第十七話 冬の大公領
# 第十七話 冬の大公領
冬のシュヴァルツヴァルト大公領は、銀色の世界だった。
国境の関を抜けて二日目、馬車の窓越しに広がるのは、見渡すかぎりの雪原と、墨のような針葉樹の森である。空は白く濁り、ときおり太陽が雲の薄いところを透かして、淡い金色の光を雪の上に落としていく。
ローゼリア王国の春の薔薇とは、ことごとく逆の景色だった。
私はその逆の景色を、ありがたく思った。
大公領の城館は、森の奥の小高い丘の上に建っていた。
黒い石造りの城で、屋根には粉雪が積もり、塔のてっぺんで双頭の鴉の旗が凍えながら翻っている。城門で出迎えてくれたのは、年配の家令と、顔の半分を覆う黒い面をつけた若い騎士団長だった。
ノクトさまは、城の本館の廊下で私を待っていた。
黒い軍装。襟元に銀の留め金。表情は相変わらずの絶対零度だったが、私が現れた瞬間、その冷たい空気がほんのわずか、湯気のように緩んだ気がした。
「無事の到着、何よりだ」
「お招きいただき、ありがとうございます、ノクトさま」
あの方は私の手の甲に、形ばかりの口づけを落とした。
形ばかり、と思えるはずなのに、唇が触れた一点だけが、不思議なほどに熱を持った。
*
大公領で過ごす日々は、王都での日々とは、流れる時間の質がまるで違っていた。
朝は、霜のおりた窓辺で温かい紅茶を飲み、家令と城内の段取りを軽く確かめる。
昼は、ノクトさまと乗馬で雪原を駆ける。あの方は私のために、城の馬廊で最も気性の穏やかな白馬を選んでおいてくださった。馬は雪を蹴り、白い息を細く吐きながら、丘の中腹まで連れていってくれる。
夜は、城の暖炉の前。
大公領の暖炉は、王都のものよりも一回り大きく、薪を惜しまずに焚いた。火の粉が天井までふわりと舞い、私はその火を眺めながら、ノクトさまと書斎の蔵書を開いて、古代魔術の書き付けを訳していった。
「お前は、寒くないか」
「冷えてはおりますが、心地よい寒さですわ」
「もう一枚、毛布を取ってこさせよう」
ノクトさまは、目の前の暖炉の火を見ているのに、私の指先がほんの少し白むのを的確に見抜く。一周目の婚約者だった男は、私の指先がどんな色をしているか、三年間ついぞ気づかなかった。比べるのも、もう馬鹿らしい。
*
雪の森を、二人で歩いた日もあった。
針葉樹の合間にひっそりと続く獣道を、私はノクトさまの半歩後ろを追いかけた。雪が膝近くまである場所では、あの方が振り向き、何も言わずに私の手を取り、腰のあたりを支えるようにして雪を越えてくれた。
森の奥で、狐の足跡を見た。鹿の角の落とし物を見た。
黒い針葉の合間に、雪面に映ったあの方の影と私の影が、ほんの一瞬、ぴたりと重なる時間があった。
「ノクトさま」
「なんだ」
「ここに、あなたとふたりでいることが、信じられません」
あの方は前を向いたまま、低く言った。
「俺もだ」
短い言葉だった。
けれどその二音節に、二周目の世のすべての偶然と、夢の断片の届いた一周目の自責とが、押し込められているような気がした。
*
大公国には、独特の風習がいくつもあった。
その中でも、冬至の夜に行う「銀の杯の儀」は、もっとも古いもののひとつだった。
冬至の夜、家督を継ぐ者と、その伴侶となるべき者が、銀の杯にひと夜の井戸の水を満たし、二人で分かち合って飲む。
その水を共に飲んだ二人は、一年の凍える夜々を、互いに支え合って越えていく、と古い言い伝えが説いている。
ノクトさまは、この儀を、私と二人で行いたいと言った。
冬至の宵。
城の最上階、北の塔の小さな円形の部屋で、私たちは向かい合って座った。
壁の燭台には蜜蝋の蝋燭が三本だけ。床には毛皮の絨毯。中央の小卓に、銀の杯が一つだけ置かれている。
杯は古い細工で、縁に双頭の鴉が彫られていた。
その縁の冷たい銀色を見たとき、私の指は、思わず震えた。
一周目の控室の、水晶の杯。
あの薄紅色の毒。
絨毯に転がる音。
息が浅くなった。
胸の奥で、誰かが「やめなさい」と囁いた、あの婚礼前の感覚が、まざまざと蘇った。
頭ではわかっていた。これはあの杯ではない。あの夜と違う。けれど、銀の縁に映る私の銀の髪が、あの夜と同じ顔をしていた。
「アデリーヌ」
ノクトさまが、立ち上がって私の前に膝を突いた。
あの方が、私の手の上に大きな手を重ねた。
「これは、毒ではない」
声は低く、けれど一語ずつ、私に染み込ませるように区切って告げられた。
