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死に戻ったので元婚約者は義妹に譲ります 〜お似合いのお二人ですから、最後までご一緒にどうぞ〜  作者: 鷹居鈴野


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# 第七話 未練の影

# 第七話 未練の影



 王宮図書館の樫の扉を押すと、古紙と蜜蝋の匂いが鼻先に流れた。



 高い天井まで届く書架は、いつ来ても私を圧倒する。アーチ型の窓から落ちる午後の光が、塵の粒を金の粉のように浮かび上がらせていた。司書に閲覧許可証を見せ、私は奥の禁書架へと続く石の階段を下りた。古代魔術書の閲覧許可は、王家直筆の許諾印が必要となる稀少なものだ。ノクトさまの口添えがなければ、私のような侯爵令嬢が一人で立ち入ることなど叶わなかっただろう。

 目当ては、《見極めの瞳》に関する古文献だった。一周目の私は、自身の血に眠るこの素養を最後まで知らずに死んだ。二度目の今、わずかにでも手がかりが欲しい。

 階段の下りきった先の廊下は、地下の一段低い場所にあるのか、空気がひやりと湿っていた。壁の燭台に灯る蝋燭は、王宮図書館の他の階のものより細く、芯が長く切られていて、揺れる炎は橙というより青みがかった白に見えた。私はその青白い光の中を、靴音を立てぬよう絨毯敷きの中央を選んで歩いた。



 禁書架には、《見極めの瞳》以外にも、王家が慎重に扱ってきた古い記録が並んでいた。棚の奥、鎖で束ねられた一角には、大陸東方の古代王朝が滅びる直前に用いたという「魂を核とする兵器」、人でも獣でもない、古代魔術で編まれた戦の道具についての記述が、断片的に残されていた。滅びた王朝の技術がどこかへ流れ、いまなお大陸のどこかで眠っているという噂は、司書の間でも半ば眉唾の伝説として扱われている。メルクリウス帝国の建国神話にも、その技術の欠片が関わっているという説があるのだと、書物の余白に誰かの走り書きが残っていた。私はそれを一瞥しただけで、目当ての書架へと歩みを進めた。今はまだ、自分に関わりのある話とは思えなかった。



 書架の通路は、人ひとりがすれ違うのがやっとの幅だった。

 革表紙の背に指を滑らせ、目当ての一冊を探していたとき、私は、書架の隙間から漏れる蝋燭の光がいつもよりわずかに揺れているのに気づいた。司書が燭台の芯を切ったあとの、安定した揺らめきではない。誰かが書架の向こうで、息を潜めて立っているときに起こる、空気のかすかな揺れだ。

 奥の角で、衣擦れの音がした。

 司書ではない。司書はもっと小刻みで丁寧な足音を立てる。

 これは、待たれていた者の足音だった。



「アデリーヌ」



 名を呼ばれた瞬間、私は背筋がうそ寒くなるのを感じた。

 あの日と同じ抑揚だった。

 控室の絨毯の上、私の耳元に落とされた声と、寸分違わない響き。「お父さまには事故と説明を」と告げたときの、低くしっとりとした音。一周目、私が「優しい人」と信じていた抑揚は、こうして名を呼ぶときにこそ、いちばんはっきり露わになるのだと、今は知っている。



 振り返らずとも、声の主は分かった。それでも私は、ゆっくりと顔を上げた。書架の影から、白磁のような輪郭が現れる。金髪、碧眼、薄く整った唇。ヴィクトール・ローゼリア第一王太子殿下が、書見台に肘をつくふりをしながら、私の到着を待ち構えていたのだった。



「殿下。このような場所で、お珍しい」



 私は淑女らしく膝を折った。心臓は、自分でも呆れるほど落ち着いていた。一周目で何度この方の声を「優しい」と感じただろう。今は、その音色のひとつひとつが、絨毯に散った薄紅色の液体を私に思い出させるだけだった。



「珍しいのは、あなたの方だ。古代魔術書など、令嬢の読み物ではない」



「学問に身分はございませんわ」



「ふふ。相変わらず、あなたは弁が立つ」



 弁が立つ、という言葉に、私の喉の奥が微かに締まった。

 一周目、私の弁はこの方の前ではいつも閉じていた。婚約者として「殿下」と呼び、「お言葉のとおりに」と頷くだけの口だった。今、私の口は閉じない。閉じる理由がないからだ。



 殿下は微笑んだ。三年前、王宮の春の儀で私を「運命の人」と呼んだときと、寸分違わぬ表情だった。あの日、私はこの微笑みを心から信じた。今は、笑みの下にある計算の硬さが、はっきりと見える。

