第九話 兄の覚醒
# 第九話 兄の覚醒
ローゼンクロイツ侯爵邸へ戻った夜は、雪の代わりに細い春雨が屋根を打っていた。
大公領で過ごした凛冽な空気のあとでは、王都の春雨はどこか湿って、生暖かく感じる。私は一晩休んだのち、翌日の夕刻、兄の書斎を訪ねた。
「兄さま、よろしいでしょうか」
「アデリーヌか。入りなさい」
ライナス・フォン・ローゼンクロイツ。私の三つ年上の兄は、卓上に広げた領地の収支書類から顔を上げた。蝋燭の火に照らされた横顔は、亜麻色の髪と、母譲りの優しい灰青の瞳を持っている。
書斎の暖炉では、薪が静かに爆ぜていた。私が扉を後ろ手に閉めると、兄はそれだけで何かを察したように、書類を脇へ寄せた。
「閂を、お願いします」
兄は黙って立ち上がり、書斎の扉に閂を下ろした。
部屋の灯りは、卓上の蝋燭が二本と、暖炉の火だけだった。
「アデリーヌ。何の話だ」
「兄さまにしか、申し上げられないことがございます」
私は卓を挟んで兄と向かい合い、深く息を吸った。
二度目の人生で、初めて、誰かに過去を打ち明ける夜だった。
「兄さま。これからお話しすることは、笑い飛ばしていただいて構いません。それでも、最後までお聞きください」
「ああ」
「私は、十九歳で死にました」
兄の眉が、わずかに動いた。けれど、笑い飛ばしも、咎めもしなかった。私が冗談で口にする類いの話でないことは、この三年ほどの私の様子の変化から、薄々察してくれていたのだろう。
書斎の壁際の柱時計が、低く一度、時を刻んだ。深夜の静けさの中で、その音はやけにはっきりと耳に届いた。私は両手を膝の上で重ね、自分の指先がほとんど震えていないことに、少しだけ驚いた。これを兄に告げるのは、最も怖いことのひとつだったはずなのに。
「続けなさい」
私は、語った。
結婚式の日、王宮大聖堂の控室で、リリスが運んできた水晶の杯。あの薄紅色のお茶。一口で膝が崩れたこと。ヴィクトール殿下が「お父さまには事故と説明を」と告げた声。リリスが「十一年、よく演じきったでしょう」と笑ったこと。絨毯の上に滲んだ薄紅色と、銀の髪の影。そこで意識が途切れ、目を覚ましたのが十六歳の自室の朝だったこと。
建国祭の朝、すなわち、婚約者選定の儀の日。私が王太子に指名され、二度目の不幸に向かって歩き出すはずだった、あの日。
兄は途中、一度も口を挟まなかった。
ただ、卓の上に置かれた両手の指が、組み合わされていくのが見えた。指の節が白くなるほど、強く。
「そして、兄さま」
ここからが、本当に告げねばならないことだった。
私は声を低めた。
「兄さまは、私の死から二年後、戦地で命を落とされました」
兄の灰青の瞳が、はっきりと揺れた。
「俺が、戦死……?」
「ええ。北東の国境で、メルクリウス帝国軍との小競り合いに巻き込まれてのご最期だったと。生きて聞いた話ではございません。あの控室で意識が途切れる間際、欠片のように視た光景の中に、その報せがございました。私自身は、あの日に死んでおりますから、兄さまの最期を直接見たわけではございません」
「……」
「兄さまは、私の死を信じたまま戦地に向かい、戻りませんでした」
書斎の中の空気が、しんと鎮まった。
暖炉の薪が、また一度ぱちりと爆ぜた。
兄は、何も言わず、ゆっくりと目元を片手で覆った。
長い、長い沈黙だった。指の隙間から、わずかに息が漏れる音が聞こえた。私はその様子を、急かさずに眺めていた。
やがて、兄は手を下ろした。
目元は、わずかに濡れていた。
「アデリーヌ」
「はい」
「お前が選定の儀の朝、突然『大公さまにご挨拶を』と言い出したとき、俺は内心、お前の頭がどうかしたのではと案じていた」
兄が小さく、自嘲するように笑った。
