第11話 休み時間
一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「それじゃあ今日はここまで。日直、号令」
「起立、礼」
挨拶を終えると、先生が教科書を抱えて教室を出ていく。
それと同時に張りつめていた教室の空気が一気に緩んだ。
「ねえ、次の授業って移動だっけ?」
「昨日のテレビ見た?」
「腹減った。購買行こうぜ」
あちこちから話し声が上がる。
俺は椅子に座ったまま、そっと息を吐いた。
「……終わった」
もちろん授業の内容が難しかったわけじゃない。
いや難しくなかったと言えばウソになるけど問題はそこじゃなかった。
この教室で和哉や宮下さんと一緒に授業を受けること。
それ自体が俺にとってはかなりの負担だった。
いつなにを言われるか分からない。
後ろから笑われるんじゃないか。
また、あのときみたいにみんなの前で恥をかかされるんじゃないか。
そんなことばかり考えていた。
先生が黒板に文字を書くたびにノートへ視線を落とし、できるだけ周りを見ないようにしていた。
幸い授業中は何も起こらなかった。
和哉も宮下さんも俺に話しかけてこなかった。
それだけで十分だった。
「…………」
俺は机の端に置いていた筆箱をカバンへしまう。
このまま次の授業が始まってくれればいい。
休み時間なんてなくていい。
今までなら授業から解放されるこの時間が待ち遠しかったのに今日は逆だった。
先生がいなくなった教室で、なにかされるかもしれない。
そう思うと、どうしても落ち着けなかった。
帰りたい。
朝から何度目か分からない言葉が頭に浮かぶ。
でも逃げたら余計に笑われる。
それに。
『私、今日から休み時間や昼休みの空いた時間は信吉さんのクラスにいるようにします』
和美ちゃんの言葉が頭に蘇った。
「……大丈夫」
小さな声で自分に言い聞かせる。
朝だって和美ちゃんのおかげで教室へ入れたんだ。
一時間目も無事に終わった。
きっとこの休み時間も――。
「信吉さん!」
「えっ?」
聞き慣れた声が教室に響いた。
反射的に顔を上げる。
教室の入り口に和美ちゃんが立っていた。
少し息を弾ませながら、こちらを見つめている。
俺と目が合った瞬間、和美ちゃんは迷うことなく駆け出した。
「し、失礼します!」
誰に向けて言ったのか分からない挨拶をしながら机の間を抜けてくる。
「信吉さん! 大丈夫でしたか?」
和美ちゃんはそのまま俺の席まで来ると、机へ両手をついた。
「う、うん」
「本当ですか? 変なことされませんでしたか?」
「されてないよ」
「嫌なことを言われたり、後ろから何か投げられたり、教科書を隠されたりしていませんか?」
「大丈夫だって。まだ一時間授業を受けただけだから」
「でも、あれなら授業中でもやりかねません」
あれって。
ちょくちょく気になっていたけど実の兄に向ける呼び方じゃない。
「本当に何もされてないよ。心配してくれてありがと」
「……本当ですか?」
「うん」
「机の中も大丈夫ですか?」
「見たけど何も入ってなかった」
「カバンは?」
「ずっと足元に置いてたから大丈夫」
「体は?」
「体?」
「どこか痛いところはありませんか?」
「ないよ。ほら、ちゃんと無事だから」
俺は和美ちゃんを安心させるために両腕を軽く広げてみせた。
和美ちゃんは俺の頭から足元まで、じっと確かめるように見る。
しばらくして、ようやく納得してくれたらしい。
「そうですか。……安心しました」
胸に手を当て、ほっとしたように息を吐いた。
その表情を見ていると、こっちまで肩の力が抜けていく。
俺のために、こんなに急いで来てくれたんだ。
たぶんチャイムが鳴った瞬間、自分の教室を飛び出してきたんだろう。
「わざわざ来てくれたの?」
「はい。信吉さんが心配でしたから」
「でも、和美ちゃんの教室、ここから少し離れてるよね?」
「走ればすぐです」
「廊下は走っちゃ駄目なんじゃ……」
「早歩きです」
「息切れてるけど」
「ものすごく速い早歩きです」
「そ、そうなんだ」
それなら仕方ない。
どう見ても走ってきたようにしか見えなかったけど、和美ちゃんが早歩きだと言うなら早歩きなんだろう。
