第十三話 他の愛人
# 第十三話 他の愛人
春の宮廷舞踏会の招待状は、白絹に金の縁取りで、銀の糸で綴じられて届いた。
差出人は王太子ヴィクトール、宛先はローゼンクロイツ侯爵令嬢アデリーヌ。
宛名の文字を眺めながら、私は静かに微笑した。一周目のこの招待状を、私はどんな顔で受け取ったのだったか。確か、抱き締めるように胸に押し当てて、頬を染めて、ティルダに「お似合いのドレスを」と頼んだはずだ。
愚かしい。
けれど、その愚かさを今は嘲うまい。あの娘がいたから、二度目の私が祭壇の毒杯から戻ってこられたのだから。
「お嬢さま、ご返答はいかがなさいますか」
ティルダの問いに、私は折りたたまれた招待状を文机の端にすべらせた。
「欠席いたします。恐れながら、その日は大公領にて先約がございます、と」
ティルダはわずかに唇の端を緩めた。
返事はあらかじめ、私の中で決まっていた。
春の宮廷舞踏会は、王太子の独擅場である。私が出ていけば、義妹リリスと並んで殿下の左右を彩らされ、外向けには「王太子と元婚約者候補と新たな婚約者候補、なごやかに」という絵を演出させられるだけだ。
その絵は、私の役目ではない。
*
ノクトさまにもその旨を、簡単に書き送った。
返書は短かった。
「よく断った。冬まで持つな。冬至の前に大公領で会おう」
いつものように飾りのない文字。
春の宵闇のなかでその一文を読みながら、私は妙に心が落ち着くのを感じた。
あの方は、私が宮廷の喧騒から距離を取ることを当然のものとして書いておられる。誰の許しもいらない、ご令嬢としての私の意志を、まずもって尊重しておられる。
保留指名の意味を、今でも私は完全に理解しているとは言えない。けれど少なくとも、この文字の主は、あの控室の絨毯に立っていた男たちとはまるで違う種類の人だった。
*
舞踏会の夜のことは、王都にいなくとも翌朝には噂が届く。
大公国に向かう旅程の途中、街道沿いの宿駅でひと夜を過ごしたその朝、早馬が侯爵家の早飛脚を私のもとに運んできた。
差出人は侍女頭ティルダ、そして第二王子レアンドルの侍従。
二通の書状を読み終えるころには、私は思わず、手の中の茶器を置いていた。
声に出さずに笑った。
「リリスったら」
手紙によれば、こうである。
春の宮廷舞踏会の夜、王太子ヴィクトールは未来の婚約者リリスをエスコートし、開幕の一曲を踊った。広間は薔薇と水仙で飾られ、楽団が華やかな旋律を奏でる、いつもの宮廷の絵柄。
ところが、舞踏会の半ばを過ぎたころから、王太子の側に二人の女性が次々と寄ってきた。
一人は若い男爵令嬢ミレイユ。一周目から殿下と関係を持ち続け、二周目でも変わらず夜会に呼ばれている娘である。
もう一人は、伯爵未亡人。三十路を越えた美しい寡婦で、裕福で、社交界の華と呼ばれる女性だ。最近、王太子と密会を重ねているという噂が、宮廷の侍女たちの口の間で広まっていたらしい。
ヴィクトール殿下は、男爵令嬢ミレイユの腕を取り、ホールの中央でぐるりとひと回り踊った。
次に伯爵未亡人と踊るふりをして、暗い柱の影で何やら囁き合った。
婚約者として連れてきたはずのリリスは、その間、壁際の椅子に座らされたまま、扇の影で唇を噛んでいたという。
「我慢、なさるかしらね」
私は手紙を畳み、馬車の窓辺に肘をついた。
リリスは、そういう娘ではなかった。一周目では、彼女は私の前ではいつも無垢な笑みを絶やさなかった。それは、彼女の本来の感情が「無垢」だったからではない。「無垢」を演ずる訓練が血肉まで染み込んでいたからだ。
けれど演技というのは、見ている者がいないとき、ふと崩れる。
崩れた。
手紙の続きはこうだった。
二曲目の途中、男爵令嬢ミレイユが王太子の腕にしがみついて笑った瞬間、リリスはすっと立ち上がり、ホールを横切って、まっすぐ二人の前に進み出た。広間の中央に近い位置で、誰もが視線で追える距離。
次の刹那、リリスの白い手が振り上げられ、ミレイユの頬を強く打った。
肉を打つ音が、楽団の旋律をかき消した。
古参貴族たちの息が、一斉に詰まったという。
*
貴族の女性が、公の場で他人の女性の頬を打つ。
これがいかに大きな失態であるか、王宮で育ってきた者なら誰もが体で知っている。
令嬢同士の小競り合いは陰でなされるべきもの、扇の陰で皮肉を交わすのが流儀。広間の中央で平手打ちをするなど、行儀作法の根本を踏みにじる行為だった。
しかも打たれた相手は、形のうえでは王太子のお相手の一人でしかない男爵令嬢で、リリスはまだ正式な王太子妃ですらない。
古参貴族の眉が一斉にひそめられたのは、当然のことだった。
