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死に戻ったので元婚約者は義妹に譲ります 〜お似合いのお二人ですから、最後までご一緒にどうぞ〜  作者: 鷹居鈴野


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第十六話 奪われた手駒

# 第十六話 奪われた手駒



 ノクトさまは、急使が屋敷に着いてから、半刻と経たずに現れた。

 黒い外套の下は、明らかに寝間から飛び出してきたままの略装だった。



「詳細を」



 短い一言に、私は手早く事の次第を伝えた。

 偽の情報を撒く手口、王都北の骨董商館、カトリが尾行された可能性、そして、私の瞳が届かなかったこと。

 最後の一点を口にするとき、声がわずかに掠れた。



「瞳が、届かなかった」



 ノクトさまが、繰り返した。

 咎める響きはなかった。ただ、確かめるような、静かな声だった。



「ええ。縁の薄い相手までは、私にはまだ視えません」



「なら、足で探すまでだ」



 あの方は、それだけ言って、地図を広げた。



 *



 王都北の骨董商館の周辺は、大公国諜報部の手により、夜明け前には粗方の聞き込みが済んでいた。

 商館の店主は、夕刻、若い娘が一人、店の前でしばらく佇んでいたことを覚えていた。娘が立ち去ったあと、別の人影が二つ、同じ方向へ歩いていったことも。

 人影の行き先は、旧市街の外れ、廃業した染物工房の裏手だった。



「あそこは」



 地図を覗き込んだ兄ライナスが、低く呟いた。

 兄は、私からの報せを受けて、真夜中にもかかわらず駆けつけてくれていた。



「王宮の帳簿には、五年前に廃業とだけ記載がある。持ち主の名は、確か、帝国系の商会だったはずだ」



 白百合の隠れ家の一つ。

 ようやく、盤上に一本の線が引けた。



「私も参ります」



 私が言うと、ノクトさまの眉が、わずかに動いた。



「危険だ」



「危険は承知の上です。カトリの魂を、私はまだ視られません。けれど、あの子の顔を知っているのは、この場で私とティルダだけです」



 私は、ティルダのほうを見た。

 白髪の侍女頭は、屋敷に残るよう言いつけたはずだった。けれど、彼女は既に外套を纏い、旅装に近い格好で、私の後ろに控えていた。



「ティルダ、屋敷に残ってと」



「お嬢さま。申し訳ございませんが、これだけは聞けません」



 彼女の声は、震えていなかった。



「あの子を送り出したのは、私です。カトリの父は、亡くなった母上さまに長く仕えた庭師でした。あの子を諜報の手駒に選んだのも、私の判断です。私が、参ります」



 その声の強さに、私は、しばらく言葉を返せなかった。

 一周目、控室の前で殺された侍女頭。

 あのとき、彼女がどんな覚悟で扉の前に立っていたのか、私は今、初めて、その一端に触れた気がした。



「……分かりました。けれど、私の後ろから、決して離れないで」



「かしこまりました」



 *



 染物工房の裏手は、夜の闇の中でも、異様な静けさを湛えていた。

 ノクトさまの合図で、大公国諜報部の精鋭が、音もなく建物を囲んだ。

 私とティルダは、ノクトさまのすぐ後ろに控えた。



 扉の隙間から漏れる灯りは、ひとつだけだった。

 息を潜めて近づくと、中から、くぐもった声が聞こえてきた。



「――誰の差し金で、あの商館を見張っていた」



 男の声。

 答えは、返ってこなかった。



 ノクトさまが、私に目配せをした。

 私は頷き、氷青の瞳に、薄く魔力を纏わせた。

 扉の向こう、三つの魂の輪郭が視えた。

 ふたつは、濁った臙脂色。白百合の男たち。

 もうひとつは、小さく、震えながらも、まだ光を失っていない、若い魂。



「カトリです。生きています」



 私は、囁いた。

 ノクトさまが、わずかに頷き、片手を上げた。



 次の瞬間、扉が内側から蹴破られた。



 *



 工房の中は、狭く、薬品の匂いが染みついていた。

 白百合の男が二人、剣を抜く間もなく、大公国の精鋭に組み伏せられた。

