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死に戻ったので元婚約者は義妹に譲ります 〜お似合いのお二人ですから、最後までご一緒にどうぞ〜  作者: 鷹居鈴野


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第十五話 綻びの気配

# 第十五話 綻びの気配



 国境に近い商館の二階、窓に遮光の布を垂らした一室で、女商人エルケ・ハインリッヒを名乗るその人物は、机の上に広げた紙片を、指先でとんとんと打っていた。その正体は、白百合部隊司令官カイラ・フォン・ナイトシェイド。



 紙片は、王都から届いたばかりの定期報告だった。リリスの筆跡で、王太子の動向、教会の動き、鉱山の一件が、几帳面な暗号でしたためられている。

 いつもと変わらぬ報告に見えた。けれど、カイラの指が止まった箇所が、ひとつだけあった。



 ――枢機卿さまとの一件、姉には気取られておりません。



 その一文にだけ、ごく薄く下線が引かれていた。リリス自身の癖で、彼女は「確認済み」の事項にだけ、こうして印をつける。

 確認済み、のはずのその一文の裏に、カイラの長年の勘が、小さな棘のようなものを感じ取っていた。

 枢機卿との密談。聖女偽装の段取り。魔脈使用許可証の一件。どれも、白百合の符と、リリス自身の口以外から漏れる経路はないはずだった。

 けれど、王太子の署名入りの許可証が発行された翌週、シュヴァルツヴァルト大公国が突如、ローゼンクロイツ領との交易協定を持ちかけてきた。偶然にしては、間合いが良すぎる。



「試すか」



 カイラは、独り言のように呟いた。

 白百合の流儀は単純だった。三つの経路それぞれに、わずかに違う偽の情報を流し、どの経路から漏れたかを、漏れた先の反応で確かめる。



 *



 その夜、ローゼンクロイツ侯爵邸の私室で、私はノクトさまと共に、届いたばかりの書状を読んでいた。

 差出人はティルダ。手蹟は例の略号交じりで、内容は他愛のないものだった。リリスの新しいドレスの仕立て屋、王太子が最近好んで通う酒場、教会の献金額の変化。

 どれも、日々積み重なる小さな情報の粒だった。



「変わったことは、ないな」



 ノクトさまが、暖炉の火に視線を落としたまま言った。

「ええ。むしろ、静かすぎるくらいですわ」



 私は、書状を文匣に納めながら答えた。

 白百合の符の一件を暴いて以来、リリスと枢機卿の動きは、表向き穏やかだった。聖女覚醒の儀の日取りは変わらず先延ばしにされ、王太子は相変わらず他の令嬢に目移りを続けている。

 嵐の前の静けさ、という言葉が、頭の隅をよぎった。

 けれど私は、それを深く追いはしなかった。証拠はすでに揃いつつある。あとは、いつ、どの順番でそれを開くか。その算段に、私の意識のほとんどは向いていた。



 油断、とまでは言わない。

 けれど、確かに、私の目は、王太子とリリスにばかり向いていた。彼らを見張る側の人間、ティルダの諜報網の末端の者たちが、今、どんな危うさの中にいるのかまでは、正直、深くは考えていなかった。



 *



 数日のうちに、カイラは三つの経路に、それぞれ違う餌を撒いた。



 ひとつは、教会の下働きを通じて。もうひとつは、王都の偽書工房の使いを通じて。最後のひとつは、リリス自身の口から、侍女に何気なく漏らさせる形で。

 それぞれの餌には、微妙に異なる日付と場所が書き込まれていた。



 ――シュタイナー卿、次の月の初め、王都南の織物商館にて密会。

 ――シュタイナー卿、次の月半ば、大聖堂裏の聖具庫にて密会。

 ――シュタイナー卿、次の月末、王都北の骨董商館にて密会。



 三つとも、噓だった。

 シュタイナー卿は、その月、王都に姿を見せる予定すらなかった。



 カイラは、それぞれの場所に、目立たぬ見張りを一人ずつ配置し、あとは待つだけだった。



 *



 王都南の織物商館には、誰も現れなかった。

 大聖堂裏の聖具庫にも、誰も現れなかった。



 王都北の骨董商館。

 その一角に、下働きの装いをした小柄な娘が一人、日暮れ前からずっと立っていた。

 物陰から様子を窺い、誰かに文を渡そうとする素振りは、見張りの目にも、素人には見えない慎重さがあった。



 娘の名は、カトリといった。

 ティルダの諜報網の末端、王宮の下働きとして滑り込ませた、無口な娘。数ヶ月前、王太子とリリスの寝室の会話を、通路の壁越しに聞き取ったのも、この娘だった。



 カトリは、骨董商館の前で一刻ほど粘り、誰も現れないことを確かめてから、静かにその場を離れた。何も起きなかった、というだけの、いつも通りの見張り仕事のつもりだった。

