第十話 聖女偽装の罠
# 第十話 聖女偽装の罠
王都の中央に立つ大聖堂は、白い石灰岩を積み上げた巨大な建物だった。
高い尖塔と薔薇窓、空へ伸びる銀の十字架。日中は信徒の祈りで賑わい、夕刻になれば荘厳な祈祷の声が街路にまでこぼれる。
けれど、夜が更けてからの大聖堂は、別の顔を持つ。
影と密談の場としての顔だ。
「ティルダの諜報網は、本当に底が知れぬな」
馬車の中、ノクトさまが低く呟いた。
馬車は大聖堂の裏手、聖具室へと続く石畳の細い路地に止まっていた。御者は気配を殺し、馬は鼻先に布を巻かれて息を潜めている。
手元の小さな書付には、ティルダから届いた今夜の密会の予定が記されていた。義妹リリス、教会レーヴェン枢機卿、午後十時、聖具室裏の控室。
「老侍女ひとりに、この王都の闇まで動かさせるとは」
「ティルダの目は、母の代から侯爵家を見ております。あの娘は、母の仕えていた老司祭たちの伝手をいくつも握っているのです」
私は、目深に被ったフードの陰から、大聖堂の裏口を見やった。
ノクトさまも漆黒の外套に身を包み、闇に溶け込んでいた。私の隣に座る大公の輪郭は、影の中ではなおさら静かで、頼もしかった。
「行くか」
「はい」
*
聖具室の裏には、神官たちが祈りの合間に身を休める小さな控室がある。
扉の鍵は、母の代に大聖堂へ寄進した銀の燭台と引き換えに、母を慕ってくれていた老司祭ベルナール師が今でも一本、私のために残してくれていた。
今夜、その鍵が役に立つ。
ティルダの伝手で、私とノクトさまは事前に隣室の物置に潜んでいた。物置の壁には、控室と通じる古い通風口がある。そこから声を拾うのだ。
息を殺し、ノクトさまの肩越しに通風口へ耳を寄せる。蝋燭の灯りが控室から漏れ出してきて、壁に細い橙の線を引いていた。
やがて、控室の扉が開いた。
「枢機卿さま」
甘やかな声がした。
義妹リリスの声。だが、屋敷で聞き慣れた「お姉さま」と呼ぶときの上ずった愛らしさはない。むしろ、低く、滑らか、訓練された声だった。一周目、絨毯の上で「十一年、ずっとお姉さまが早く死ぬのを待っていたのよ」と告げた、あの声に近い。
「お待たせしてしまいまして」
「よい。座られよ、リリス嬢」
もう一つの声は、しわがれた老人のもの。教会レーヴェン枢機卿だ。
椅子の引かれる音、衣擦れ。蝋燭の灯りがふっと揺れた。
「枢機卿さま、私の聖女覚醒の儀式は、いつになるのでございましょう?」
リリスの第一声が、それだった。
「光属性の偽装には、まだ準備がいる。あと二月、待たれよ」
「二月も?」
リリスの声が、はっきりと尖った。
「枢機卿さま。私が王太子妃となるまで、あと半年もないのですよ。妃となる前に、聖女の称号がほしいのです。それでこそ、私は完全になるのです」
「焦るでない。光属性の儀式は、ただ偽魔法陣を仕立てるだけでは済まぬ。教会の長老衆を抱き込み、奇跡の演出に立ち会わせる神官を選び抜き、目撃者となる貴族を仕込む。一つでも穴があれば、貴族議会で疑義を持ち出される」
「メルクリウス帝国からのお力添えは?」
リリスの声が、ふと一段、低くなった。
帝国の名が出た瞬間、私はノクトさまの肘に指先で触れた。ノクトさまも、ごくわずかに頷いた。
ティルダの諜報網が摑んでいた、もうひとつの線が、ここでつながる。
「帝国メルクリウスからは、すでに『白百合』の使者が王都入りしておる。シュタイナー卿という名で、商館の二階に部屋を取った。聖女覚醒の儀の演出は、帝国の魔導工房が任にあたる」
「……シュタイナー」
リリスが、その名を確かめるように呟いた。
知っている名のようだった。声色からは、安堵と緊張が同時に伝わってきた。
「リリス嬢、忘れぬように。聖女覚醒の儀は、お主一人のための儀ではない。教会と帝国と、いずれは王太子殿下を取り込んでの、大きな盤上の一手だ」
