第八話 主戦場の移動
# 第八話 主戦場の移動
春の社交界には、見えない風がある。
貴婦人たちの扇の陰で交わされる囁きや、目礼の角度のわずかな違い。それらが集まり、誰かの評判をひと晩で塗り替える。
今、その風は私の方へと吹いていた。
「お聞きになりまして? ローゼンクロイツ侯爵令嬢、自ら婚約者を妹君に譲られたとか」
「まあ、なんと薄情な。義妹君がどれほど辛い思いをなさったか」
「大公さまに靡いて、王太子殿下を捨てたのではないかしら」
夜会の控えの間で、扇の陰からこぼれる声を、私は一つも聞き逃さなかった。氷青の瞳に魔力を薄く纏わせれば、その囁きが誰の口から出ているのかも視える。
火元は二つ。父侯爵の後妻イザベラと、義妹リリス。
あの二人は、私が思っていたよりも器用に火種を撒いた。
「お父さま、申し訳ございません」
私は社交界の柱の陰から、リリスの所作の細かな写しを観察していた。指の組み方、視線の落とし方、声の途切れ方。すべて、私が幼いころに使っていた癖だった。リリスは私の所作を盗み写し、十六歳の今になって、それを「憐れな妹」の意匠として身に纏っている。いずれ、王太子妃となれば、私の所作を完全に上書きするつもりだったのだろう。
舞踏会の合間、人気のない柱の陰でリリスが涙ぐんでいるのを、私は離れた場所から眺めていた。父の盟友であるエルフェンバイン伯爵夫人が、桃色の髪の妹を慰めるように肩を抱いている。
「お姉さまは、私を売って大公国の財産を狙っているのです。私を……王太子殿下に押し付けて、自分は氷の戦神の懐に入って」
ああ、上手なものだ。
涙の溜め方も、声の震わせ方も、私が幼い頃に「お姉さま、絵本を読んでくださいませ」とねだったときと同じ呼吸だった。
リリスは、八年かけて私の所作を写し取り、十六歳の今は逆に「私こそ憐れな妹」を演じている。
私はそれに、ひとつも反論しなかった。
*
屋敷の書斎で、兄ライナスが眉根を寄せた。
「アデリーヌ。社交界の噂、聞き流していて良いのか」
私は手元の書類から目を上げた。
卓上には、シュヴァルツヴァルト大公国の宮廷へ送るべき贈答品の目録、礼装の発注書、随行する者の名簿。書類は山と積まれているが、ひとつひとつが私の主戦場の地図だ。
「兄さま、噂を打ち消すのは、噂を打ち消そうと躍起になっている姿が見えたときだけ効きます」
「だが、ローゼンクロイツの名に傷が」
「傷をつけているのは、私ではなくあの二人ですわ。打ち消し方を間違えれば、こちらが必死だと知れる。必死だと知れたら、王宮派閥はかえって面白がって火を煽るでしょう」
兄は、しばらく目を伏せていた。やがて頷いた。
「お前は、変わったな」
「変わるしか、ございませんでしたから」
私は微笑んだ。
一周目の私は、噂の一つ一つに傷ついては、王太子殿下の慰めの言葉に縋った。あの慰めが、すべて演技だったと知ったのは、絨毯の上で死ぬ瞬間だった。
今の私は、噂を聞き流す代わりに、別の場所で勝負をする。
ローゼリア王宮ではない。
私の主戦場は、これから北東の雪山の向こうへ移る。
「兄さま、ティルダを呼んでくださいませ」
ティルダは、すぐに現れた。白髪の老侍女は、書斎の扉を後ろ手に閉めると、一礼してから前に進んだ。
「お嬢さま」
「ティルダ。私が大公領へ発つ間、屋敷を頼みます。後妻さまと義妹の動向、来客、書簡の発信先、すべて記録してください。怪しい封蝋には触れず、印影だけ写してくれればよろしい」
ティルダは私の差し出した小さな手帳を、両手で受け取った。表紙には、ローゼンクロイツ家の薔薇紋が刻まれているが、見開きの最初の頁にしか押されていない。それ以降は、ティルダだけが解読できる略号で記録できる体裁にしてある。一周目、彼女が控室の前で殺されたあと、誰かに諜報の手習いを、それも文字を残すかたちで指南した者は、おそらく一人もいなかった。今度は、私が指南役だ。
