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死に戻ったので元婚約者は義妹に譲ります 〜お似合いのお二人ですから、最後までご一緒にどうぞ〜  作者: 鷹居鈴野


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第十一話 蜜月の影

# 第十一話 蜜月の影



 春が深まり、王都は花々の盛りを迎えていた。

 王宮の中庭では薔薇が咲き誇り、噴水のまわりには貴族夫人たちのドレスの裾が連日波打っている。新しい王太子妃となるリリスと、その婚約者ヴィクトール殿下の蜜月が始まったからだ。

 舞踏会、観劇、狩猟祭、王宮園遊会。連日のように王宮では華やかな催しが続き、招待状の数だけで邸宅の卓上が埋まると、ティルダがほとほと呆れていた。



「お嬢さま。今宵もまた、王宮夜会のお招きが」



「お受けいたします。ノクトさまも王都に滞在中ですから、お二人で揃って出席する旨、お返事を」



「畏まりました」



 私はその晩、慎重に装いを選んだ。

 絹の薄藍のドレスは、ノクトさまが大公領の織師に発注してくださった一着。袖口と襟元には銀糸でシュヴァルツヴァルト家の双頭の鴉が控えめに刺繍されている。胸元には、母の形見の蒼石。耳には小さな氷青の雫。

 派手にはしない。けれど、誰の目にも「シュヴァルツヴァルト大公の婚約者」と分かる装い。

 主戦場は王宮ではない、と決めていても、出るときは決して負けない姿で出る。



 *



 王宮夜会の大広間は、たいそう賑やかだった。

 白大理石の柱の間に並べられた銀の燭台。シャンデリアからは無数の蝋燭が垂れ下がり、磨き上げられた床に光の点を散らしている。



 その中央近くに、すでにリリスがいた。

 桃色の髪を高く結い、白いドレスに王家の紋章を染め抜いた肩掛けを羽織って、貴族夫人たちを侍らせている。十六歳とは思えない堂々とした佇まいで、給仕にお茶の好みを指図し、夫人たちに微笑みを振り撒いている。

 古参のロートリンゲン伯爵夫人が、扇の陰でわずかに眉をひそめたのが、私には視えた。



「侯爵令嬢の妹君が、こうも前にお出になるなんて」



「王太子妃と決まったわけでもございませんのに、もう女主人気取り」



 扇の陰の囁きを、リリスは気づいていない。

 いや、聞こえていても気にしていない、というほうが正しい。彼女は今、自分が王太子妃の冠の手前まで辿り着いたという事実に酔っている。一周目、私が王宮の祭壇まで歩いていったあのときと、似た酔い方だ。



 私はノクトさまに腕を取られて、広間の入り口で名乗りを上げた。



「シュヴァルツヴァルト大公ノクトさま、ローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌさま、ご臨席」



 大広間の空気が、ほんの一瞬、私の側へと流れた。

 漆黒の礼服に身を包んだノクトさまの長身と、薄藍のドレスの私が並ぶ姿は、リリスの白い派手さとは別の一対の絵を作る。古参貴族たちの視線が、私たちの方へと吸い寄せられる。リリスの周りの夫人たちも、扇の陰でちらりと目を上げた。

 主役は、必ずしも、声が大きい者ではない。



 舞踏が始まり、私はノクトさまと一曲だけ踊った。

 ノクトさまは舞踏に長けていらっしゃる方ではない。一周目では一度も踊ったことのない方だ。それでも、私の指先と腰に置かれた手は、淀みなくこの方の歩幅を伝えてくれる。剣を扱う手の人だと、踊っている間も伝わってくる。

 広間の中央で踊る私たちを、貴族夫人たちはじっと見つめていた。あれは婚約者を妹に譲った薄情な姉、という囁きが、今宵この瞬間、別の囁きへと書き換えられていく。シュヴァルツヴァルト大公が、初めて公の場で女性と踊った。それも、笑みに近い表情を浮かべながら。一周目の社交界では、誰一人として見たことのない光景だ。

 曲が終わり、私たちが広間の端へと退いたところに、ふいに桃色の髪が割り込んできた。



「お姉さま」



 リリスだった。



「お久しぶりですわ。大公領の暮らしはお気に召しまして?」



「ええ、おかげさまで。雪山の空気が肌によろしかったわ」



「まあ、よろしゅうございましたこと」



 リリスは扇を閉じて、私の頬を覗き込むようにした。



「でも、お姉さま。最近お痩せになって。大公さまのご寵愛が足りないのではなくて?」



 扇の陰で、ロートリンゲン伯爵夫人の扇がぴたりと止まるのが分かった。十六の娘が姉に向かって投げる言葉ではない。けれど、リリスは私の答えを待つ顔のまま、無邪気な微笑みを保っていた。