「お前が婚礼の支度の合間に侍女頭ティルダを抱きしめて泣いたと聞いたときも、花嫁前の感傷だろうと流した。お前が後妻イザベラに笑顔で薬草茶を勧めなくなったときも、社交の疲れだろうと思った」
「兄さま」
「全部、お前なりの兆しを出してくれていたのだな。俺は、それを読まなかった」
兄は卓を回って、私の前に来た。
そして――驚いたことに、その場で片膝を折った。
立っているはずの兄が、座っている私の前に、まっすぐ膝をついた。次期当主になる男の、これは尋常な姿勢ではなかった。
「兄さま、お立ちください」
「アデリーヌ」
「お立ちくださいませ」
「いや。聞け」
兄は、頭を垂れたまま続けた。
「兄として、詫びる。一度目のお前を、信じてやれなかったことを」
「兄さま」
「お前は、母上が亡くなってからずっと、後妻と義妹のあいだで、たった一人で耐えていた。兄として、何度それに気づきかけたか分からない。その都度、俺は『父上の選んだ家族だ』と自分に言い聞かせて、目を逸らしていた」
「……」
「お前を独りで死なせた一周目の俺を、俺自身が決して赦さない」
私は、声が出なかった。
代わりに、両手で兄の頭に触れた。亜麻色の髪は、母の形見のように柔らかかった。
一周目、私が最後まで信じていたのは、王太子でも父でもなく、この兄の存在だった。けれど、信じきってもなお、私は兄に何も話せなかった。話せば兄を巻き込んでしまう、と。
今、私は話した。話すことが、兄を生かすと信じて。
「兄さま。どうか、頭をお上げくださいませ」
「アデリーヌ」
「私は兄さまをお赦しするために、この話を申し上げたのではございません。兄さまに、戦死しない未来を歩んでいただくために、申し上げました」
兄が顔を上げた。
濡れた灰青の瞳の奥に、これまで見たことのない種類の光が宿っていた。覚悟、と呼ぶべきものだったのだと、後になって思う。
「これからは、お前の剣だ。次期当主としてではない、お前の兄として」
兄は、跪いたままそう誓った。
その声は、低く、揺るぎがなかった。
一周目、私はこの声を、戦地への赴任の朝にしか聞けなかった。あの朝、兄は私に「行ってくる」とだけ言って屋敷を出た。私は花嫁衣装の試着で疲れていて、玄関先まで送りに出ることもしなかった。あれが、最後に直接交わした言葉だった。
今、その声が、私の前で、私のために誓われている。
「兄さま」
「指図しろ。何でもいい」
私は、深く息を吸った。
卓の上には、領地の収支書類。脇には、王宮派閥への献金記録。一周目、ローゼンクロイツ家を蝕んでいた王宮派閥との癒着の証拠が、すべてここにある。
「では、兄さま」
私は声を整えた。
「ローゼンクロイツ家を、王宮派閥から切り離します」
「具体的には」
「ひとつ、後妻イザベラの離縁準備。父さまが応じない場合は、教会法上の婚姻取消しを視野に入れます。後妻が連れてきたリリスの戸籍上の出自に、いずれ綻びが出ます。出生証明書の偽造についての痕跡を、メルクリウス帝国の商館にティルダがすでに察知しております。それを兄さまに引き継ぎます」
「……出生証明書の偽造?」
「リリスは、後妻イザベラの実子ではございません。連れ子という設定そのものが、隣国メルクリウス帝国による工作です」
兄の顔が、明らかに強張った。けれど、彼はすぐに頷いた。一周目、私が信じてもらえなかった話を、二周目の兄は最初から疑わずに受け取ってくれている。それだけで、私は胸が熱くなった。
「ふたつ、領地経営の独立化。王都の貴族銀行から借りている短期債を、シュヴァルツヴァルト大公国の金庫に置き換えます。利率はノクトさまが特別にご手配くださる手はずでございます。これで、王太子派閥が父さまの背中を借金で押さえ込むことができなくなります」