「かしこまりました」
「特に、教会レーヴェン枢機卿の使者と、メルクリウス帝国の商人を名乗る者の出入りを」
「……お嬢さま。それは」
ティルダの目に、わずかな揺れが走った。一周目、彼女が控室の前で殺された理由を、私は今もはっきりと突き止めてはいない。けれど、彼女が薄々何かを察していたことだけは、こうした目の揺れで分かる。
「すべて、後ほどご説明いたしますわ」
私はそれだけ告げた。
まだ、ティルダにすべては話せない。一周目の話を打ち明けるには、彼女の心臓が少々持たない。けれど、彼女は何も問わずに頷いてくれた。
「お嬢さまのお戻りまで、屋敷は私が」
*
大公領出発の朝は、まだ薄闇の残る時刻だった。
黒塗りの大型馬車が三台、ローゼンクロイツ邸の前に並んだ。先頭の車体には、シュヴァルツヴァルト大公家の紋章。御者台にはノクトさまが差し向けてくれた騎士たちが控えている。
「お嬢さま」
ティルダが私の肩に毛皮の襟巻きをかけてくれた。
「雪山は、お嬢さまが思っておいでより冷えますゆえ」
「ありがとう」
兄は車寄せまで見送りに出てくれた。父侯爵は出てこなかった。後妻イザベラは病と称して寝室にこもり、リリスは「お姉さまをお見送りすると涙が止まらなくなりそうで」と書置きを残して姿を見せなかった。
好都合だ、と私は思った。
見送られる必要のない場所へ、私は行く。
「行ってまいります、兄さま」
「ああ。気をつけてな」
馬車が動き出した。
白んできた東の空を背に、ローゼンクロイツ邸の薔薇の門が遠ざかっていく。私はその門を、振り返らずに見送った。
ローゼリア王都を出てから、馬車は二日二晩、東へと駆け続けた。
平原を抜け、針葉樹の森を抜け、やがて道は白い斜面を登り始めた。雪山だ。空気が薄く冷たくなり、馬の鼻息が白く立ち上った。
大公国シュヴァルツヴァルトは、その名のとおり「黒き森」と「氷の山脈」を持つ独立国家。冬の入り口、春の終わりにすら、北の峰には雪が残る。
馬車の窓から見える景色は、刻一刻と私の知らないものへと変わっていった。
三日目の昼下がり。
馬車が稜線を一つ越えたとき、御者が声を落として告げた。
「お嬢さま。シュヴァルツヴァルト城が、ご覧になれます」
私は窓に身を寄せた。
雪原の向こう、岩盤の上にそびえる、黒い石造りの城。
高い尖塔、銀の屋根、銃眼のように並ぶ細い窓。窓のひとつひとつには蝋燭の橙の光が灯っていて、白い雪原の中で、城だけが内側から呼吸しているように見えた。
――凍てついた花のような、城。
それが、最初に胸に浮かんだ言葉だった。
冷たい外殻の中に、確かに温もりがある。誰かが、この城に火を灯しながら誰かの帰りを待っている、そんな造りに思えた。
「美しい」
思わずこぼれた声に、御者がほんの少し誇らしげに頷いたのが鏡越しに見えた。
城の正門前で馬車が止まると、執事のカイラスが進み出てきた。中年の、長身の男だった。漆黒の礼服を寸分の乱れもなく着こなし、深く丁寧に膝を折る。
「お待ちしておりました、アデリーヌさま。ようこそ、シュヴァルツヴァルトへ」
「お招きいただき、感謝申し上げますわ」
「未来の大公妃さまをお迎えするのは、城にとってこの上ない名誉でございます」
未来の大公妃。
その響きが、私の胸に静かに沈んだ。
ローゼリア王宮では「婚約者を妹に譲った薄情な姉」と囁かれた私が、ここでは正面玄関から「未来の大公妃」として迎えられている。
主戦場が、変わったのだ。
