第十二話 魔脈鉱山
# 第十二話 魔脈鉱山
ローゼンクロイツ侯爵領の北端には、銀色の岩肌を露出させた峰が連なっている。
古来「魔脈鉱山」と呼ばれるこの山々は、地脈に沿って魔石を産する地として大陸でも数少ない要衝で、王国の魔導士団が用いる魔石のおおかたは、この山から運ばれた粒の中から選ばれてきた。
管理権はローゼンクロイツ家にある。
建国の時代に、王家と古代魔術師クロイツの一族が交わした旧き約束によって、魔脈の采配は侯爵家の手にゆだねられている。それが二百年余り、争われたことのない秩序だった。
もっとも、魔脈が特別視される理由は、魔導士団の魔石需要だけではなかった。古い伝承では、この山から採れる最上級の魔石――核晶と呼ばれる大粒のものは、かつて滅びた王朝が操っていたという「魂を核とする兵器」を動かすための力の源になっていたのだという。真偽の定かでない、母の蔵書の隅に残された走り書きの注記でしかない。けれど、母の走り書きをふと思い出したこのとき、王太子がこの鉱山にこれほど固執する理由が、王国の防衛のためという建前だけではないのかもしれない、と私は初めて、うっすらと勘繰った。
その秩序を、王太子ヴィクトールが揺らがそうとしている。
兄ライナスからその報せを受けたのは、ある朝、まだ薔薇の花弁に夜露が残るころのことだった。
兄は自室の文机の前に立ち、白い封筒を一通、私の前に置いた。封蝋には王家の獅子の紋が深く沈んでいる。
「王宮会議への招集だ。当主代理の名義で、私に呼び出しがかかった」
封筒の宛名を読みながら、私は短く息を吐いた。
ヴィクトール殿下が動き始めた。一周目では、三年後、私の婚礼の前段に密やかに進んだ計画が、二度目の世では時期を早めて表に出ようとしている。
「ご用件は、魔脈鉱山の王宮直轄化、ですわね」
兄が、私の顔を見た。
驚きはなかった。最近のライナスは、私の口から飛び出す予言じみた言葉を、もう疑わない。
「お前のところに、もう情報が届いているのか」
「いいえ。ただ、殿下が次に欲しがるものは何かを考えていたら、たどり着いただけですわ」
兄は何も言わずに頷いた。
*
一周目の私は、魔脈鉱山という言葉さえ、婚礼の半月ほど前まで知らなかった。
婚約者の殿下が、お父さまの体調を気づかうふりをして「侯爵家のご負担を、王家が分かちもちましょう」と何度も口にしていた意味も、わかっていなかった。
あの愛おしげな笑みの奥で、彼が見ていたのは銀の岩肌だけだった。私の死後、リリスを妻に据えてローゼンクロイツ家を吸い上げる絵図の、その中心に、この鉱山があった。
二度目は、そうはさせない。
私は文箱の鍵を開け、深い場所からひと束の古文書を取り出した。
羊皮紙は、わずかに黄ばんでいる。ローゼンクロイツ家の地下文書庫で、古い棚の埃をかぶっていたものだ。母の生前、幼い私の手を引いて見せてくれた書き付けの一つ。
「兄さま、これを王宮にお持ちになって。会議の場で、必ず開いてくださいませ」
ライナスが羊皮紙を広げ、文字をたどる。
古い文字でしたためられた一節に、目が留まる。
――王家の魔脈は、クロイツの血が絶ゆるまで王家の手を離る。
「旧約か」
「ええ。建国時の盟約。クロイツ家の血が一筋でも残るかぎり、王家は魔脈に手を出してはならない、とあります。お父さまも、私も、ライナスも、みなクロイツの血を引いておりますわ」
兄の眉が、わずかに動いた。
「これを、いつ用意した」
「お母さまが亡くなる少し前、ご自身で書庫から取り出して、私に見せてくださいました。意味はわからずとも、覚えてはおりました」
厳密には、十六歳のあの朝に戻った私が、母から教わった場所を確かめに行っただけだった。
古文書はそこにあった。母の意志は、十一年前のあの日、すでに私の中に種として植わっていたのだろう。
「殿下は、これをご存じない?」
「ご存じなくて当然ですわ。王宮の正式記録には残っておりません。建国時の旧約は、王家の私的な書庫と、ローゼンクロイツ家の私的な書庫にしか写しがございませんから」
兄は古文書を懐に納め、深く息を吸い込んだ。
その背中が、出会ったころよりずいぶんと大きく見えた。一周目では当主代理どころか、王宮派閥の末席で空回りしていた人だ。今は、当主代行として、王宮の卓に旧約を突きつけに行く。
「行ってまいる」
「兄さまの威光、王宮にしっかりと刻んでまいりませ」
いつものように敬語で送り出すと、兄は珍しく、口の端をわずかに緩めた。
*
その日、王宮では魔脈鉱山に関する御前会議が開かれた。
私はもちろん臨席はしていない。けれど、後で兄から仔細を聞いたとき、その光景は不思議なほど鮮やかに脳裏で組み上がった。
会議の卓を囲むのは、宰相、財務大臣、神官長、そして王太子ヴィクトール。父王陛下は玉座に近い肘掛け椅子で、議事を見守っている。
王太子はまず、整然とした論理を並べた。
「魔脈鉱山は王国の戦力に直結する資源でございます。ローゼンクロイツ家ご当主のご病弱な御身を慮り、運用は王宮直轄に移すのが、双方の幸いと存じます」
言葉だけ聞けば、王家の温情にも聞こえる。
ライナスはその場で深く一礼し、淡々と古文書を取り出した。
「殿下のお気遣い、まことに恐れ入ります。されど、当家にはこのような旧き約束がございます」