 無邪気を装える者だけが武器にできる、無遠慮な刃。

 私は、ゆっくりと扇を開いた。



「リリス」



 声を、わずかに低めた。

 あの夜、控室の絨毯の上に立っていた義妹を見上げていたときと同じ、視線の角度。けれど今、私は座っていない。立っている。



「あなたこそ、顔色がお悪いわ」



 リリスの、桃色の睫毛が小さく揺れた。



「王太子殿下のご寵愛が、思ったより重かったのかしら。お痩せになっていらっしゃるのは、お姉さまではなく、リリス、あなたの方ではなくて?」



 扇の陰で、貴族夫人たちが小さく息を漏らした。くすくすと、わずかな笑い声がいくつも重なる。

 リリスの白い首筋が、瞬時に青ざめた。

 彼女の頬骨はわずかに尖り、化粧の下の肌艶は確かに以前ほどではない。古参貴族たちの目には、それがすでに見えていた。私は、彼女自身も気づいていなかったその痩せ方を、この場で名指しただけだった。



「お姉さま、ご冗談を」



「冗談などと。義妹のことを案じるのは、姉として当然でしょう。婚礼の支度のお疲れなら、お薬を差し入れますわ」



「結構でございます」



 リリスはそそくさと扇で口元を覆い、貴族夫人たちの輪へと戻っていった。

 戻った先で、夫人たちはすでにリリスから少し距離を取り始めていた。一人、二人と扇の角度を変えていく仕草が、私には鮮明に見えた。



 *



 広間の隅で、ノクトさまが微かに笑った。



「腕を上げたな」



「お褒めにあずかり光栄ですわ」



 私は扇の陰でそっと吐息をついた。

 心臓が、ほんの少しだけ熱を持っていた。一周目の私には、リリスにあのような言葉を返すことなど決してできなかった。夫人たちの輪から外されることが、どれほど怖かったか。今、私はその輪を恐れていない。背後にノクトさまがいる、という単純な事実が、私の声を低めることを赦してくれた。



 その夜の終盤、もう一つ、興味深い光景が広間にあった。

 ヴィクトール殿下が、若い男爵令嬢の手を取って中庭の方へと姿を消したのだ。

 扇の陰で、私はそっと氷青の瞳に魔力を薄く乗せた。殿下と男爵令嬢の魂の輪郭が、わずかに見えた。殿下のそれは相変わらず鉛色に淀み、男爵令嬢のそれは細く震えていた。彼女もまた、どこかで誰かに使われている駒のひとりなのだろうと、瞳の奥に焼き付けておく。

 今夜の収穫は、噂の通り殿下が浮気を続けているという確証と、その相手の魂の震え方を覚えておけたこと。それで充分だった。

 貴族夫人たちのあいだで、扇の陰の囁きが波のように広がった。



「あの令嬢は、エルマー男爵の長女ではなくて?」



「殿下、リリスさまとお決まりになったばかりですのに」



「もう三人目ですわ。一人目は令嬢デルマール、二人目は侍女頭の姪御」



 囁きを聞きながら、私は扇を仰いだ。

 一周目、私はこの方の浮気の噂を、最後の最後まで「政務上のお付き合い」と信じていた。今は信じる必要がない。一周目と寸分違わぬ展開で、二度目のヴィクトール殿下も浮気の癖を抑えきれていない。あの方は変わらない。リリスを婚約者と決めても、変わらない。



 リリスがその様子に気づいたのは、しばらく経ってからだった。

 貴族夫人の輪を外され、孤立した彼女がふと中庭の方を見やったとき、その瞳が一瞬、ぎょっとするほど据わった。緑の瞳の奥に、無垢を装う仮面の下から、本性らしき色がのぞいた。