 けれど、彼女がその場を離れたあとを、白百合の見張りが、音もなく追い始めていた。



 *



 その報せが、ローゼンクロイツ侯爵邸に届いたのは、深夜のことだった。



 私室の扉が、控えめに、しかし急いた調子で叩かれた。



「お嬢さま」



 ティルダの声だった。

 いつもの落ち着いた声とは違う、わずかに掠れた響き。

 私は寝台から身を起こし、扉を開けた。

 蝋燭の灯りの中、ティルダの白髪が、いつもより乱れていた。



「ティルダ、どうしたの」



「カトリが……戻りません」



 その一言に、私の指先から、すっと血の気が引いた。



「いつもなら、日暮れ前には必ず、王宮の裏木戸から戻る子です。今夜は、待ち合わせの場所にも、王宮にも、姿がございません」



 ティルダの手が、震えていた。

 皺の刻まれた指が、蝋燭の炎の中で、小刻みに揺れているのが見えた。



「最後の仕事は」



 私は、声をできる限り平らに保って尋ねた。



「王都北の骨董商館の見張りでございました。シュタイナー卿が現れるという報せがあり、私が向かわせました」



 シュタイナー卿。

 白百合部隊が、聖女覚醒の儀のために送り込んでいるはずの、帝国の使者。

 その報せが、どこから出たものだったか。私は、自分の手元の記録を、頭の中で急いで辿った。

 その筋は、私たちが独自に摑んだものではなかった。数日前、王都の商人筋から、確度の低い噂として流れてきたものを、ティルダの判断でカトリに確かめさせただけの、いわば些末な仕事だった。



 些末なはずの仕事。

 その些末さの裏に、初めて、冷たいものが背筋を這った。



「ティルダ。その噂は、どこから」



「……商人筋の、又聞きでございます。出所までは、追い切れておりません」



 追い切れていない。

 その言葉が、今夜、これほど重く響いたことはなかった。

 私はこれまで、証拠を集める側だった。読む側、見る側、仕組む側だった。

 けれど今、初めて、自分の側の駒が、盤の上から音もなく攫われた。



 *



 私は、蝋燭を手に、自室の窓辺に立った。

 王都北の方角に目を凝らし、氷青の瞳に、薄く魔力を纏わせる。

《見極めの瞳》は、私の目の届く範囲、あるいは強い縁で結ばれた相手の魂であれば、遠くからでも輪郭を拾えることがあった。ノクトさまの魂を、離れた広間の隅からでも見分けられたように。

 けれど、カトリの魂を、私はまだ、一度も直接視たことがなかった。

 名前だけを知る娘。縁の薄い、遠い駒。

 銀の光は、窓の外の暗闇に散っていくばかりで、何ひとつ像を結ばなかった。



 瞳は、万能ではない。

 知らない者を、ただ探すことはできない。

 その事実が、今夜、初めて、重く胸にのしかかった。

 私は、これまで、自分の力を過信していたわけではないつもりだった。けれど、心のどこかで、いざとなれば見える、いざとなれば助けられる、と、根拠のない安心を抱いていたのかもしれない。

 窓辺に立ち尽くしたまま、私はしばらく、自分の無力さと向き合った。



 *



 私は、寝間着の上に外套を羽織り、ノクトさまへの急使を立てるよう、ティルダに命じた。

 手が、ほんの少しだけ震えていた。

 控室の絨毯の上で死んだ十九歳の私は、誰かを守れないまま終わった。

 二度目の私は、ティルダに誓ったはずだった。

 ――あなたを、絶対に死なせない。

 その誓いの言葉は、ティルダ本人にだけ向けられたものだったはずなのに、今、彼女の諜報網の末端にいる、まだ幼さの残る娘の顔が、繰り返し瞼の裏に浮かんだ。



 カトリの顔を、私は、はっきりとは思い出せなかった。

 何度か、ティルダの陰でちらりと見かけただけの、無口な下働きの娘。

 名前だけは、報告書の中で、何度も目にしていた。



 名前しか知らない娘のために、こんなにも胸が冷えるのは、なぜだろう。

 答えは、すぐに分かった。

 カトリは、私が動かしてきた駒だった。その駒が今、盤の外へ攫われている。込み上げてくるのは義憤でも同情でもない、もっと逃げ場のない感情だった。

 私の責任だった。



「ティルダ」



 私は、外套の紐を結びながら、告げた。



「今夜のうちに、大公国の伝手を借ります。あなたは、屋敷に残って、他の子たちの安全を、まず固めてちょうだい」



「お嬢さま、しかし」



「これ以上、誰も、盤の外に攫わせません」



 声が、自分でも驚くほど低く出た。

 ティルダは、しばらく私を見つめ、それから、深く頭を下げた。



「かしこまりました」



 窓の外、夜の闇が、いつもより深く見えた。

 馬車を用意する足音が、屋敷の裏手で慌ただしく響き始めた。

 私は、母の銀の櫛を懐に収め、深く息を吸った。



 玄関の扉を開けると、夜気が頬を刺した。

 馬車の扉が閉まる音だけが、闇の底で短く響いて、消えた。



(第十五話 了 / 約2,700字)


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