 ノクトさまから授かった、《見極めの瞳》の使い方の手ほどきがあるからだ。瞳に魔力を薄く纏わせれば、人の魂の輪郭が朧に視える。殿下のそれは、痩せ細り、鉛色に淀んでいた。



「アデリーヌ。やはりあなただ」



 殿下が一歩、踏み込んだ。書架の影が二人を呑み込む位置に、巧みに私を追い込みながら。



「リリスとは、政略でしかない。あの選定の儀は、シュヴァルツヴァルト大公の横槍でこうなっただけだ。本来あなたは、私のものだったはずだ」



 ああ、と思った。

 ああ、この方は、こういう顔でこういう声を出す。

 あの日、控室の絨毯の上で「お父さまには事故と説明を」と告げたときの抑揚と、まったく同じだ。声を低めて、唇の角を少しだけ上げて、相手の警戒を解こうとする癖。



「殿下」



 私は口を開いた。



「あなたは、妹の婚約者です」



「アデリーヌ。聞いてくれ」



「殿下が春の儀で指名なさったのは、リリスでございます。あの儀式の前後、書類への署名も、教会への奉納も、すべて殿下ご自身の手でなさいました。誰の横槍が入る隙もない、ご自身の決断ですわ」



 殿下の眉が、わずかに歪んだ。

 その歪みも、覚えがある。一周目、私が婚礼前夜に「最近、リリスとずいぶん親しくしておいでですね」と尋ねたときに、ほんの一瞬よぎった表情。あのときは見間違いだと自分に言い聞かせた。今は違う。



「あれは、大公が」



「シュヴァルツヴァルト大公さまは、私を保留指名なさっただけです。殿下が義妹を選ぶことを止めはなさいませんでした。止められなかったのではなく、殿下が止まらなかったのです」



「アデリーヌ」



 殿下の手が伸びてきた。

 書架の影、壁を背にした私の腕を掴もうとする動きだった。あの日、絨毯の上に倒れた私の頬を撫でた手と同じ、長く白い指。



「殿下、私はあなたの未練を慰める道具ではございません」



 その手が私の二の腕を掴んだ瞬間、私は声を低めた。



「リリスをお選びになったのは、ご自身の決断ですわ。妹の婚約者となられた以上、殿下のご感傷は、殿下お一人の胸の内で処理なさるべきものです」



「私が、感傷だと?」



「ええ。それ以外に何があるとおっしゃるのです?」



 私は冷たく笑んだ。鏡越しに練習した、十六歳の私には作れなかった笑みだ。



 書架の影と影の間、誰の目にも映らない場所で、人ひとり分の体温だけが私の腕に集まってきていた。一周目の私は、この方の体温を「未来の夫の体温」と疑わなかった。今は、ただの不快な熱としてしか感じない。布越しでも、肌が拒んでいるのが自分で分かる。



「殿下、お手をお放しください」



 返事を待たず、私は殿下の手を冷たく振り払った。布越しの感触すら不快で、ドレスの袖を払う仕草に一瞬、嫌悪が滲んだ自覚がある。それを隠さなかった。



「あなたの妃となるリリスは、私の妹です。妹を裏切ろうとなさるあなたを、私は決して赦しません」



 殿下の碧眼に、初めてはっきりとした苛立ちが走った。一周目、私の前ではいつも穏やかさで覆われていた瞳の奥の色だ。ようやく見えた、この方の素顔。



「赦さない、とは大きく出たな。アデリーヌ。あなたの父君が誰の庇護を必要としているか、お忘れか?」



「忘れてはおりません。だからこそ申し上げているのです」



 私は一歩退き、書架と書架の間の通路へと身を逃がした。



「殿下、この通路はもうじき司書が通ります。淑女と王太子が二人きりで密談している姿を、見られたくはないでしょう。リリスの耳にでも入れば、聖女覚醒の儀どころではなくなります」



「――」



 殿下の表情が、凍った。

 聖女覚醒、という単語に、明らかに反応した。私が枢機卿との密談を知っているはずがない、と思っていたのだろう。それでいい。種を一粒、転がしておく。芽吹かせるのは、この方ご自身だ。



「では、ごきげんよう」



 私は深く膝を折って、殿下に背を向けた。書架の通路を、急がず、振り返らず歩いた。背中に視線が突き刺さるのを感じたけれど、足音は追ってこなかった。司書の足音が、奥の角を曲がる気配がしたからだ。