 嫉妬と苛立ち。

 この方の本性が、徐々に表に出始めている。



 *



 夜会を辞して屋敷へ戻ったのは、夜半過ぎだった。

 雪山ほどの冷気はないが、王都の春の夜風はまだ夜気を含んで頬を撫でる。私はノクトさまと共に屋敷の温室へ案内された。

 ローゼンクロイツ邸の温室は、母が生きていた頃の遺産だ。硝子の天井の下、母の好んだ白い百合と、銀苔と、季節を選ばぬ蘭が息づいている。



「お二人、想像以上に早く沈み始めました」



 私は籐椅子に腰を下ろしながら、温めた白葡萄酒のグラスを両手で包んだ。湯気がほのかに立ちのぼる。



「リリスは古参貴族の輪から外れ始め、王太子殿下は浮気を止められない。お互いがお互いの躓きを呼び込んで、お二人で仲良く沈んでいかれますわ」



「お前の手間が省けて何よりだ」



 ノクトさまは唇の端に微かな笑みを刻んで答えた。

 その笑みを見られたのは、ローゼリア王宮の絶対零度を知る者には信じがたいことだろう。けれど、私の前ではこの方は、ときどき、こうして人の貌をする。



 硝子越しの月明かりが、ノクトさまの黒髪に薄く落ちていた。

 ふと、私の隣に座っていたはずのこの方が、立ち上がって私の前に立った。籐椅子に座る私を見下ろす形になった。



「アデリーヌ」



「はい」



「お前に、礼を言わねばならぬことがある」



「礼?」



「ローゼンクロイツの兄君、ライナス殿のことだ。あの方が、王宮派閥との癒着を断ち、大公国の金庫に債務を移す決断をなさった。あれは、お前が一周目の話をなさったからだろう」



 私は、息を一つ呑んだ。

 兄との書斎の夜のことを、ノクトさまには直接お話ししていない。けれど、この方は察している。夢の断片として、一周目の何かを覚えていらっしゃるからだ。



「兄さまをお救いしただけです。私のためではなく」



「いや。お前のためでもある」



 ノクトさまの指先が、椅子の肘掛けに触れた。

 その指先の影が、私の手の甲にかかった。



「お前が一人で死ななくて済むように、お前が一人で背負わなくて済むように、兄君は剣を取られた。お前が誰かに頼ることを覚えてくれたことに、私は救われている」



「ノクトさま」



 私の声が、わずかに揺れた。

 この方は、ご自身が私を救っているという顔をなさらない。むしろ、私が誰かに頼る姿を見ることに、ご自身が救われると言ってくださる。

 それは、一周目の私が決して知らなかった種類の優しさだった。



 ノクトさまの手が、私の頬の輪郭を確かめるように撫でた。冷気の残る指先は、雪山の城で初めて触れられたときと同じ、けれど少しだけ熱い温度をしていた。

 私は目を閉じた。

 唇に来るのかと、わずかに身構えた。けれど、ノクトさまの口づけは、私の額に静かに落ちた。



 ほんの一瞬の、慎ましい温度。

 婚約者として、初めての触れ合いだった。



 胸の奥で、何かが小さく溶けていくのを感じた。

 あの控室で死んだ私の、最後の冷たさが。



「アデリーヌ」



「はい」



「もう少しだけ、お前のそばにいる」



「ええ。どうぞ」



 私は、目を伏せたまま頷いた。

 月明かりが、温室の硝子を透して、二つの影をひとつに重ねていた。

 王宮ではリリスとヴィクトール殿下が、それぞれの蜜月を派手に演じている。私たちはここで、誰にも見せない静けさを共にしている。

 ノクトさまが私の傍らに腰を下ろした。籐椅子はわずかに軋み、けれどそれ以上の音は出ない。母の遺した白百合の鉢から、夜気にやわらかな香りが立ちのぼっていた。

「アデリーヌ。お前の母君は、よい花を遺された」

「母は、白百合と銀苔がお好きでした。派手なものはあまり好まず、香りの淡いものばかりを集めていらっしゃいました」

「お前と、似ておられたのだろうな」

 私は微笑んで、グラスを卓へ置いた。

 一周目の私は、母の好んだこの温室にすら、ほとんど足を運べなかった。社交、舞踏、王太子殿下のお茶会。後妻イザベラに「侯爵令嬢たるもの華やかな席に」と急き立てられて、私は母の遺した静けさを、自分の生活から少しずつ削っていた。

 二度目の今、私はまた、母の場所に戻ってきていた。母の好んだ百合の香りの中で、母も知らなかった人と、これから生きていく約束をしている。

 主戦場は、王宮ではない。

 戦は、しずかな場所から始まっている。



(第十一話 了 / 約5,100字)



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