「…………」
「…………」
少し気持ちが落ち着いたところで、妙な静けさに気づいた。
さっきまで騒がしかったはずの教室が、いつの間にか静かになっている。
いや完全に静かになったわけじゃない。
みんな小声では話している。
ただ、その視線のほとんどが俺たちに向けられていた。
「……すごく見られてるね」
「そうですね」
和美ちゃんは周りを見回すこともなく、あっさり答えた。
気にならないのだろうか。
俺はめちゃくちゃ気になる。
和美ちゃんは一年生。
俺とは学年もクラスも違う。
しかも和哉の妹だ。
そんな和美ちゃんがチャイムが鳴って数分で俺の教室へ駆け込んできた。しかも教室に二度目の登場。
それだけでも注目されるには十分なのに朝は手を繋いで一緒に教室へ入っている。
そりゃあ、みんな気になるよな。
俺だって逆の立場なら見ると思う。
「ご、ごめん。和美ちゃんまで見られてる」
「どうして信吉さんが謝るんですか?」
「だって俺のところに来たせいで……」
「私は自分が来たくて来ています」
和美ちゃんはきっぱりと言った。
「誰になにを思われても見られても構いません。それより信吉さんが一人で不安な思いをしている方が嫌です」
「和美ちゃん……」
「それに見たい人には好きなだけ見せておけばいいんです」
「つ、強いね」
「信吉さんの前ですから」
それはどういう意味だろう。
俺を安心させるために強がってくれているのか。
それとも俺の前では弱いところを見せたくないのか。
どちらにしても、その言葉は嬉しかった。
「…………」
そんな和美ちゃんの肩越しに和哉の姿が見えた。
自分の席の近くで、いつもの友人たちに囲まれている。
「今村、さっきの先生の顔見たか?」
「ああ」
「なんかおもろかったよな」
「……そうだな」
「今村?」
和哉は友人たちの話をまったく聞いていなかった。
体だけはそちらへ向けているのに視線は真っ直ぐ俺たちへ向いている。
正確には和美ちゃんを見ていた。
いや。
俺を見ている。
口元を引きつらせ羨ましそうに俺を睨んでいた。
自分の妹が真っ先に俺のところへ駆け寄ってきたことが、よほど気に入らないらしい。
それとも相手にしてくれない和美ちゃんに構われてるのが羨ましいのか?
昨日までなら、あの目を向けられただけで俯いていたと思う。
なにかされる。
また笑われる。
そう考えて、できるだけ存在を消そうとしていた。
でも今は。
「…………」
俺の目の前には和美ちゃんがいる。
それだけで今までとは少し違った。
もちろん怖くないわけじゃない。
和哉の視線に気づいた瞬間、体が固まった。
けれど俯く前に。
「…………」
和美ちゃんがゆっくり振り返った。
「この!」
キッ。
鋭い視線が和哉へ突き刺さる。
「うっ……」
遠くにいるはずなのに和哉が小さく怯んだのが分かった。
和美ちゃんは、なにも言わない。
ただ無言で睨んでいる。
けれど、その目は明らかに語っていた。
俺に、なにかしたら許さない。
そんな声が聞こえてきそうだった。
「今村、どうした?」
「い、いや、なんでもねえよ」
「さっきからどこ見てんだ?」
「見てねえって。ほら、次の授業の話だろ?」
「そんな話してなかったけど」
「細かいことはいいんだよ」
和哉は慌てて顔を逸らし、友人たちの会話へ戻っていった。
急に声が大きくなっている。
分かりやすい。
あれだけ偉そうにしていた和哉が妹に睨まれただけで目を逸らして動揺した。
その姿を見ていると少しだけ胸の奥がすっとした。
「もう大丈夫です」
和美ちゃんが何事もなかったように俺へ向き直る。
「す、すごいね」
「なにがですか?」
「いや……和哉、すぐに目を逸らしたから」
「あれは昔から都合が悪くなると逃げるんです」
「そうなんだ」
「もしまた信吉さんを睨んできたら、すぐ教えてください」
「教えたらどうするの?」
「私がなんとかします」
「毎回?」
「毎回です」
和美ちゃんが胸を張る。
「あれの対応は任せてください」
「た、助かるよ」
「はい。なにも心配しなくて大丈夫です」
頼もしい。
本当に頼もしいんだけど、これではどちらが年上なのか分からない。
俺の方が先輩のはずなのに完全に守られている。
「…………」
