第19話 涙
和哉の足音が遠ざかっていく。
「…………」
完全に聞こえなくなってから俺は玄関のドアを閉めた。
鍵をかける。
念のためドアチェーンもかけておく。
「はぁ……」
ドアに手をついたまま大きく息を吐いた。
心臓がうるさい。
右手も小さく震えている。
俺、本当に和哉の拳を掴んだんだよな。
今さら怖くなってきた。
もし、あのまま殴り合いになっていたら。
和哉が引き下がらなかったら。
そう考えただけで膝から力が抜けそうになる。
「…………」
でも。
俺より先に確認しないといけないことがある。
「和美ちゃん、大丈夫?」
俺は振り返った。
和美ちゃんは少し離れたところに立っていた。
俯いたまま動かない。
以前に和哉へ怒鳴っていた姿とは別人みたいだった。
「和美ちゃん?」
「…………」
返事がない。
もしかして、どこか殴られたのか。
俺が止めるのに間に合わなかった?
「どこか痛い? 和美ちゃ――」
「信吉さん!」
「うわっ!?」
和美ちゃんが勢いよく駆け寄ってくる。
そのまま俺の胸へ飛び込むように抱きついた。
「か、和美ちゃん?」
「…………」
細い腕が俺の背中へ回る。
制服を強く握られた。
俺と和美ちゃんの体がぴったりとくっついている。
いつもなら、それだけで頭の中が真っ白になっていたと思う。
でも今は違った。
和美ちゃんの体が震えている。
俺の胸に顔を埋め、必死になにかを堪えていた。
「どうしたの?」
「……怖かったです」
小さな声。
耳を澄ませていないと聞き逃してしまいそうなくらい。
「和美ちゃん……」
「殴られると思ったら体が動かなくなりました」
「…………」
「目を閉じることしかできませんでした」
背中へ回された腕に、さらに力が入る。
「私、威勢だけよくて……力ずくで来られると、なにもできません」
「そんなこと――」
「……事実です」
「…………」
「本気で殴ろうとしている顔を見たら怖くなって……」
和美ちゃんの声が震える。
「避けることもできなかったです。信吉さんが止めてくれなかったら、私……」
「もう大丈夫だよ」
「私……弱いですよね」
胸に顔を埋めたまま和美ちゃんが呟いた。
悲しそうな泣き声が聞こえる。
俺の制服へ温かいものが触れた。
泣いている。
あの和美ちゃんが。
和哉を睨みつけて。
宮下さんを追い払って。
俺がなにもできない時に、何度も守ってくれた和美ちゃんが。
「そんなことないよ」
俺は和美ちゃんの頭へ手を置いた。
ピンク色の髪を毛並みに沿ってゆっくり撫でる。
「和美ちゃんは強いよ」
「えっ……?」
和美ちゃんが俺の胸から顔を上げる。
紫色の瞳には涙が溜まっていた。
目元も赤くなっている。
「今なんて……」
「和美ちゃんは弱くなんかない。強いよ」
「でも、私……何もできませんでした」
「できなくて当たり前だよ。殴られそうになったんだから」
「でも……」
「俺だって怖かった」
「信吉さんも?」
「うん。ものすごく怖かったよ」
俺は小さく笑いながら和美ちゃんへ右手を見せる。
まだ少し震えていた。
「ほら」
「…………」
「本当は今すぐ逃げたかった。和哉がもっと怒ったらどうしようとか、俺まで殴られたらどうしようとか、ずっと考えてた」
「それなのに、どうして……」
「和美ちゃんが殴られる方が嫌だったから」
「っ……」
和美ちゃんが息を呑む。
「気づいたら体が動いてた。自分でも驚いたよ」
「信吉さん……」
「だから怖くなることは弱いってことじゃないと思う」
「…………」
「和美ちゃんは何度も俺の前に立ってくれただろ?」
学校へ行くのが怖くなった俺を迎えに来てくれた。
教室へ入れずに立ち止まった時は手を握ってくれた。
和哉には自分のことのように怒ってくれた。
宮下さんが俺へ話しかけてきた時だってそうだ。
「和美ちゃんは教室で俺を守るために和哉へ怒ってくれた」
「…………」
「クラスのみんなが見ていたのに大声で和哉のしたことを話してくれただろ?」
「それは、信吉さんが傷つけられたのが許せなかったので……」
「普通は、あんなにたくさんの人が見ていたら怖くなるよ」
「でも……」
「休み時間になるたびに、俺の教室にも来てくれた」
