第十四話 白百合の符
# 第十四話 白百合の符
夜の王宮を、桃色の髪をひとつに結んだ娘が、しのび足で歩いていた。
壁の燭台が長く影を引き、絨毯の上には足音すら立たない。歩み方は十一年かけて磨き上げた擬態学の流儀。これまで侯爵家のお姉さまの所作を見ながら身につけてきた、貴族令嬢の歩幅。けれど、今夜のリリスはもう、無垢な妹のふりをしていない。
窓辺に止まった一羽の小鳥が、くちばしから一枚の白い羽を落とす。
羽は床に届く前に、ふっと薄く光って、小さな符に変わった。
白百合の連絡符。
メルクリウス帝国の影部隊が、ローゼリア王国に潜む同志に密書を送るための媒体である。
羽の形をした魔符に、わずかな魔力を流せば、内側に閉じ込められた文字が現れる。読み終えると同時に符は消えてなくなり、痕跡は何ひとつ残らない。リリスは符を懐に滑り込ませ、無人の小部屋に身を入れて、扉を閉めた。
文字は、低く乾いた書体で記されていた。
「王太子の調印した魔脈使用許可証、および魔脈鉱山地図、入手せよ。
期日、春の終わりまで。
白百合の符、本部より」
リリスは紙片の文字を凝視し、唇の端に薄い笑みを浮かべた。
計画の中枢が、ようやく動き始めた。
魔脈の所有権は王宮直轄化に失敗した。けれど、王太子個人の調印した使用許可証さえあれば、後日それは「王太子個人の確約」として帝国側で如何様にも利用できる。鉱山が手に入らずとも、その権利の根拠だけは、紙の上で奪い取ることができる。
お似合いの王太子殿下は、自らの寝物語で国を売る、絶好の道具になるはずだった。
*
その夜、王太子ヴィクトールはリリスを自分の寝室に呼び入れた。
舞踏会での平手打ちの一件以来、二人の間にはわずかな冷ややかさがあった。けれど王太子は、義妹候補に対しても基本的に色香に弱い男だった。一周目の私には誠実な貴公子の顔ばかり見せていた殿下が、結局のところ女性の前ではどうふるまうのか、二度目の世で私はようやく理解しつつあった。
リリスはあえて何日かぶりに殿下の寝室を訪れた。湯上がりの白い肌に、薄絹の寝間着。十一年かけて磨いた、男を蕩けさせるための所作の一切を、彼女は遠慮なく繰り出した。
「ヴィクトール、まだ怒っていらして?」
「もう怒っていない」
「では、お詫びの代わりに、ひとつお願いしてもよろしくて?」
リリスは王太子の胸に頬を寄せ、丸い瞳を上目にして、囁いた。
「魔脈鉱山のことが、私、悲しゅうございますの。だって、せっかくお姉さまから引き継ぐはずだった鉱山ですもの。それが、王宮直轄にならなかったなんて……」
「リリス、それは仕方のないことだ。父上が旧約を持ち出された」
「ええ、わかっておりますわ。でも、せめて……記念に、許可状だけでも、あなたの調印を頂戴したいのです」
寝具の絹の上で、リリスは王太子の指先に唇を寄せた。
「鉱山は手に入らなくとも、紙だけでも私の手元にあれば。あなたの権限が、私のためにある証として、それだけでも嬉しいのですわ」
王太子の喉が、ごくりと動いた。
「お前は、本当に……」
「いけませぬか?」
「いや。よかろう」
ヴィクトールは寝台の脇の小卓から羽根ペンと印章を取り、リリスがあらかじめ忍ばせておいた羊皮紙を広げた。
文面は、一見すれば私的な記念書である。しかし末尾に、ごく小さな字で、こう書かれている。
「王太子個人の権限において、本書持参者に魔脈の使用を一定範囲で認める」
文字は王宮の正式書式に近く、王宮の役人が見れば、これがれっきとした使用許可証であることに気づく仕様だった。
ヴィクトールはその細部を確かめもせず、印章をぐっと押し当て、羽根ペンで自筆の署名を流した。
「これでよいか、リリス」
「ええ、ヴィクトール」
リリスは満足げに笑い、王太子の頬に長い口づけを落とした。
羊皮紙は、彼女の白い指によって素早く折り畳まれ、寝間着の胸の奥に隠された。
翌朝、彼女は王宮の朝の祈りに参じる前に、聖堂の地下倉庫の隅で、白百合の連絡符に羊皮紙の写しを乗せ、静かに送信の文字を唱えた。
*
その羊皮紙の存在を、私とノクトさまは同じ日のうちに知った。
ティルダの諜報網と、ノクトさまの大公国諜報部は、互いに薄く繋がっている。王宮で動いた羊皮紙の影は、隅にいた給仕の少年から、燭台の油を運ぶ下働きの女へ、そして寡黙な厨房番頭から、外に届けられる。
夜半、私の手元には王太子の自筆の写しが届いた。
筆跡は、間違いなく一周目に何度も愛の手紙を綴ってよこした殿下のものだった。
「殿下は、寝物語で国を売りましたね」
ローゼンクロイツ侯爵邸の私室。
ノクトさまが訪れていた夜だった。あの方は近頃、月に何度か密かに侯爵邸を訪れ、お父さまや兄ライナスと面談したのち、私の私室に寄って、書状の束をともに読み解くのが習いになっていた。
「これで、国家反逆罪が確定する」
ノクトの低い声に、わずかな満足がにじんだ。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。