「井戸の水だ。城の地下、誰の手も入らぬ古井戸から、今宵、家令がたった一人で汲み上げてきた。俺が、そのすべてを見守った。お前の唇に、何かが触れる前に、必ず俺が先に飲む」
「ノクトさま」
私は、唇を震わせた。
声を出すと、涙が出てしまいそうだった。
「私は、まだ、あの杯のことを忘れられません」
「忘れなくていい」
ノクトは、私の手を握ったまま、ほんのわずか首を傾けた。
血赤の瞳が、燭台の灯を吸い込み、深い色に沈んだ。
「忘れさせるためにここへ呼んだのではない。あの杯と、この杯を、別のものとして、お前自身に区別させるために呼んだ」
私は、息を吐いた。
長く、ゆっくりと、肺の底まで。
毒杯と、銀の杯。
水晶と、銀。
控室の絨毯と、毛皮の絨毯。
婚礼の白い衣と、冬至の蒼い衣。
すべてが、鏡像のように対になっていた。
「分けていただきます」
私は、自分の声がきちんと言葉になっていることを確かめてから、頷いた。
ノクトさまは、銀の杯を取り、まず自身の唇を縁に触れた。
わずかに飲み下し、それから、杯を私の前に差し出した。
私は両手で杯を受け取り、自分の唇を、あの方が口づけた縁に重ねた。
冷たい水が、喉を滑り落ちていった。
甘い香りも、金属の匂いもない、ただ清らかな水の味だった。
飲み干したとき、私の頬を、ひと粒の涙が伝った。
一周目の祭壇の毒杯と、二周目の冬至の銀杯。
二つの杯の間に、ようやく、線が引けた。
*
その後、私たちは塔の上に出た。
雪の降り終えた夜の天蓋に、大きな銀色の月が浮かんでいた。
手すりに肘を置き、白い息を吐きながら、ノクトさまが口を開いた。
「アデリーヌ」
「はい」
「保留指名を、正式の婚約に進めたい」
私は、月を見ていた目を、あの方の横顔に移した。
「私は、もうあなたの保留候補ではなくなるのですね」
「最初から、保留などしていない」
ノクトさまは、月を見つめたまま続けた。
「あれは、お前を王太子から守るための方便だ。儀の場で『正式の婚約』と告げれば、お前を生家から引き剥がすことになる。お前が一周目で果たせなかった侯爵家の立て直しが、できなくなる。だから、緩衝材として『保留』と告げた」
雪の上で、銀の月が震えた。
ああ、と私は思った。
あの春の婚約者選定の儀の朝、王宮広間でノクト・フォン・シュヴァルツヴァルトが「彼女を保留指名する」と低く告げた瞬間から、私はすでに、この方の中にきちんと位置を持っていたのだ。
「ノクトさま」
「なんだ」
「もっと早く、おっしゃってくださればよろしかったのに」
「俺は、寡黙だ」
「ええ、本当に」
私が小さく笑うと、あの方の口の端が、わずかに緩んだ。
次の瞬間、私の頬に冷たい唇が触れた。
月の銀が、視界の縁で大きく震えた。
私は手すりにつかまって倒れまいとしたけれど、その手の上に、ノクトさまの手が重ねられた。
冷たい唇は、頬から、こめかみへ、それから私の唇の端へ、ゆっくりと滑った。
最後にあの方の唇が、私の唇に重なったとき、雪の上に立つ二人の影は、月の光にひとつに溶けていた。
長い口づけだった。
控室の絨毯で死んだ娘が、二度目の世でようやく報われていく音が、私の中で静かに鳴っていた。
*
翌朝、ノクトさまは私の手首に、銀の腕輪をはめた。
「古代魔術の補助具だ。クロイツの血を持つ者の魔力を、増幅し、安定させる」
腕輪は薄く、内側に古代文字が刻まれていた。
はめた瞬間、不思議なほどに肌に馴染み、わずかに温かいような気さえした。
「いつか、お前の《見極めの瞳》が完全に開くとき、これが助けとなる」
「ありがとうございます、ノクトさま」
私は腕輪をそっと撫でた。
大公領で過ごした日々の重みが、その薄い銀の輪のなかに、すべて閉じ込められたような気がした。
*
ローゼリア王国に戻る道中、街道の宿駅で、ティルダの諜報網からの早馬が追いついてきた。
書状はわずか一行。
『白百合司令官、国境を越えました』
雪解けの始まった空の下で、私はその一行を読んだ。
窓の外、針葉樹の影が退いていく。
冬至の塔の上で交わした口づけの感触が、頬の奥にまだ残っていた。
その温度を残したまま、私は短く、ノクトさまに書き送った。
『白百合の客人を、お出迎えに参りましょう』
ノクトさまからの返書は、相変わらず一行きりだった。
『こちらでも準備はできている』
(第十七話 了 / 約5,000字)