盤上、という言葉に、私は唇の内側を噛んだ。
あの方たちは、自分の駒の位置を恐ろしくよく心得ている。けれど、盤の縁に水が滲み始めていることには、まだ気づいていない。盤を傾けるのは、私ではなく、盤そのものの重みだ。私はただ、滲んだ水の流れる先を、わずかに変える。
「分かっております、枢機卿さま」
「分かっておるのなら、二月、待て」
リリスは、しばらく沈黙した。
蝋燭の灯りに、長く伸びた人影が壁に揺れた。
「分かりました」
彼女は、ようやくそう答えた。
「ですが、枢機卿さま。お姉さまは……ローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌは、シュヴァルツヴァルト大公の保護下にあります。私が聖女となるまでに、お姉さまをどう処理なさるおつもりですか」
ノクトさまの肩が、ほんのわずかに張った。
私はそっと、その肩に手を置いた。
「処理は、わしの仕事ではない。教会は手を汚さぬ。お主と、王太子殿下の仕事だ」
「……」
「もっとも、シュヴァルツヴァルト大公という男は、思った以上に厄介だ。若くして『氷の戦神』と呼ばれるだけある。下手に手を出せば、ローゼリア王国そのものが大公国と帝国の代理戦場になりかねぬ」
「それでも、お姉さまは生かしておけません」
リリスの声が、はっきりと冷えた。
「お姉さまの瞳には、ときどき妙なものが映ります。私の所作を見透かしているような、こちらの内側を視ているような……」
通風口越しに、リリスの声がほんの少し震えた。
演技ではない震えだった。彼女が「白百合」という諜報の影でどれだけ訓練を積んでこようと、自分の本性を見透かされることへの本能的な怯えは、声の震えに出る。
ノクトさまの肩越しに、私はその震えを聞き取った。一周目の私には、決して聞くことのできなかった、義妹の素の声だった。
「《見極めの瞳》か」
枢機卿が、低く呟いた。
「ローゼンクロイツの本流に、《見極めの瞳》が眠るとは聞いておった。母君が早くに亡くなって、伝承は途絶えたと思うていたが」
「それを、ご存じだったのですか?」
「教会の古文書庫には、クロイツ家に関する記録が少しある。お主の任務に関わるゆえ、いずれ写しを渡そう。だが、まずはお主の聖女覚醒だ。手順を間違えるな」
二人の声は、それからしばらく低く続いた。
帝国メルクリウスの使者シュタイナーの所在、王都の魔導工房の住所、聖女覚醒の儀に巻き込む予定の貴族の名。一つひとつ、私はノクトさまの掌の上に指で文字を書いて記憶を共有した。書きつけて残せば、見つかったときに私の側に被害が及ぶ。
やがて、二人は別れの挨拶を交わし、控室の扉が静かに閉まった。
蝋燭の灯りが、消えた。
*
馬車の中、車輪の音だけが石畳を打っていた。
大聖堂の裏路地を抜け、馬車は王都の街並みを縫って走り出した。
「あの方たち、本当に派手に堕ちていきますね」
馬車の窓越しに、王都の夜空が流れていく。星はまばらで、けれど月だけが妙に冴え冴えと冷たかった。
私はノクトさまの肩越しに、毛皮の襟巻きを引き寄せながら、もう一度笑みをこぼした。
「お姉さま、と呼びながら毒杯を運んできた妹は、二度目の人生では聖女の冠をご自分でねだっていらっしゃいます。お似合いですわ。リリスにも、あの王太子殿下にも、それぞれにふさわしい舞台がいくつも用意される」
「お前は、手を出さないのか」
ノクトさまが、いつもと同じ抑揚で問うた。
「証拠を握っているだけで、十分です」
私は静かに答えた。
「どうせご本人たちが、もっと派手な舞台を用意してくださいますから。聖女覚醒の儀、王太子妃の冊立、メルクリウス帝国との密約。あの方たちが舞台に立てば立つほど、足元の薄氷は割れていきます。私はその割れ目に、指を一本添えるだけ」
「水を、引き入れる」