ふと教室の反対側へ目を向ける。
宮下さんは自分の席に座っていた。
周りには誰もいない。
机の上に教科書を開き、俯いたままじっとページを見つめている。
でも、さっきから一度もページをめくっていなかった。
文字を読んでいるようには見えない。
ただ顔を上げたくないから教科書を見ているふりをしている。
そんな感じだった。
和美ちゃんの存在を意識しないようにしているのかもしれない。
昨日のことを知られていると分かっているから気まずいのだろう。そんな推測が立てられる。
「…………」
俺が見ていることに気づいたのか宮下さんがほんの少し顔を上げた。
一瞬だけ目が合う。
けれど宮下さんはすぐに視線を逸らした。
その直後。
和美ちゃんも宮下さんへ顔を向ける。
「っ……」
宮下さんの肩が小さく揺れた。
教科書へ顔を近づけ、さらに深く俯く。
「和美ちゃん」
「はい?」
「大丈夫だから」
「……そうですか?」
「うん。今はなにもされてないから」
「信吉さんがそう言うなら」
和美ちゃんは宮下さんから視線を外した。
今すぐなにか言いに行くつもりだったのだろうか。
危なかった。
和哉に対する怒りを見れば分かる。
和美ちゃんは本気だ。
俺が止めなければ、この教室で直接問い詰めていたかもしれない。
でも。
そんな和美ちゃんが俺の言葉で引いてくれたことが少し嬉しかった。
「次の授業、遅れない?」
「まだ大丈夫です」
和美ちゃんが時計を見る。
休み時間は残り3分ほどだった。
「そろそろ戻った方がいいんじゃない?」
「チャイムが鳴るまではここにいます」
「でも、ここから和美ちゃんの教室まで少しあるよ?」
「間に合います」
「また、ものすごく速い早歩き?」
「はい」
「先生に怒られないようにね」
「信吉さんが心配なので仕方ありません」
「それ先生に通用するかな……」
「事情を話せば分かってくれます」
「本当に?」
「はい」
「たぶん、分かってくれないと思う」
「では私が分かってもらえるまで説明します」
「余計に授業が始まらないよ」
思わず笑ってしまった。
ほんの少し前まで休み時間が怖かった。
和哉に何か言われるんじゃないか。
宮下さんにどんな顔をすればいいのか。
クラスメイトたちに笑われるんじゃないか。
そんなことばかり考えていた。
なのに今は和美ちゃんと普通に話せている。
笑うことまでできている。
「信吉さん」
「ん?」
「少し元気になりましたか?」
和美ちゃんが俺の顔を覗き込んでくる。
「……うん。和美ちゃんが来てくれたから」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「よかったです」
和美ちゃんは安心したように笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。
俺なんかのために、ここまでしてくれる。
朝、一緒に学校まで来てくれた。
教室へ入れなかった俺の手を握ってくれた。
そして今も休み時間になった途端に様子を見に来てくれた。
「ありがとう、和美ちゃん」
「どうしてまたお礼を言うんですか?」
「言いたくなったから」
「それなら、どういたしまして」
予鈴が鳴った。
「あっ」
和美ちゃんが教室の時計を見る。
「ほら、急がないと」
「はい。次の休み時間も来ますから」
「えっ?」
「朝に言った通りです」
「いや、毎回来なくても大丈夫だよ」
「来ます」
「でも――」
「来ます!」
「……はい」
俺に拒否権はないらしい。
和美ちゃんは満足そうに頷く。
「それでは、またあとで」
「うん。またあとで」
和美ちゃんは名残惜しそうに俺を見たあと、教室の入り口へ向かう。
和美ちゃんが教室を出ると、クラスメイトたちの視線が再び俺へ集まった。
けれど、さっきまでのような怖さはなかった。
次の休み時間になれば、また和美ちゃんが来てくれる。
そう思うだけで、少しだけ強くなれた気がした。
結局、和哉も宮下さんも俺に近づいてこなかった。
クラスメイトたちも遠巻きに見ているだけで、なにかを言ってくることはなかった。
こうして俺は和美ちゃんのおかげで何事もなく休み時間を過ごすことができた。