「信吉さんが心配でしたから」
「宮下さんにも怒ってくれたよな」
「あの人は当然です。信吉さんにあんなことをしておきながら今さら近づこうとしたので」
「和哉に手首を掴まれた時は股間も蹴ったし」
「それも当然です。あれが離さなかったので」
「俺には絶対できないよ」
「信吉さんがやったら大変なことになりますからね」
「そういう問題なの?」
「男性同士でそこを蹴るのは少し卑怯な気がします」
「和美ちゃんが蹴るのはいいんだ?」
「正当防衛です」
涙を流しながらも和美ちゃんが少しだけ頬を膨らませる。
その顔を見て俺は安心した。
いつもの和美ちゃんが少しだけ戻ってきた。
「とにかく和美ちゃんが俺を守ってくれたことは変わらないよ」
「…………」
「弱い人なら、絶対にできない」
「本当……ですか?」
和美ちゃんが涙声で聞いてくる。
「うん。本当だよ」
「信吉さんは私のことを強いと思ってくれていますか?」
「思ってるよ」
「こんなに震えているのに?」
「俺も震えてるから、お互い様だな」
「泣いていても?」
「泣きたい時は泣けばいいよ」
「怖いって言っても?」
「言っていいよ。俺の前では我慢しなくていいから」
「…………」
和美ちゃんの目から、また涙がこぼれた。
「それにさ」
「……はい」
「ずっと和美ちゃんに守ってもらってたから、今度は俺の番だったんだと思う」
「信吉さんの番……」
「うん。和美ちゃんが困った時くらい俺が助けたい」
「…………」
「まあ、今日はたまたま上手くいっただけかもしれないけど」
「そんなことありません」
「えっ?」
「信吉さんは私を守ってくれました」
和美ちゃんが俺の服を掴む。
「本当は怖かったのに、あれの前に立ってくれました」
「うん」
「あれの拳を掴んで、もう二度と私に手を上げるなって言ってくれました」
「よく覚えてるね」
「忘れるわけないじゃないですか」
和美ちゃんの頬が涙で濡れたまま赤くなる。
「すごく……格好よかったです」
「そ、そうかな」
「はい。今まで見た信吉さんの中で一番格好よかったです」
「それはちょっと恥ずかしいな」
「恥ずかしがらないでください。私は本気で言っています」
「分かったよ」
「それに嬉しかったです」
「嬉しかった?」
「信吉さんが私のために怒ってくれたことが」
「…………」
「私を傷つけるなら許さないって言ってくれたことが、本当に嬉しかったです」
和美ちゃんが泣きながら笑う。
さっきまでの怯えた表情とは違う。
安心したような。
何か大切なものを見つけたような笑顔だった。
「和美ちゃん」
「はい」
「もう一度言うけど和美ちゃんは弱くないよ」
「…………」
「俺を守るために何度も怖いことへ立ち向かってくれた。そんな和美ちゃんが弱いわけないだろ?」
「信吉さん……」
「さっきなにもできなかったことを、気にしなくていいよ」
「でも、また同じことがあったら……」
「その時は俺が守るよ」
「……信吉さん」
和美ちゃんは顔を赤くして俺を見つめる。
俺は和美ちゃんを安心させるように微笑んだ。
頭へ乗せていた手を動かし、優しく撫でてあげる。
「弱くないから安心して」
「……はい」
和美ちゃんの目からまた涙が流れる。
だけど今度の涙はさっきまでとは少し違うように見えた。
「ありがとうございます」
和美ちゃんが再び俺の胸へ顔を埋める。
両腕を背中へ回し、ギュッと抱きついてきた。
「和美ちゃん?」
「もう少しだけ、このままでいさせてください」
「……うん。いいよ」
「信吉さんの近くにいると安心します」
「そっか」
「それに温かいです」
「和美ちゃんも温かいよ」
「…………」
「もう怖くない?」
「少しだけ怖いです」
「じゃあ落ち着くまでこうしていようか」
「はい」
和美ちゃんは俺へ抱きついたまま、ゆっくり両目を瞑った。
俺はその頭を何度も優しく撫でる。
「大丈夫だよ」
「はい……」
「もう大丈夫だから」
「……ありがとうございます、信吉さん」
玄関には、もう和哉の存在はない。
聞こえてくるのは和美ちゃんの小さな呼吸だけ。
俺は和美ちゃんが離れるまで、ずっとピンク色の髪を撫で続けた。




