第10話 校舎裏での和美の決意
俺と和美ちゃんは人気のない校舎裏に移動していた。
教室から少しでも離れたくて歩き続け、気づけば校舎の裏側まで来ていた。
ここには古びたベンチと自動販売機が一台ある。
聞こえてくるのは自動販売機の低い機械音だけだった。
「…………」
「…………」
「ちょっと待ってて」
「えっ?」
俺は和美ちゃんをベンチに座らせて自動販売機の前に向かった。
たまたまポケットに入れていた財布から硬貨を取り出して投入口へ入れる。
なにを買えばいいか迷ったけど、こういう時は水が無難だろう。
ボタンを押す。
ガコンッ。
下からペットボトルを取り出し、和美ちゃんのところへ戻った。
「はい、これ」
「……私にですか?」
「うん」
「でも、お金が……」
「水くらい気にしなくていいよ」
「…………」
和美ちゃんは少し迷ってから両手でペットボトルを受け取った。
「……ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
俺は和美ちゃんの隣に腰を下ろす。
和美ちゃんがキャップへ右手をかける。
きゅっ。
「…………」
キャップは開かない。
「んっ……」
もう一度、力を込める和美ちゃん。
それでも開かない。
右手が痛むのか、途中で少しだけ顔をしかめる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。これくらい開けられますから」
和美ちゃんがペットボトルを持ち直す。
今度は両脇を締め、さっきよりも強くキャップを握った。
「むぅ……」
体ごと右へ捻る。
開かない。
今度は反対へ捻る。
それでも開かない。
「…………」
ピンク色の髪が体の動きに合わせて左右へ揺れている。
キャップを開けようとしているだけなのに、いつの間にか全身を使う運動みたいになっていた。
「んんっ……!」
さらに力を込める。
ボトルの中央が少しへこんだ。
だけど肝心のキャップはびくともしない。
「か、固すぎます……」
「そんな体ごと捻っても開かないと思うけど」
「で、でも、もう少しで開きそうです」
「本当に?」
「本当です」
言いながら和美ちゃんがもう一度挑戦する。
だけど右手へ力を入れた瞬間、また眉を寄せた。
さっき和哉を叩いた手だ。
あれだけ大きな音がしたんだから痛くないはずがない。
「ちょっと貸してみて」
「えっ……」
「俺が開けるよ」
「い、いえ。自分でできますから」
「その手じゃ無理でしょ」
「できます」
「じゃあ、なんで和美ちゃんまで一緒に回ってるの?」
「こ、これは勢いをつけているんです」
「体に?」
「そうです」
「余計に開かないと思うけど」
「…………」
和美ちゃんが恥ずかしそうに俯く。
それでも諦めきれないのか、キャップに手をかけようとした。
「ほら、貸して」
「……お願いします」
ようやく諦めて俺へペットボトルを差し出す。
受け取った俺はキャップを握り、力を入れた。
カチッ。
手応えと一緒に、簡単に開いた。
「はい」
「…………」
「どうしたの?」
「いえ……信吉さんは簡単に開けられるんですね」
「和美ちゃんは手を痛めてるからだよ」
「痛めていなくても、開けられなかった気がします……」
「そ、そんなことないんじゃないかな」
「今、目を逸らしましたよね?」
「逸らしてないよ」
「逸らしました」
和美ちゃんが少しだけ頬を膨らませる。
さっきまで怒りと悲しみでいっぱいだった表情が、ようやく和らいだ。
それを見て俺も安心する。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう……ございます」
和美ちゃんは恥ずかしそうにペットボトルを受け取った。
キャップが開いていることを確かめ、口元へ運ぶ。
ごくっ。
ごくっ。
休むことなく勢いよく飲み続ける。
「そ、そんなに急いで飲まなくても水は逃げないよ」
「ごくっ……ごくっ……」
聞こえていないのか、それとも止まれないのか。
ペットボトルの中身が、どんどん減っていく。
半分ほど飲んだところで、ようやく口を離した。
「ぷはぁ……」
和美ちゃんが長く息を吐く。
飲み口を見つめてから今度は小さく息を整えた。
「少し落ち着きました」
「それはよかった」
