」
「だって、今……好きだって……」
「あれ全部ウソ」
「これからも一緒にいたいって……」
「それもウソ」
「じゃあ、さっきの言葉は……」
「だから全部ウソだって言ってんじゃん」
男子たちが大声で笑う。
「ギャハハハッ!」
「まだ信じられないみたいだぞ!」
「マジで亮太のこと好きだったんじゃね?」
「うわ、それなら大成功じゃん!」
「やめて……」
声が震える。
「お願いだから、笑わないで……」
「自分は青木って奴を笑ったくせに?」
「それは……」
「そいつも同じこと言ったんじゃねえの?」
「…………」
「同じじゃん?」
「ち、違うの。あたしは和哉に頼まれて……」
「頼まれたらなにしてもいいんだ?」
「そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どんなつもりだったの?」
「ちょっとした遊びで……」
「これも遊びだよ」
「えっ……」
「だから、お前も笑えよ」
「…………」
「楽しいだろ?」
楽しいわけがない。
胸が痛い。
息が苦しい。
今すぐ逃げたいのに足が動かない。
「ウソだよね……?」
「まだ言うか?」
「亮太君、あたしのことを嫌いじゃないよね?」
「好きじゃねえよ」
「じゃあ今まで優しくしてくれたのは?」
「幼馴染だったから普通に接してただけ」
「なら……これからも……」
「無理」
「どうして?」
「興味ないから」
亮太君が冷たい目を向けてくる。
「自分は平気でやったくせに、やられるのは嫌なんだ?」
「平気じゃない! 今は反省してる!」
「じゃあ青木に許してもらったの?」
「それは……」
「謝れてもいないんだろ?」
「それは和哉の妹が邪魔するから!」
「人のせいにすんなよ」
「っ……」
「人のせいばっか。ダセェな」
視界が涙で滲む。
夕日も。
フェンスも。
亮太君の顔も。
全部がぐちゃぐちゃになる。
「ひどいよ……」
「なにが?」
「こんなことするなんて……ひどすぎるよ……」
「青木って奴にも同じこと言える?」
「…………」
「あいつがお前に告白されて喜んでたかは知らねえけどさ」
亮太君があたしへ一歩近づく。
「信じた相手からウソでしたって笑われる感じはどう?」
「やめて……」
「つらいか? すごくつらいか?」
「やめてよ……」
「気持ちを教えてくれよ」
「もうやめて!!」
叫んだ。
それでも笑い声は止まらない。
耳を塞ぎたい。
でも両腕が動かなかった。
体から少しずつ力が抜けていく。
あの日、屋上で立ち尽くしていた青木君。
あたしが好きだと言った時、驚いていた。
少しだけ嬉しそうにも見えた。
返事をしようとした瞬間、和哉たちが出てきた。
みんなで笑った。
あたしも笑った。
『ごめん。本気にした?』
あの時は青木君がなにも言えなくなったことを面白いと思った。
ただの遊びだと思っていた。
「…………」
今なら分かる。
あの時の青木君も。
こんな気持ちだったのかもしれない。
信じたかった。
ウソだと言われても、なにかの間違いだと思いたかった。
笑われるたびに胸が苦しくなって。
恥ずかしくて。
悔しくて。
消えてしまいたくなる。
「うぅ……」
涙が止まらない。
両脚に力が入らなくなり、力尽きるように両膝から崩れ落ちた。
硬い床へ膝をぶつけたけど、痛みなんてほとんど感じなかった。
「亮太君……」
泣きながら顔を上げる。
「ごめんなさい……」
「俺に謝ってどうすんだよ」
「違うの。あたし……」
「もう帰ろうぜ」
亮太君が男子たちへ声をかける。
「そうだな。腹減った」
「駅前寄っていこうぜ」
「動画どうする?」
「あとでグループに送って」
「消して……」
あたしは必死に声を絞り出す。
「お願い……その動画、消して……」
「聞こえねえ」
「亮太君……待って……」
立ち上がろうとする。
でも脚が震えて動けない。
亮太君はそんなあたしを見下ろした。
幼い頃から何度も見てきた顔。
ずっと好きだった顔。
その口元に優しい笑みはなかった。
「ご苦労さん」
それだけ言い残し、亮太君は背中を向けた。
「待って……」
男子たちも笑いながら後へ続く。
「お願い……一人にしないで……」
誰も振り返らない。
屋上の扉が開く。
楽しそうな話し声が少しずつ遠ざかっていく。
「亮太君……」
バタン。
扉が閉まった。
「…………」
取り残されたのはあたしだけ。
夕方の冷たい風が髪を揺らす。
「うぅ……うあぁ……」
両手を床につく。
涙がぽたぽたと落ちていく。
「ごめんなさい……」
誰へ向けた言葉なのか自分でも分からない。
青木君なのか。
亮太君なのか。
それとも、なにも知らずに浮かれていた自分なのか。
返事はない。
他に誰もいない屋上には、あたしの泣き声だけが残った。