羊皮紙が、卓に広げられる。
神官長がまず文字を追い、目を見開いた。宰相が次に覗き込み、白い眉根を寄せた。
最後に父王陛下が老いた指で羊皮紙の表面をなぞり、低く唸った。
「これは、確かに余の父祖の文字だ。建国の盟約。魔脈は、クロイツの血が絶ゆるまで、王家の手を離る、と」
王太子の顔色が、変わった。
兄から聞いた限りでは、そのときの殿下は、ほんの一瞬、瞳孔がひらいたようだったという。すぐに整え直された貴公子の顔つきの下で、王太子は内心で何を罵ったのだろう。
「父上、しかし旧約と申されましても、現在の王国の状況に照らせば」
「ヴィクトール」
父王の声が、低く割り込んだ。
「旧約は旧約だ。王家がみずから結んだものを、王家がみずから踏みにじることはならぬ。ローゼンクロイツの血が絶ゆるまで、魔脈の采配は彼らに委ねる。これは、今日この場で改めて確認する」
会議は、それで終わった。
王太子は最後まで微笑を絶やさなかったというが、その微笑は薄氷のように、いつ割れてもおかしくない種類のものだった。
*
同じ日のことである。
大公国シュヴァルツヴァルトの使者が、密かにローゼンクロイツ侯爵邸を訪れた。
黒の外套をまとった男が、ノクトさまの親書を私に直接手渡してくる。
封蝋は、シュヴァルツヴァルト家の双頭の鴉。
「ご令嬢。我が君より、交易協定の一案にございます」
書面に目を通す。
大公国とローゼンクロイツ侯爵領との間で、魔石の優先交易と関税優遇を結ぶ案。額にすれば王宮の歳入を脅かすほどではないが、一度結ばれれば、ローゼンクロイツ領の経済は王宮よりも大公国に強く結びつく。
経済の盾、と呼ぶにふさわしい一手だった。
「殿下によろしくお伝えくださいませ」
私は文机に向かい、了承の返書を認めた。
兄ライナスにも事前に話を通してある。古文書での旧約と、大公国との交易協定。表と裏で同時に動かすことが、王太子の野心を萎ませる近道だった。
*
夕刻、王宮から戻った兄は、応接間の長椅子に深く腰を下ろし、ふうと長い息をついた。
「お前のおかげだ、アデリーヌ」
「兄さまの威光が示せて、何よりでしたわ」
兄は薄く笑い、それから珍しく窓の外を眺めた。
春の宵闇の中、薔薇の蕾が膨らみつつある。
「王宮の評判が、面白いことになっている」
「と、申しますと?」
「殿下の評判だ。建国時の旧約も知らずに鉱山接収を口にされた、という声が、廊下の隅で囁かれている。古参の貴族ほど、その囁きを口の端に乗せている」
私はゆるく目を伏せた。
王太子の表向きは、慈愛と理想の貴公子。だが王宮の本流は、表向きの慈愛よりも、旧約の重みを尊ぶ古参貴族たちで成り立っている。
その古参の口元に、一筋のひびが入った。
ひびは、放っておけば勝手に広がる。私はそれを、ただ見守るだけでよい。
*
その夜、王宮の奥、王太子妃となるべき令嬢のためにあてがわれた寝室で。
絹の寝間着姿のリリスが、ヴィクトールの胸ぐらにすがりついていた。
「殿下、鉱山のお話、どうなさるおつもりですの?」
「……父上が旧約を盾にとった。今は引くしかない」
「困りますわ」
リリスの声は、甘やかなのに、芯のところが冷たい。
「鉱山が手に入らねば、私たちの計画はどうなるのです? 殿下のお力を信じて、私はここまで参りましたのに」
「他にも手はある」
ヴィクトールは妹の頬を撫で、低く笑った。
「父上が崩じれば、旧約も揺らぐ。それだけの話だ」
桃色の長い睫毛が、わずかに伏せられた。
その下で、緑の瞳には演技ではない笑みが浮かんでいた。
「まあ、ヴィクトール。なんて頼もしくていらっしゃるの」
二人は寝台の薄絹の天蓋の下に、互いを引き寄せた。
*
その囁きの一部始終を、寝室の壁の向こう、給仕用の通路で身を縮めていた小柄な侍女が、息を殺して聞いていた。
名はカトリと言った。ティルダの諜報網の末端、王宮の下働きとして滑り込ませた、無口な娘だった。
彼女は王太子と義妹が寝具の奥に消えるのを耳で確認したのち、足音を殺して通路を戻り、その夜のうちにすべてをティルダの耳に届けた。
翌朝、ティルダが私の鏡台の傍らで、髪を結いながら静かにそれを告げた。
「殿下は、父王陛下のご崩御をお待ちのご様子だそうにございます」
鏡の中で、私は目を細めた。
「あら、それは王家への忠義として、いかがなものでしょうね」
ティルダの皺の刻まれた手が、銀の櫛をすべらせる。
「お嬢さま」
「ええ、もう一筆、加えておきましょう。陛下のお身体には、しばらくの間、よくお気を配りませねば。お毒見役を、信頼の置ける者に置き換えるよう、レアンドル殿下にお勧め申し上げます」
第二王子レアンドル。一周目では物静かに王宮の隅で本を読んでいた青年。二周目の私は、いずれ彼にこそ近づいておくべきだろう、と心に留めていた。
父王陛下に万一があれば、王家は王太子の手中に転がり落ちる。それだけは、避けねばならない。
鏡の中の十六歳の私が、二十歳に近い眼差しで微笑んだ。
「お二人で仲良くお励みなさいませ。鉱山のことも、お父上のことも。私はただ、見ております」
窓の外、薔薇の蕾の先で、朝の光が銀の粒のように弾けていた。
(第十二話 了 / 約4,950字)