石壁を背に並ぶ家令たちは、年配の者から若い見習いまで歳もまちまちだったが、礼装の整え方も視線の角度も、ぴたりと揃っていた。長年仕えてきた者たちが、当主の婚約者という未知の存在を「受け入れる」と決めた、その合意がそこには確かにあった。一周目、王宮の女官たちの儀礼的な微笑みの裏に常に値踏みを感じていた私には、ひとつひとつの礼の重みがしみるようだった。
城の家令たちが整列し、私を中央に通してくれた。
大広間へ続く回廊には、漆黒の大理石の床に銀の絨毯が敷かれ、両側にはシュヴァルツヴァルト歴代当主の肖像が並ぶ。私はその一枚一枚を、視界の端に焼き付けながら歩いた。最後の一枚――黒髪、血赤の瞳の若き大公の肖像の前で、私は少しだけ立ち止まった。
「絵師は、私の眉を吊り上げすぎている」
背後から、低い声がした。
振り返ると、回廊の奥、暖炉の前にノクトさまが立っていた。漆黒の毛皮の外套を肩に羽織り、こちらに向かって歩み寄ってくる。
「ようこそ、アデリーヌ」
「お招きいただきまして」
「道中、寒くはなかったか」
「毛皮の襟巻きをいただきましたから」
ノクトさまは目を細めた。私の頬と耳が、雪山の冷気でわずかに赤らんでいるのを、認めているようだった。手袋を外した指先で、私の頬の輪郭を一度だけ、確かめるように撫でた。冷たい雪山を抜けてきた頬に、その指先は驚くほど熱く感じた。
*
その夜。
大公城の食堂は、想像していたより慎ましい部屋だった。長い卓ではなく、円卓。蝋燭は控えめに、暖炉の火だけが赤々と燃えていた。
給仕が料理を運んでくる。素朴で、あたたかい皿ばかりだった。鹿肉の煮込み、根菜のスープ、林檎のジャムを添えた黒パン。一品ずつ、雪山の冬を越えるための知恵が詰まった料理だった。
「アデリーヌ」
果実酒のグラスを置いて、ノクトさまが言った。
「ここは、お前の家にもなる場所だ」
私は、グラスに伸ばしかけた指を止めた。
それから、ノクトさまの瞳を見返した。血赤の瞳の奥は、暖炉の火を映してほのかに温かい色をしていた。
「ありがとうございます」
声が、わずかに掠れた。
私は膝の上で、指先を静かに組み直した。一周目、生まれた屋敷にも、婚約者の手紙にも、王宮の控室にも、私の居場所はなかった。あの絨毯の上で死ぬまで、私は「誰かに必要とされる役」だけを生きていた。
ノクトさまは、その役ではなく、私のための場所を、この城に用意していると言った。
「不都合があれば、すべて言え。家令には、お前の言葉を私の言葉と同等に扱うよう、すでに通達してある」
「そこまで」
「お前を、客として遇するつもりはない」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
私は果実酒に唇を寄せ、雪解けのような甘さを味わった。冷えた頬に酒の熱がのぼっていく。
窓の外では、雪が静かに舞い始めていた。
ローゼリア王宮の派手なシャンデリアの下では決して感じられなかった、深い、深い静けさが、私を包んでいた。
暖炉の薪が一度ぱちりと爆ぜると、ノクトさまは円卓の向こうから、ほんの少しだけ椅子を寄せられた。指先の届く距離まで近づいたわけではないけれど、暖炉の火の熱が私の腕にだけ偏って届くようになる、ちょうどその距離だった。
「お前は、ここにいる間、誰の機嫌も取らなくてよい」
「機嫌を、取らなくて」
「家令にも、私にも、この城のいかなる者にも、だ」
私は、果実酒のグラスの縁にそっと指を当てた。ガラスの曇りに、自分の指先がうっすら映る。一周目、私はずっと、誰かの機嫌の細波を読んで生きていた。後妻の不機嫌、父の沈黙、王太子殿下の微笑みの濃淡。読み損なえば、どこかから刃が来る、そう信じて生きていた。
「……分かりました」
その短い返事は、自分でも驚くほど素直に唇から出た。
私は、初めて「家」と呼べる場所の入り口に、立っていた。
(第八話 了 / 約5,100字)