「すみません。半分も飲んでしまいました」
「和美ちゃんのために買ったんだから全部飲んでいいよ」
「でも信吉さんは喉が渇いたりしてないですか?」
「俺は大丈夫」
「…………」
和美ちゃんが疑うような目を向けてくる。
「な、なに?」
「信吉さんの『大丈夫』は、あまり信用できません」
「うっ……」
「昨日も全然大丈夫ではなかったのに大丈夫と言っていましたから」
「それを言われるとなにも言い返せない」
「ですから喉が渇いているなら言ってください」
「本当に今は大丈夫だよ」
「本当ですか?」
「本当」
「私の目を見て言えますか?」
「言えるよ」
和美ちゃんの紫色の瞳を見る。
昨日は、こうして目を合わせることさえできなかった。
だけど今は少し恥ずかしくても目を逸らさずにいられる。
「大丈夫」
「……今回は本当みたいですね」
「信用してもらえてよかったよ」
「信吉さんには前科がありますから」
「大丈夫って言っただけで前科になるの?」
「私の中ではなります」
和美ちゃんが、ほんの少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。
さっきまで和美ちゃんのことが心配で仕方なかった。
こんなふうに笑ってくれるなら水を買ってよかったと思う。
「右手、見せて」
「えっ?」
「まだ痛いんでしょ?」
「痛くありません」
「じゃあ、もう一本買ったら今度は自分で開けられる?」
「…………」
「開けられないよね?」
「少しだけ……痛いです」
「やっぱり」
和美ちゃんは諦めたように右手を差し出した。
手のひらが赤くなっている。
指先もわずかに震えていた。
「かなり赤いよ」
「でも、これくらい平気です」
「今度は和美ちゃんが強がってる」
「…………」
「さっき俺に言ったばかりなのに」
「信吉さんにだけは言われたくありません」
「それはそうかも」
俺たちは顔を見合わせる。
どちらからともなく小さく笑った。
「あとで保健室行きなよ」
「分かりました」
和美ちゃんは素直に首を縦に振る。
「……信吉さん」
「うん?」
「さっきは、すみませんでした」
「何が?」
「信吉さんのクラスで、あんなに大声を出してしまって」
和美ちゃんがペットボトルを見つめる。
「信吉さんは昨日のことを他の人に知られたくなかったかもしれないのに。私、腹が立って、なにも考えられなくなってしまって……」
「確かにそれはあるね」
「やっぱり……」
「でも嫌じゃなかったよ」
「えっ?」
「俺の代わりに怒ってくれて嬉しかった」
「…………」
「クラスのみんなも和哉たちがしたことはひどいって言ってくれたし。俺がおかしかったわけじゃないって、やっと思えたから」
「信吉さんはなにもおかしくありません」
和美ちゃんが、すぐに顔を上げる。
「悪いのは嘘告を計画して実行した奴らです」
「うん。和美ちゃんのおかげで、そう思えるようになった」
「私の……おかげですか?」
「うん。ありがとう」
「…………」
和美ちゃんの頬が赤くなる。
目を合わせてくれなくなったけど口元は少しだけ緩んでいた。
「ただ叩いたのは驚いたけどね」
「や、やっぱり怖かったですか?」
「ちょっとだけ」
「…………」
「でも、それ以上に嬉しかった」
「どっちなんですか……」
「両方かな」
「ひどいです」
「ごめん」
もうすぐ教室へ戻らないといけない。
そう考えた途端、胸の奥が少しだけ重くなった。
当然、和哉は、まだ教室にいる。
宮下さんも。
昨日、一緒になって俺を笑った男子たちもいる。
クラスメイトたちからは、また視線を向けられるだろう。
「信吉さん」
「ん?」
「教室に戻るの怖いですか?」
「…………」
すぐに大丈夫とは言えなかった。
「少しだけ」
「そうですよね」
「でも、だいぶ和らいでるよ」
「…………」
「和美ちゃんも自分の教室に戻らないといけないでしょ?」
「それは……そうですけど」
「さ、行こうよ」
「…………」
和美ちゃんは、なにも答えない。
なにかを考え込んでいる。
「和美ちゃん?」
「信吉さん、私決めました」
突然、和美ちゃんが言い出す。
「決めたって、なにを?」
「私、今日から休み時間や昼休みの空いた時間は信吉さんのクラスにいるようにします」