手紙によれば、王太子ヴィクトールは即座にリリスの腕を掴み、広間の隅まで引きずるように連れていって叱責したという。
「リリス、君は何をしている」
「だって、ヴィクトール、あの女が……」
「私の客に手を上げるとは何事だ。下がりなさい。今夜は別の部屋で休むがいい」
ヴィクトールはリリスを侍従に押しつけ、自分は何事もなかったかのようにホールに戻り、伯爵未亡人をエスコートして次の曲を踊った。
リリスは廊下に出てから、しばらく壁にすがって涙を流していたという。
その涙は、本物だったろうか。
廊下を通り過ぎる侍従や侍女の前では、声を上げて泣いた。けれど、誰もいなくなった寝室の絨毯に戻ってからも、涙は止まらなかったという。
白百合の諜報員リリスでも、嫉妬という感情までは消し去れない。十一年もかけて私の婚約者になりすます訓練を積んできた娘が、目の前で他の女に夫候補を奪われかけている。それは、彼女の任務にとって最大級の障害だった。
*
それから数日のうちに、別の手紙が届いた。
差出人不明、けれど中身を読めばティルダの諜報網の最深部、王宮の祭祀関係の出入りに紛れ込ませた者の手によるものだった。
書き出しはこうだった。
「白百合の桃色、聖堂内陣にて深夜に密書を受け渡し」
深夜の聖堂で、リリスが枢機卿レーヴェンに密書を手渡したという。
密書の内容までは盗み見ることはできなかったが、レーヴェンが翌日、教会の薬草庫を覗き、白百合の球根の在庫を調べていたという目撃情報が、別の伝手から上がってきた。
白百合の球根。
それは聖女覚醒の儀の祭壇に供される花であり、同時に、メルクリウス帝国の影部隊「白百合」の符号でもある。
レーヴェンの返書は、教会の聖女覚醒祭日程に挟みこむかたちで、リリスの手元に届けられた。
「聖女覚醒の儀は、光属性の偽装を要する。光属性の発現は、白百合部隊の協力なくしては成り立たぬ。司令官に嘆願せよ」
*
大公領の使者が運んできてくれたその報を、私はノクトさまの城館の薔薇の温室で読んだ。
「派閥の内紛が、思いのほか順調に育っていますわね」
温室は冬の名残を残しつつ、すでに春の蕾を膨らませていた。私は薔薇の鉢の前で書状を畳み、隣で寡黙に私の手元を見ていたノクトさまに微笑んでみせた。
「お前の煽り口調が」
「あら、私は何もいたしておりませんわ」
ノクトは黒い手袋に薔薇の蕾を一輪、ためらいなく折り取り、私の手のひらに載せた。
「お前の煽り口調が、彼らの嫉妬を増幅させている。そう言いたかった」
「私は、普通のご挨拶を申し上げただけですわ。婚約お祝いに『お似合いの方ですわね』と。男爵令嬢のお話を耳に挟んだとき『他の愛人をお抱えとはご立派な殿下』と。聖女覚醒の儀のことを伺ったとき『リリスはきっとお美しい聖女になられますわ』と」
「すべて煽りだ」
「ご令嬢のたしなみのうちでございますわ」
ノクトの口の端が、ほんのわずか動いた。
あの方の笑みらしきものを、また間近で見られた気がした。
*
白百合の符号、聖女覚醒の儀、光属性の偽装。
点と点が線になっていく。
ティルダの諜報網は、白百合司令官カイラ・フォン・ナイトシェイドが、現在シュヴァルツヴァルト国境付近の街道を密かに北上中である、との報を運んできた。
帝国メルクリウスの影部隊の長が、自ら国境に近づきつつある。
目的は、リリスへの直接指示か、あるいは、もう少し大きな仕掛けの予兆か。
ノクトはその報を読みながら、灰の薄く残る暖炉の前で長く目を閉じた。
「司令官自らが動いた以上、計画は最終段階に入りつつある」
「ええ。けれど、ちょうど良いではありませんか」
私は両手を組み合わせ、暖炉の火に薄く照らされた自分の指先をじっと見た。
薔薇の蕾は、温室の小卓に置いたままだった。
「白百合の司令官が国境近くに現れるのなら、捕まえる場所は、こちらが選べますわ」
ノクトの瞳の奥で、血赤の色が一瞬、深く沈んだ。
その色を見るたびに私は思い出す。一周目、北の野営地で私の死の急報を聞いたノクトが、兄と同じ、二年後の北の戦線で、還らぬ人になったという、夢のかけらの果て。
二度目の世では、間に合わせる。
白百合司令官の足音が国境の宿駅に届くより先に、私は彼女を出迎えるための舞台を整えなければならない。
「ノクトさま」
「なんだ」
「冬至までに、すべての絵を仕上げてしまいましょう」
ノクトは何も言わず、私の指先に視線を落としたまま、薔薇の蕾を一度だけ撫でた。
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
その音は、一周目の控室に転がった水晶の杯の音を、不思議なほど柔らかく上書きした。
(第十三話 了 / 約4,930字)