兄は、卓上の収支書類のうち、上から二枚目を指で軽く弾いた。それは王都の貴族銀行から届いた督促状の写しだった。一周目、私はこの督促状の存在すら知らなかった。兄が一人で抱え込み、戦地への赴任を「武勲のため」と装って、家計を縮める口実にしていたのだと、後から書簡で知った。今度は、その重荷を兄一人に背負わせはしない。
「大公さまが、そこまでなさるのか」
「私の婚約者でいらっしゃいますもの」
私はそう答えた。微かな笑みが、自然と唇に上ったのが分かった。
「みっつ、兄さまの当主継承の前倒し。父さまが体調を崩していらっしゃるという建前で、兄さまが領地経営の代行をなさるところから始めます。父さまをご隠居に近い立場へ移し、後妻イザベラの侯爵夫人としての権限を段階的に削ぎます。書類上の権限から、屋敷の財布、女主人としての社交権限まで、ひとつずつ」
兄は、しばらく目を閉じていた。
それから、深く息を吐いた。
「お前は、本当に、変わったな」
兄の視線が、私の指先で止まっていた。
卓の縁に置いた私の手は、震えていなかった。十六歳の頃の私の手は、社交の話になるたびに袖口の縁を握りしめる癖があった。今、その癖は出ていない。一周目の私と、二周目の私を、兄はその指先ひとつで区別しようとしていた。
「変わるしかなかったのです」
兄は深く頷き、もう一度卓上の書類に目を落とした。
羽ペンを取り、紙の余白に「ローゼンクロイツ家、王宮派閥脱却の手順」と書きつけていく。一画一画の整った字で、兄が一周目の自分を捨て去ろうとしているのがよく分かった。文字には、その人の覚悟がいつも宿る。
私は卓の向かい側で、自分の指先を一度握り直した。一周目、私が信じられたのは結局、兄でも父でも王太子でもなく、自分の死の記憶だけだった。今度は違う。卓を挟んで紙にペンを走らせる兄が、もう私一人の記憶ではない。
「いや。お前は、もともと聡い娘だった。一周目の俺は、それを甘やかしと取り違えて、お前から考える機会を奪っていた。今のお前は、奪われなかったお前だ」
その言葉は、今夜のどの言葉よりも、私の胸の奥に重く残った。
兄が立ち上がった。私の前に、剣を捧げる騎士のように右手を差し出した。
「アデリーヌ。お前の兄であり、お前の剣として、この計画に署名する」
私はその手を取った。
長い男の手だった。一周目、兄の戦死の報を聞いたとき、私はこの手をもう一度握ることができないのだと知って絶望した。
今、その手は、生きて温かい。
「お願いいたします、兄さま」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
春雨は、いつの間にか上がっていたようだった。窓の外、薄い雲の切れ目から、月の輪郭がのぞいていた。
兄は卓に戻り、もうすでに頭の中で組み立て始めた段取りを、紙に書きつけ始めていた。羽ペンの先が走るたび、王宮派閥の貴族の名と、領地の役職名が並んでいく。誰を残し、誰を切るか。誰の伝手を借り、誰を表に立てるか。一周目、後悔の中で戦地へ赴いたという兄は、もうここにはいなかった。代わりに、卓の上に地図を広げる司令官のような顔をした男が、私の隣にいた。
「兄さま」
「なんだ」
「私、戦地で兄さまをお迎えに行かなくて、よろしいでしょうか」
羽ペンを動かす手が、一瞬だけ止まった。
兄は顔を上げず、紙の上に視線を落としたまま、低く笑った。
「迎えになど来るな。俺は、お前の婚礼に出る」
その一言に、私は息を細く吐いた。蝋燭の炎が、わずかに私の頬を温めた。
ローゼンクロイツ侯爵家は、この夜から、王宮派閥から少しずつ抜け出していく。
兄妹二人だけの誓いを、月だけが見届けていた。
(第九話 了 / 約4,900字)