私はその音を聞きながら、紙片に視線を落としていた。
あの男に三年も恋していた自分が、今は哀れにすら見える。
*
ふと、一周目の春の光景が思い出された。
建国祭の翌日、王宮の薔薇の庭園で、私は王太子ヴィクトールに手を取られた。
桜より少し遅れて咲く銀の薔薇の下で、彼は片膝をついて、私を見上げた。
『アデリーヌ。あなたは私の運命の人だ』
あの春の儀から、私はその一言を、心の灯としてずっと守ってきた。
彼が他の女性に微笑むたびに「殿下のお優しさだ」と思い、彼が私の手を一度も握り直さなくとも「殿下は控えめなお方だ」と思い、彼が私の領地のことばかり訊ねても「私の境遇を案じてくださっている」と思った。
愚かな娘だった。
彼の瞳の奥にあったのは、銀の薔薇でも私の青い瞳でもなく、ローゼンクロイツ家の地下に眠る魔石の塊と、その権利だけだった。
今、私の手元にある羊皮紙の写しを見ると、そのときと同じ筆跡で、まるで違う文面が綴られている。
王太子個人の権限において、本書持参者に魔脈の使用を一定範囲で認める。
義妹を抱きながら、寝物語で国家機密を流出させた男の、その自筆の署名。
「あの日と、同じ筆跡」
声に出さず、私はつぶやいた。
そして、ふっと笑った。
「あの日と、こうも違う筆」
ノクトさまが、私の手元から書状を取り、丁寧に文匣に戻した。それから、私の冷えた指先に、暖炉の火を呼び込むように手を重ねた。
あの方の手は、相変わらず氷のように冷たかった。けれど、その冷たさが、なぜか私の頬の熱を引き取ってくれた。
「お前は、もう泣かなくてよい」
「これは、殿下のための涙ではございませんわ」
「目の縁が、わずかに濡れている」
私は黙って、頷いた。
これは、悲しみの涙ではない。十六歳のあの春の儀の、銀の薔薇の下に立っていた愚かな娘が、二度目の私の中で、ようやく息絶えた音だった。
哀れに思っていたものが、きれいに死んだ。
もう、振り返らない。
*
夜のうちに、私は手元の書付を並べて、今どこまで進んでいるかを、あらためて自分の中で数え直した。
魔脈鉱山は、旧約の一件で王太子の手から守り切った。聖女覚醒の儀は、枢機卿とリリスの密約ごと、証拠を握ったまま泳がせている。白百合の符は、王太子の署名入りで私たちの手にある。教会にはベルナール師という孤高の目を、王宮には第二王子レアンドルという静かな受け皿を、それぞれ少しずつ用意しつつあった。
どれも、まだ動かす時ではない。けれど、糸はもう、すべて私の指の中にあった。
あとは、いつ、どの順番で引くか。それだけの話だった。
翌朝。
私は応接間で父侯爵と向かい合った。
お父さまにも、ようやく徐々にだが、真相を伝え始めている時期だった。
「お父さま、申し上げにくいことですが」
私は穏やかに切り出した。
「王太子殿下と、リリスは、すでに数年前から私的なご関係でいらっしゃいます」
父は最初、否定の言葉を口にした。けれど、ティルダや兄ライナスからも同じ報告を受けていたこと、王宮の侍従の一部からも漏れ聞いていたこと、それらが重なるにつれ、抵抗を見せなくなった。
私は淡々と、王太子の他愛人のこと、リリスが舞踏会で起こした騒ぎのこと、そして王太子の調印した魔脈使用許可証が、リリスの手で白百合の連絡符に乗せられた可能性を、伏せたところから語っていった。
お父さまの顔色は、灰のようになった。
「アデリーヌ、なぜ、お前は……これほどのことを、知っているのだ」
私は、父の問いに答えなかった。
答えようがなかった。十一年来、後妻と義妹をお父さまの足元に引き寄せた責任の半分は、父の信じやすさにあった。私はその責任を、今さら問うつもりはない。けれど、私が一周目の婚礼で死んだことを、父に伝える必要はない、と思った。
代わりに、私はこう申し上げた。
「お父さま。リリスは、あなたが思っておられるような娘ではありません。私の死を望んでおります」
お父さまは、長い沈黙の後で、深く頭を垂れた。
「アデリーヌ。お父さまが、誤っていた」
その一言で、十一年分のしこりの大半が、父の中で崩れ落ちた。
父侯爵としての判断は、ここからは私と兄ライナスに委ねる、という意思を、その低い声がはっきりと告げていた。
*
夜、私は私室の鏡台の前で、銀の櫛を握りしめていた。
母の遺した櫛である。
手の中の冷たい銀が、十六歳の朝に戻ったあの日と、同じ重さを伝えてくれる。
「お母さま」
声に出して、私は誰にも聞かれないように呟いた。
「リリスを王太子に差し上げます。あの方々を、お二人で仲良く破滅していただくつもりですわ」
鏡の中の私が、薄く微笑んだ。
その微笑は、もはや控室の絨毯に倒れた花嫁のものではなかった。
春の薔薇の下で運命の人と告げられた娘のものでもなかった。
私は銀の櫛を鏡台に置き、母の遺した椅子に深く座り直した。
(第十四話 了 / 約4,920字)