 この方は、決して「人前で」失態を犯さない。いつだって陰でだけ手を汚す。だから一周目、私は最後の最後まで気づかなかった。

 書架の角を曲がり、目当ての古文献を一冊だけ手に取った。革表紙の手触りは、思っていたよりひんやりとしていた。長く誰にも触れられず、地下の冷気を吸い込んできた本だ。表題は古代王朝期の言葉で記されていて、その上から司書が銀の細字で「クロイツ家の魂に関する考察」と添え書きをしてくれていた。

 私はそれを胸に抱えて、図書館の階段を上った。背中に殿下の気配は、もう残っていなかった。



 *



 図書館の門前で、銀の馬車が私を待っていた。

 車体に刻まれているのは、シュヴァルツヴァルト大公家の紋章、双頭の鴉。御者台に座っていた執事は、私を見つけると一礼して扉を開けた。



「アデリーヌさま」



 車内の薄闇から、低い声が落ちてきた。

 ノクト・フォン・シュヴァルツヴァルト大公さま。漆黒の髪、血赤の瞳。私の保留指名者は、私が乗り込むのを待たず、自ら手を差し伸べてくれた。

 その指先に手を預けて車内に入ると、扉が閉ざされた。馬車が動き出す。



「触られたか」



 ノクトさまの第一声が、それだった。

 私は思わず微かに笑った。ご挨拶も、世間話もない。婚約者となって日が浅いというのに、この方の言葉はいつも私の核心だけを撃ってくる。



「ええ。腕を、ほんの少し」



「振り払ったか」



「振り払いました」



 ノクトさまは、わずかに頷いた。それから車窓の外、王宮図書館の白い石壁の方をひとつ睨んだ。瞳の奥に、氷の刃のような光が走るのが見えた。怒り、という感情が、この方の場合は熱ではなく、鋭い冷気として表に出る。



「次に触れたら」



 低く、よく通る声だった。馬車の振動の中でも、はっきりと聞こえた。



「彼の腕は、彼の体から離れる」



 私は、息を一度のんだ。

 冗談ではないことが、この方の魂の輪郭から伝わってきた。鉛色に淀んでいた殿下のそれと違い、ノクトさまの魂は鋼のように整っている。冷えてはいるが、私を包む面だけが、わずかに温い。



「殿下のお手には、私の母から受け継いだ氷青の瞳が映っておりました。それで充分でございます。腕を切り落とされなくとも、殿下はご自身で身を持ち崩されます」



 私は、腕を掴まれた箇所を、布の上からそっと押さえた。指の形が残るほどの強さではない。けれど、感触の記憶は、肌の上にじっとりと残っている。あの控室の、絨毯に倒れる前に頬を撫でられた感触と、まったく同じ温度。

 ノクトさまは、私のその仕草に気づかれたようだった。お手にしていた手袋を、私の手の上にそっと重ねてくださった。布越しに、別の人の手の感触で上書きされていく。あの夜とは違う温度に。



「お前は、本当に手を汚さないのだな」



「汚す価値もございません。あの方は、ご自身の選んだ妹の傍で、ご自身の選んだ罪に沈んでくださればよろしいのです」



 ノクトさまは、ふっと唇の端をゆるめた。微笑というには小さすぎるけれど、確かに笑みだった。

 私は自分の指先を見た。殿下に掴まれた感触が、まだ袖に残っているような気がした。けれど、ノクトさまの指先に預けたばかりの手の温もりが、それを上書きしていく。

 あの日と同じ顔で、あの日と同じ抑揚で、私を呼ぶ男がまだ王宮にいる。

 あの夜と違う、私はもう、その手に手を取られない。



 馬車は、王宮の白亜の門を抜けて、街道の並木道へと出た。春の柔らかな緑の中、銀の車輪が静かな音を立てていた。

 窓の外を流れる景色を眺めながら、私は袖口を少しだけ整えた。殿下の手が触れた布の繊維が、ほんのわずか皺を残している。屋敷に戻ったら、このドレスは焚き付けに回そう、と思った。母の遺した衣装ではない、社交用のひと揃え。後妻イザベラが「お似合いでしてよ」と勧めた一着だ。布の繊維にすら、あの方たちの気配は染みついている。

 ノクトさまは、それきり何も問わなかった。馬車の振動に身を委ねるような姿勢で、ただ私の手の甲だけを、外套の裾の下で包んでくださっていた。

 車輪の音だけが、いつまでも途切れず続いていた。



(第七話 了 / 約4,900字)



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