 部屋の奥、椅子に縛りつけられていたのは、確かに、カトリだった。

 小柄な体、頬に赤い痣。けれど、瞳には、まだ強い光があった。



「カトリ!」



 ティルダが、私の制止も聞かずに駆け寄った。

 縄を解く手が、震えていた。



「ティルダ、さま……」



 カトリの声は、掠れていた。

 けれど、確かに、意識はあった。



「よかった。よかった、生きていて」



 ティルダが、娘の頭を抱き寄せた。

 白髪の侍女頭が、人前でこれほど感情を露わにするのを、私は初めて見た。



 *



 だが、勝利の余韻に浸る間もなく、工房の隅で、乾いた音が響いた。



 白百合の男の一人が、拘束される寸前、懐の紙束に火を放っていたのだ。

 紙束は、あっという間に燃え上がった。

 ノクトさまが駆け寄ったときには、灰が床に散るばかりだった。



「連絡経路の記録か」



「おそらく」



 私は、燃え残った灰の一片を、指先で拾い上げた。

 文字の判別はできなかった。けれど、ティルダの諜報網の何人かの名、少なくとも、カトリと接触のあった者たちの符牒が、この炎と共に、白百合側の手に渡ったのだろうということは、想像に難くなかった。



「読まれましたね」



 私の声は、自分でも意外なほど平静だった。

 けれど、胸の奥では、初めて味わう種類の悔しさが、じわりと広がっていた。

 これまで、私は常に、相手より一手先を読んできた。

 その一手を、今夜だけは、向こうに握られていた。



 *



 夜明け前、私たちは屋敷への帰路についた。

 馬車の中、ティルダの膝の上で、カトリが浅く眠っていた。



「ティルダ」



 私は、静かに声をかけた。



「あなたを、絶対に死なせないと、申し上げましたわね」



 白髪の侍女頭が、私を見た。

 目の縁が、まだ赤かった。



「ええ、お嬢さま。忘れては、おりません」



「今夜、その約束が、あなたにとって、どれほど軽々しいものだったか、思い知りました」



 私は、膝の上で、拳を握った。



「私は、あなたを死なせない、と誓っておきながら、あなたの働かせている子たちの誰一人、本当の意味では守れていなかった。カトリが攫われるまで、私はそのことに、気づきもしませんでした」



「お嬢さま」



 ティルダが、私の手を、そっと取った。

 皺の刻まれた指が、私の指を、強く握った。



「お嬢さまは、今夜、誰よりも早く、動いてくださいました。瞳が届かないと分かった瞬間、足で探すと決めてくださいました。それで、十分でございます」



 私は、何も言えなかった。

 ただ、彼女の手を、握り返した。



 *



 燃やされた記録が、どこまで白百合の手に渡ったのか。

 その全容は、まだ分からない。

 けれど、ひとつだけ、確かなことがあった。

 カイラ司令官は、今夜の失敗で、自分たちの正体が、こちらに深く読まれていることを、悟っただろう。

 これまで、私たちは、じっくりと証拠を積み上げ、冬至の頃までにすべての絵を仕上げるつもりだった。

 その悠長な間合いは、今夜、崩れた。



「ノクト」



 馬車の中、私は隣に座るあの方を見た。



「司令官が動きを悟った以上、次に訪れる好機は、決して逃せません」



「うむ」



「証拠が完璧に固まるのを、これ以上、悠長に待つ余裕はございません。国境を越える機を見た瞬間、迷わず仕留めましょう」



 ノクトさまは、しばらく黙って、窓の外の白み始めた空を見ていた。



「お前は、今夜、負けを認めた」



 低い声だった。

 私は、頷いた。



「ええ。初めて、認めました」



「悪くない」



 あの方の口の端が、わずかに動いた。



「負けを知らない者は、次の一手を誤る。お前は今夜、それを学んだ」



 馬車の車輪が、白み始めた王都の街並みを、静かに進んでいった。

 窓の外、季節はまだ夏に届かぬ初夏の気配だったが、私の胸の内では、既に、冬の気配が始まっていた。

 その冷たさが、握りしめた拳の中で、まだ疼いていた。



(第十六話 了 / 約3,300字)


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