「ええ。たとえば、教会の長老衆の中に、亡き母を慕ってくださる方が一人」
私はノクトさまに、ベルナール師の名を告げた。
母の生前、ローゼンクロイツ家の小礼拝堂に毎月通ってくださっていた老司祭。今は大聖堂の最奥、古文書庫を任される静かな立場にある。レーヴェン枢機卿の派閥には属さない、孤高の人。
「あの方に、聖女覚醒の儀に関する古典の写しを、ひとつ確認していただきます。教会内部に偽装の動きが進んでいることを、ベルナール師が独自にお気づきになる筋書きにします」
「お前ではなく、老司祭が気づく筋書きを描くのか」
「ええ。あの方が長年大切にしておられる『教会の純潔』への信念を、お借りするだけです。ベルナール師が動けば、教会内に小さなさざ波が立ちます。レーヴェン枢機卿は、それを抑えるためにさらに杜撰な手を打つでしょう」
ノクトさまは、しばらく窓の外を見ていた。やがて、低く笑った。
「お前は、まことに恐ろしいな」
「恐ろしいのは、私ではございません。ご自分の罪を私のせいにする人々の方ですわ」
ノクトさまは私に、毛皮の外套をもう一枚、肩からかけてくれた。
馬車の振動の中、私はふと、あの死の間際に見た欠片を呼び戻した。
絨毯の上で死んだあと、王宮では大々的な葬儀が行われたという。教会レーヴェン枢機卿が説教壇の上で、リリスを「殉教者の妹」と呼んで持ち上げ、義妹を「悲嘆に暮れる清き乙女」として国民に印象づける、そんな光景が、欠片の中にあった。あの偽装の起点が、いつ、どこで仕組まれたのか。今夜、私はその源流を、自分の耳で聞いた。
あの夜と違う。
今夜は、私が聞いている側だ。
絨毯の上で死ぬ女ではなく、馬車の中で結末を選ぶ女として、私はここにいる。
「ノクトさま」
「ん」
「ご一緒に、温かいものでも召し上がりませんこと? 屋敷へ戻ったら、ティルダに白葡萄酒を温めさせます」
ノクトさまは、目を細めた。
「ご相伴に与ろう」
馬車は、王都の中央通りを横切った。
石畳に車輪が当たる音、馬の蹄の音、御者の声。すべてが一周目とほとんど変わらない。けれど、馬車の中の空気だけが、決定的に違う。隣に座っている人が違うからだ。一周目、私はこの時刻、王太子殿下の馬車に乗ってお茶会から帰っていることが多かった。あの方は、馬車の中ではほとんど私と目を合わせなかった。今、私の隣の方は、車内の薄闇の中でも、わずかな視線の変化にも気づいてくれる。
大聖堂の銀の十字架が、夜の雲の切れ目で一瞬、月明かりを受けて光った。
あの十字架の下で、聖女と呼ばれたい娘と、聖女を作りたい老人が、危うい均衡の上で踊っている。
私は、その均衡にほんのわずかな傾きを作るだけだ。
ふと、馬車の振動の合間に、ノクトさまの声が落ちてきた。
「アデリーヌ」
「はい」
「あの娘は、お前のことを、視られている、と感じていた」
私は手元のグラス代わりの両手を、膝の上に揃えた。リリスが控室で漏らした言葉――「お姉さまの瞳には、ときどき妙なものが映ります」。あの一言を、ノクトさまも聞き逃さなかったのだ。
「……ええ。気づかれぬよう、気配を抑えていたつもりですが」
「《見極めの瞳》は、視るだけで気配を残す。お前にしか出ない波紋だ。あの娘は、本能でそれを察している」
ノクトさまの声には、咎める色はなかった。むしろ、私の血に眠るこの瞳のことを、誰よりも丁寧に扱おうとしてくださる響きがあった。
「ご一緒にどうぞ、と申し上げた舞台を、本人たちが走り抜けてくださっているのです。私は道筋を整えるだけ。瞳は、必要なときにしか開きません」
ノクトさまは、それ以上は問わなかった。代わりに、私の指先を一度、覆うように包んでくださった。私は目を閉じて、その温度に身を預けた。馬車の車輪は、石畳から土の道に変わり、ローゼンクロイツ邸の門前へと近づいていた。
(第十話 了 / 約5,100字)




